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アフタートーク採録〜天籟能の会・能「船弁慶」を観て

2019年6月8日の第七回天籟能の会を観に行ったときの、友人たちとのアフタートーク(感想)を採録したものです。

①音声配信番組をつくり。

②予習会をひらき。


そして迎えた当日、公演後にトークしました。

③全体のレポートはこちら。


--------------------------では、お楽しみください。--------------------------

・シテの方のオーラがすごかった。本気度が違う感。すごかった。足をほんの少し上げて、フワッとしてる感じを、たった数センチで表現しているのが、もう絶妙!前半の静かなところは予習会で「力入っちゃうところ」と聞いていたのが「わかる!!」って思いながら見てた。シテの動きがやばい。浮いてんのかなって思っちゃった。移動が人っぽくない。

・面をつけていたので勝手に判断して、てっきりものすごいおじいちゃんかなと思って見てたら、思いの他、若い人でびっくり。ぜんぜん格の違うおじいちゃんが演ってると思った。いずれにしても妙齢の男性があの若い女子(静御前)になるのがすごい。

・年代も性別もズレて、全部組み替えられるようなところが、ヴァージニア・ウルフの「オーランドー」みたい。時間も性別も超えちゃう。義経も子方(子どもが演る)。これは意識的にズラしているのか?

・義経級の役の人を稚拙な子役を舞台に上げたりって絶対しないんじゃないかな、西洋の人。極めて日本ぽい。そのあたりに傀儡(くぐつ)感ある!あの義経を子方で出す感じとか、子方のあの声の出し方とか。(※座談会で傀儡の話が出てました)

・そういえば「くぐつ草」っていうカフェが吉祥寺にありますね。

・「判官贔屓(ほうがんびいき)」っていう言葉あるけど、判官があんなん(子方)だったら贔屓せざるを得ない。「お守りいたす!」ってなっちゃう。

・能楽師の方がセリフとんじゃったところを初めて見て、感無量でした。前ジテ(静御前)が出てきていきなり間があって、プロンプター(prompter)みたいな人が、袖からセリフ教えていた。あそこに間があったのは、そういう演出的なタメなのかと思った!舞台の真ん中でセリフがとんじゃったときはどうするのかな?後見が教えるのかな?(※後見が教えるそうです)

・仕舞で、袴の裾の折れたのを後見の人がスッと直しにきているのを見て、「これが後見の仕事か!」と萌えっとした。バレエだったら、舞台でどんなに何かがあっても、脱げたら脱げたまま踊り続けるとかあるけど、「直すんだ!」という驚き。

・「黒子・後見文化」ってあるよね。日本舞踊でもそうだけど、出してるけどそこにいないっていう約束をみんなが知ってる。ちょうちょをひらひらさせてる係の人とか、「あれはいない人だから」ということになってる。いないんだけど、いる。文楽だって舞台上に20人ぐらい人形遣いがいるのに、いないことになってる。顔も出してるのに。あれもすごく不思議。いないふりとかでもなく。ふつうにいる。

・子方の子から地謡に切り替わる、「そのとき義経少しもあわてず」のところ。「入れ替わるよ」と、予習会で聞いて知ってたけど、「入れ替わるんだ!」って思った。わかってたけど、やっぱりもう一回思っちゃった!!

・その話はまさにいとうせいこうさんがしていた、話者が変わって、誰の声かわからなくなる「乱反射」の状態だったね。切り替わる前に、義経が自分で「義経少しあわてず」って言うのとか、静御前が「静泣く泣く」「静は静かに立ち上がり」って言うも、自分で言うんだ(笑)っていう。主観なのか、客観なのかがぐっちゃぐちゃになる。日本語ってそういう言語だって言うけど、まさにそれを見た感じ。主語が曖昧。「自分(私)がどう思う」っていうのはたぶんもともとない。自分以外の誰かが語るということで表現されている。自分も相手も関係なく、この場でいっしょくたに起きてる、誰の意思とか考えじゃなくて、「現象」。あるいは「動作」だけがある。渾然一体として起きてる。その現場を見た。


・いとうせいこうさんすごかった。やっぱおもしろい。すごい。まとめ方がすごい。こちらがポカンとしはじめた頃に、ちょいちょいつないでくれる。

・いとうさん、ドミニク・チェンさんに話をふったりして、動きがファシリっぽい。素でいつもされているんだろうなぁっていう、プロフェッショナリティを感じる。声もちょっと張る感じで。ご本人も「まとめちゃうんですよねぇ」っておっしゃってたけど、今やってらっしゃいましたねっていう(笑)。

・座談会のメンバーは、同じお能のお稽古している人たち。積んでる経験が客席と全然違うから、すごく話がおもしろく回っていけばいくほど、客席との乖離が起こる。それをつないでくれるのがいとうせいこうさん。「ラップで言うと」とか、わかりやすい例えを出したりして。いてほしい人。いとうせいこうさんがいたから成り立っているっていうか。いないと宇宙の話になっちゃう。すごく素敵なんだけど、こちらには見えない。見せてもらえなくなっちゃう。まぁ、いなければいないで、誰かがその役割をするんだろうけど。でも「自分が呼ばれたってことはその役目をするってことだ」ってわかっていらっしゃるあたりもプロ。

・前回の天籟能の会もおもしろかった。「小鍛冶」があって、その外側に座談会があって、その外側にわたしと友だちの感想の時間がある。入れ子構造になってる。そういえば能楽堂も、もともと外にあったのを屋内に入れちゃってるから、入れ子。

・話もおもしろすぎたし、それの前のお能も見応えがあった。もう一回見たい!ああ、そういうことだったんだ!って思いそう。別の能楽堂で、別の演者で見たらまた違うかも。

・「静と知盛は同一人物説」、おもしろかった。「シテ」って名前だから、「同じ人に両面がある」みたいな話のイメージで観た。静と知盛が同じ面があるとしたら、静って実は義経に恨みがあったんじゃないかな?いつ狂うのかな?と思った。そしたら、わりと品のあるまま退場した(笑)。そしてもっと次元の違う人が出てくる(知盛)。二人とも義経に対して、愛憎とか感情の量が多い。愛をもって接してた静のほうが義経の力が落ちて、敵のほうが上がる。

・親子関係もそうかも。愛情深く育てるっていうのはもちろんあるんだけど、憎んでたほうが育ってきた感じ?いいように解釈してるのかもしれないけど。

・引きずり込もうとする力、がわかった。自分と同じように沈めてやるっていう。「一緒にどこか逃げましょ」と「海の中に沈みましょ」っていうのは...好き。今回観たのが「船弁慶」でよかった。

・静はそんなに動いてないのに、異常なほどの葛藤が伝わってくる。動きは少ないけど、ちょっとした角度とか。「やらないこと」みたいなのをすごく感じる。それをやらないことを知っていて、やらないでおくことのほうが大変。それに耐えられるのが経験なのかな。すごい経験値を感じる動きのなさだった!

・やらないことを知っていてやらないことと、わかんないでやらないっていうのは違う。船に3人並んでこっちで起こってることを見ているシーンで、子方が「早く終わんないかなー」って感じでいて(笑)、素で座ってる。安田さんはちょっと演技入ってる。従者はニュートラルにずっといた。能が積極的に感情表現をしないっていう意味では従者。三者三様!

・あの船おもしろい。ちょっと次元の違う船頭(アイ)もいて。狂言ってやっぱりあの中にいて異色。別次元。観客と近い感じ。

・あれを「船」という共通理解もすごい(笑)。電車じゃないのか(笑)。輪っかがあって棒持った人がきたら、船になっちゃう。

・子方が素でいるよさがある。それがあっても全く乱れない安定感。子は下手にやらないほうがいいのか。やりすぎちゃうのかも。まだ「やらないこと」を選べない(年齢やキャリア的に)。自己表現したくなりそう。個性とか。「あたしの思う最強の義経!」みたいなのが出てきそう。「そのとき義経少しも慌てず」のセリフのところなんか、「キリッ」としたくなっちゃいそう。そういうのが一切なかった。自己表現でいったら、静に対してもいろいろ思っちゃうだろうけど、出さない。

・座談会で「わかるようにすると嘘になる」という話があったけれど、お稽古のときに、子方にわかるように、例えば「こうだと思って演じて」、「義経くんはここで」とか説明すると、嘘の部分が増えちゃうんじゃないかな。たぶんそんなに説明しないのかも。一つのパターンに限定されてしまう。何かを表現したら。

・子どもが大人の目を気にして、「これで合ってるかな?」とうかがったり、「よくできました」という反応を求めたり、「みんなこれを望んでいるかな」みたいなことをやり始めたりすると、プロの人の間ではわかっていたのに、ノイズになっちゃうかも。

・個々人の、小さき我々の作為を超えたことをみんなで作ろうとしてるから、一人ひとりの意識とか考えをできるだけ排除しようとしているのかなぁ?そしてうまく排除できているから、ああいうふうに成立しているのかなぁ?

・わたしの今の日々にすごくこれが必要〜!!とふりかえらざるをえない。そういうのにとらわれてぐっちゃぐちゃになっていることが多い。今の世の中で、そういうことでもつれている場面が多い気がするので、みんなでお能をやればいいのに(笑)。「鶴亀を謡ってみよう」!謡ってみようかな。

・「知盛と弁慶に通じ合うものがある」っていう話、わかるなぁ。知盛って平家の中では勇猛果敢な素敵な武将さん。立場が違えば、きっと通じ合ういい同僚になったかも。世が世ならね。同格に語り合える人たち。だから化けて出られる。弁慶を拠り所にできるから、知盛は化けてくる。見えるから姿を見せる。周波数の合うところに出る。

・座談会の冒頭に、「勝ったはずなのに、何回もトラウマに苛まれるみたいなのってなんなんだ」みたいな話があった。そう考えると、わたしたち、両方の気持ちに入って見ているけど、実は単に弁慶一派の夢オチみたいな可能性もある。そういうことを思うよね、人間って。正義の名の元に、自分はこれでよかったんだってやってるんだけど、眠れない。。。海の底から出てきて、、、ぎゃーー!!!みたいな。当時はもっと感受性はもっと強かっただろうから、実際見てたのかも。

・うじゃうじゃーって海面に死体がうわーって浮かんでるみたいな感じとか、それを見て、船から「ハッ」となってるところに、こちらもビクッとなる。舞台には誰もいないんだけど。そこがすごいなって。

・自分の心当たりにも出くわしてしまう。ちょっと斬っちゃったとか、やってやった!みたいなことがあって、でも後味が悪い、、みたいなこと、わたしにも思い当たること、ある。

・そのへんを昇華しないと生きていかれないんだろうな。しょっちゅうだろうし。ある程度形にすると発散するとか。思い出すとかしないと、生きていけないのでは?

・最初の段階では、思い出しもしない、という段階があるかも。源氏だったら、平家をやっつけて自分たちの時代は栄華を極める。それでちょっと落ち着いた頃に夢枕に現れる、とか、プロセスがあるかも。

・義経、弁慶が追われている立場だからこそ思い出すのでは。「このことだったか」「こんな気持ちになるんだな」みたいな。やられている立場になったから、似た感情が出たところで頼れられて、知盛に出てこられちゃう。

・シテの方が、座談会の途中で出てこられて、安田さんからあるシーンで「どういう意図であの動きをやったのか」と質問されていて、「あーっ!」と恥じらっていたのがかわいかった。

・シテの方が、あれだけ静の気持ちとか、いろいろ考えて、いろいろ思って、でも能には全然出ないのがすごいと思った。能の演者が、意図や考えをあれだけ細かく話してくれるのは、なかなかないことだと思う。

・ダンスとかバレエとか、「もっとあなたを出して!あなたが見えない!」みたいな方向性の芸能と違う。自己表現じゃない。やっぱり傀儡的な。そこに型と面と衣装で、側(がわ)だけ見せる。役でもなければ、その人自身の能楽師でもないものとして、能の中で、舞台の中で存在するという、この構造の深さにおののく!!やられた!

・演者のカタルシスはどっちのほうがあるんだろう?自己表現(マイワールド!)があるほうと、お能的なほうと。自分を出したい!となったあとに、それどうでもよくなるのかも。同じところにたどり着くのかも?型をやりつくした!と思ったらそこに自分がめっちゃいた、とか。そこも渾然一体となる。能は、すべての境界線が消されてる感がすごくある。自分と役とか、相手と自分とか。なんならあそこにいるのはわたしじゃないか、とか。視点が切り替えるのも。全部溶解させていく。自我を持ちながら境界線を超えたら苦しい。狂っちゃう。

・やっぱり今の時代に必要ですよねぇ、能。ほんとに。

・これを読み解くのは、かなりのハイコンテクスト。かなり予習で教えてもらったからこれだけわかるのか?

・いや、たぶん昔の人はやってたんじゃなくて、意味はわかんなくていいから、先生の一節謡うのを真似してぼーっとやってた人が、人口として昔は多かったのでは。なんとなく節や意味を知ってる人が体感できるのが大きかったのかもしれない。解説書がすごくあったとかではなく。みんなが体感してたから、あれによって受け取れたのかもしれないから、やっぱり「やる」のがいいんじゃないかと(笑)!!やると全然違う、見方が。

・「言ってることがわかるようになる」って誘い文句が魅力的。単語でしか今拾えなくて。英語とか外国語を聞いてるみたい。文で読むと古語だからわかるだろうなと思ったんだけど、わからない。ひらがなの部分がわからない。名詞はわかるんだけど、つないでしか聞けない。これ習得したい〜 夏休みやろうかなぁ。

・そもそもわかるように言ってるのか?説もある。当時の話し口調じゃなくて、当時も「お能としての謡」だったり、お話だったりする。当時もよくわかんなくて、それに自分の見たいものを投影していたのでは、という話もある。狂言の人は明確だからやればできる。花魁の言葉みたいに、本当はないものをやる。何かを消すためにやってるのかも。

・船のことを「プネ」と言ってた。お返事も「オペンジ」になってた。「この時代はPH発音なのに、P発音になってる!」って思った。P発音は前時代のもの、奈良やそれ以前。室町はPH(ファ、フィ...)発音。日本語教育の現場より(笑)

・ハングルって確か「ファフィフュフェフォ」が、「パピプペポ」、「オフィス」が「オピス」とか、だったかも。似てる。今でもP発音は日本(ニッポン)とかで残ってる。幽玄、神様、異国、昔のことを説明するのに、今と違うという表現として、P発音を使ったのかもしれない。

・仕舞やってみたいけど、あんなふうにスッと立ち上がれない。やったらハラがすわるだろうなぁ。あれがないと仕事も戦もできなかっただろう。

・「項羽と劉邦」とか、番組が萌えるよね。歴史好きにはたまらない。ドラマチック。すてき。

・わたし競技かるたやってるときも、自然のストックを総動員して暗記してることに気づいた。この札がここの場所にあるっていうことを、一旦その情景をバッと立ち上がらせる。0.0何秒とかで。そうするときに自分の中の心当たりの自然の体感とか。このへんで紅葉が、このへんで雪とか、感情の色とか、、それをぴこんぴこんぴこんーとやって。相手陣の紅葉と種類が違う、山が違ったり詠み手が違ったりして違うその紅葉を呼応させたり。きょうはそういうのを使って、能を観てた。

・仕舞がヤバかった。出てきた瞬間泣く。見渡したら景色がいっぱいに。あの人の視線どおりに。花びらを掬って...えーん、息子よ...(泣)って。

・仕舞、心地がよかった。一瞬で終わっちゃった。

・あんなふうに表現できる可能性が人にあるってすごい。普通の着物と袴を着ているだけなのに。表面上、観客からの感情移入を徹底的に絶ってる。バレエだと、装置としてできることは限りなくやりますって感じとは全然違って、でもあれだけ情景が出てくるのはすごい。それをわたしたちが解せるっていうのがまたうれしい。桜がぶわーっと水際で花びらが散ってるのを、見たことがあるからかなぁ。

・でも、見たことがないフランスの人でも感じ入れる。桜じゃないかもしれないのかも。また別の花なのか。徹底的に説明を排除されて、見せられたときの解放感は、うちら以上にありそう。がっつりとした約束事がめちゃ多い舞台芸術の国の人にとっては。それはそれで良さはいっぱいあるんだろうけど。

・座談会で内田樹さんが言っていた「それぞれの民族に、それぞれのアドバンテージがある」の話があったのは救いだった。「和、ブラボー!」みたいになりがち。「日本人でよかった」って言われたときにドキッとしたけど、固有の素晴らしさを語ると同時に、それはどこの地域の人たちにもあるものだっていうのを同じ時にテーブルに載せてくれたのが、さすが内田樹さん!

・「叱ってくれる人がいるのがありがたい」っていう話もよかった。すっごいわかるー。バレエの先生が30になってから習ってたすっごい厳しい先生だった。こんな未来のない人に厳しくしても、子方じゃないんだから。わたしも会長に「攻めないとだめだよ」って言われて、「はい!(きゃあ!)」みたいになって。わたしに声かけてくれることってあんまりない。若い子を中心に教えてるから、すごいありがたくなっちゃって「攻めます、わたし」って思って。

・それも個対個じゃないのかなぁ。この人に未来があるかどうかじゃなくて。師匠から見たら。「師匠ってメディアでしかなくて」っていう話が座談会であったけど、芸自体の養成で、メディアとして仲介して言ってるだけでは。

・こっちの心持ちの問題で、ちょっと卑下してるところがあるかも。

・何人かの先生に習ったときに、「あ、いいですよ〜」っていう優しい先生もいたんだけど、厳しい先生になったときに、この先生は一緒のところを目指そうとしている。指じゃなくて、星を見ようとしてる、と思った。他の先生は「今ので十分素敵ですよ〜」と言ってくれるけれど、「でも習いに来てるってことは何かを改善しよう」として来てる。やっぱり一緒に星を見たいのよ〜。

・わたしそれすごく大事だと思う。優しくするってたぶん星が見られないという前提。星は見られないけれど、「よりよいものを見せてあげたい」ってことなんだよね。違う位置にいるし、見られないっていう可能性が閉じた状態でやってる。

・一緒にレッスンやってる人の中には、「わたしもこの歳だから星見る必要ないです」って言う人もいる。いろんな気持ちがあるから、その先生のやり方が好きな人が残っていく。そういうので先生選びをする。

・自分の求めているものと、温度が合う、師匠なりチームなり、一人じゃなくて集団。それをどう見つけるかっていうのが人生の課題。見つかったときの喜びったらない。きっと求めていたら見つかる!

・病に倒れるとか、余命宣告されるというときに、星を見る、みたいなお医者さんとか医療チームと一緒にやっていったほうが、最後まで幸せに生きられるんじゃないかと思った。ほんとにその人のQOLなのか、医療の技術という星を見るのか。サポートされてるだけじゃなくて、サポートする側も、一緒に星に近くことができるのがいいな。

・昔ってお能も外だった。昼も夜もやってた。夜は薪を炊いて、最後の曲に出てきた鬼の目が「きらーん!」みたいな。薪能みたことあるけど、薪の雰囲気にやられて、中身はあんまり覚えていない。素敵な感じだな、みたいな。すごい引きで見てる感じだった。暗いし、がっつり見るっていうよりも。

・神社で奉納の能ってやってる。観客のためというか、神様のためのものだから、観客都合ではできてない?それ本位に作られてないのが前提、でいいのかな?奉納の場合も、そうじゃない場合も?神事に近いのかな?

・宗教的な空間。何もわからなくても、ちょっとそういう感じあった。いろんなものが張られてる?形が結界。いとうさんが「北斗七星」と言ってたけど。また印象に残ることを言うよね〜!!

・松の絵の形って能楽堂でそれぞれ違う?銭湯の富士山みたいに、ちょっとずつバリエーションがあるのか?ちょっとした色やディテールの違いはあるかな。ああいうの描く専門の人いるのかな?どういうときに変えるとかあるのかな?御遷宮みたいな?

・いろいろ、今さらながら、みんなで話したらいろいろ行ってみたくなっちゃった。喜多能楽堂の二階席とか。蝋燭能も行きたい。トリップしそう。二子玉川ライズ薪能、、よさそう。

・巫女系で山伏修行行ってる人がいるって聞いたけど(笑)。ここにいます(笑)。

・子方の子、うちの子ぐらい?10才ぐらい?終わったら回転寿司連れて行ってやるから、とか言われてるのかな。狂言の「甥」役の人も前途有望な感じだろうなぁ。「育て系」入ってくるのかな。ファンのみなさまに育まれ、見守られて、大きくなっていくのかな。

・「船弁慶」を書いた人が、世阿弥の甥らしい。世阿弥の夢幻能は古い、もっと新しいものをといって、作ったのが「船弁慶」だったと予習会で聞いた。今回の狂言の伯父と甥の関係とも通じる。ほんとやったったって言ってるし。「勝ったぞな〜」って。その勝ちでいいんだ(笑)。嘘とかとんちで推移してたかと思ったら最後暴力か!衝撃展開だった。急にそこでお終いにして去っていく感じが雑だな〜(笑)。能の丁寧さ、微細な感じに比べたら、狂言のおおらかさがたまんない。織り交ぜてくるところがいいのかも。救いになる。コミックリリーフ的な。全部ずっと能だったら緊張でもたない。ちょっとホッと息がつける。どっちもほんと。世界をどっち側から見るかっていうだけ。

・狂言と能の曲の組み合わせは都度都度違う。取り合わせの妙がある。誰が決めてるんだろうね?出演者が決めるの?どういう興行スタイルになっている?歌舞伎も役者さんが演出もやる。そのへんから委ねられている?能楽堂ではなさそう?流派とか会によっても何かあるのかも?

・仕舞おもしろい。桜川よかった。予習会で「バレエで言うとグラン・パ・ド・ドゥだよ」とか言ってて、さらに冒頭に「能のエッセンスが仕舞だ」って言われて見てるからよかった。最初の解説もよかった。あれぐらい中身を説明してもらってちょうどいいぐらい。ネタバレとかない。べつにストーリーで見てないから。

・やっぱり「百聞は一見に如かず」だなぁ。とはいえ、お話なしで観たら全然受け取れなかったと思う。それで受け取れなかった経験をたくさんしてる。存分に楽しめた。橋をかけてくれる人の大切さがわかるジャンルもなかなかない。長らく行けなかった。音楽だとそこそこ心地よさとかある。マニアックなものはともかくとして。能ってやっぱりとっつきとしては難しい。

・あらすじ、みどころをわかっていて、その先に見えるものを見てほしいから、ここは言っといてあげたほうがいい。何も知らずに見ると、あらすじやみどころのベースをつくるところからだから。その先までいけない。ベースをまずもらっておいて、楽しめる。


----------------終わり----------------