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メモ:アメリカのドラマで描かれる家族像についての雑感

どうも。映画と海外テレビシリーズばかり観ているただの会社員キャサリンです。今回は「メモ:アメリカのドラマで描かれる家族像についての雑感」ということで、最近作品を色々観る中で思うことを残しておこう、くらいの内容です。あくまで「雑感」です。毎年毎年この辺りはグングン変化するので、今のところ感じることは今しか書けないしなと思いまして。結論なんてものないんですけどね。自分の見え方の変化の記録として。

セクシャリティだけでなく家族のカタチも多様性
今ちょうど観ている今年の新作で、アメリカのプライド・マンスに合わせて配信されたNetflixオリジナルリミテッドシリーズ「メリー・アン・シングルトンの物語」を観ていて、改めて思ったというか。セクシャリティだけでなく、血のつながりだけでなく、ともに過ごした時間が家族としての絆を作っていく感じ。

FXドラマPOSEもそう。ボールカルチャーを通して、マザーという存在を軸に家族に拒絶されてしまった人々の家族の再構築のお話でもある。家族最高ー!というトーンとも違って、「誰かと寄り添いたい時がある、そういう時に近くにいてほしい人たち」みたいなニュアンスというか。

全米を泣かしに来て早数年。シーズン6くらいまで製作が決まった現代の家族ドラマの一角を担う作品といえば「THIS IS US」。まだ私はシーズン1しか観れていないですが・・・。こちらは血のつながりはあるけど、だからこそ歯がゆい思いをする一方、血のつながりがないからこその課題提起な作品でもあったように思う。生物学的な親子関係と、そうでない親子関係の難しさと、尊さみたいな。たんなる家族讃歌ではないというか。

移民家系の家族ドラマも増えてきたよね
Netflixを中心に、増えてきたような気がしますね~。「ワンデイー家族のうたー」とか「マスター・オブ・ゼロ」などなど。ラテン系の番組、インド系の番組って昔では考えられなくて、配信時代だからこそ生まれたし、高い人気になってるのも変化ですよね。

人種関係なく親子関係の微妙さや、大切さを描いているんですが、コメディ=面白おかしく、ではなく、きちんと家族が抱える課題に向き合って社会的なメッセージを発しているのもこれまでになかったなーと。

親子だからこそキツイ
一方で、家族はいろんな形があっていいよね!っていう流れとと共に「親子だからこそキツイ」という流れも一定あるよなーとも思ったり。

親に心配かけたくなかったり、親の過保護が逆に子ども扱い過ぎて嫌だったり・・・。親子関係だからこその脆さみたいなのもあるよねぇ、と。親は子を守りたいし、子は親から巣立ちたい、そんな中で直面する課題はもはや親子だから解決できるっていう範疇を超えることもしばしば。

「オザークへようこそ」なんかは、そこから一歩突き抜けて親子でダークサイドに落ちるわけですが、それはまた「家族」であり「親子」だからこそしばられてしまっているし、人間らしさでもある気がします。ダークサイドに落ちて成長する子どもなんかみるとなんとも複雑な気持ちにもなります。

「この親に、この子あり」と向き合う

自分の子供が、誰との子で、その子は親の何かを遺伝的に受け継いでいる可能性はもちろんあるわけです。ただ、それが単なる遺伝なのか、育った環境で表面化するのかは、決めつけれないなと思います。「ビッグリトルライズ」は、女性の表象について特に脚光を浴びたように思いますが、個人的には子どもを親が勝手に定義してしまっている、という点を引き続き考えていきたいな~と思える作品でもありましたね。もちろん親がガイドして育てていくのが子どもなんですが「うちの子に限って」という思い込みが引き起こす展開には、痺れるものがありました。子どもを信じれなくなる親、その原因を自分に突き付けるのかそれとも・・・。親の在り方、みたいなところもテレビの最盛期だからこそ、時間をかけて描かれているような気がします。

親との決別
親子関係が上手くいかない、っていうドラマが多いのは、離婚が多かったり、先にも述べた通りいろんな家族の形が広がっているからなのかもしれませんが、いずれにしても「親との決別」も良く描かれているな~と思います。

「ビッグ・リトル・ライズ」と同じ監督が手掛けた「シャープ・オブジェクト」もその中の一つかなと。毒親とのトラウマな関係が嫌で故郷を離れた主人公が、故郷で起きた事件を取材するため渋々帰郷するも、やっぱり親子関係は全然うまくいかないし、これまた本当に親がやばい。親子や家族は素晴らしい!!みたいな価値観って一昔前まで結構あったんじゃないかなと思うけれど、一定層「とはいえ、やばかったら決別してもいいのでは」みたいなところも映像化してメッセージとして発信されているようにも思います。この「親がやばい」って言うのも今後ある程度描かれていく気がします。

決別したその先に待つもの
親との決別って、とても激しいもののように思えるけれど、不仲ならば大人になれば自然と疎遠になることもゼロじゃないと思うと、明確な喧嘩が無くても起こりえるのかな、なんて思います。で、なんやかんや言って自分の親であり、人間なので老いてやがて死にます。どんなに疎遠になろうとも、最期に看取るのは家族ってこともよくあるのではないかなと。

「ボージャック・ホースマン」のシーズン5第6話は、そんなある一例を30分のコメディアニメとしては異例の演出方法で描いています。全然関係が良くなかった母との回想です。嫌いだった母親が日々老いていき、自分のことを忘れ、もはや他人のようになってしまってこの世を去ってしまう。どうあがいても塗り替えることができない過去の辛い思い出があるけれど、それがすべて終わってしまった時の素直な感情の機微ったら。家族が良いとか親子が良いとかそういうこと以上に、人と人の関係が一つ終わった時の幕引き。良かった悪かったではない、なんとも言えない美しくもあり寂しくもあり、少しほっとしたような、背負っていたリュックをふっと下すような描き方が新しいなと思いましたね。

ざざざ~っと思いつくままに書いたので、とりとめもない文章ですが。今後もこのテーマは色々考えていきたいなと思います。ではまた次回!

よろしければサポートを何卒…!貯まったら親とおいしいご飯に行こうと思います。