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15分片付けからの考察(変化と場づくりについて)

10日間かけて書類を少しずつ片付ける、というプロジェクトに参加していた。

予定の期間は終わったけれど、その後も「15分ちょっと気になるところを片付ける」は継続している。

さらに確信を深めたことが2つあるので、ここに書き留めておきたい。
(わたしの実感の話なので、他の人に当てはまるのかは不明)

1つは、《変化に気づく》

書類片付けプロジェクトの少し前に、「片付けられない人は実は完璧主義」という、友人の書いた記事が記憶に残っていた。

わたし、前はこんなだったなーと思った。2年ぐらい前(けっこう最近だな...)までこんな感じだったかも。


「変化を"目に見えて"実感したい」という焦燥感がある。そしてその出元を辿っていくと、「今の自分でなくなりたい、まったく別の自分に(変質どころか)変更してしまいたい」という呪いがべったりと横たわっている。

この呪いは、「15分でできるところまで片付ける」などという少々の変化では解けない。わたし自身が気づくほどの大きな変化。がさっとして、まるっとして、ばしっとした変化。自分の内側は不安でいっぱいなので具体的な描写は出てこない。仕方がなく外側にある、すでに他の人がやっている手法や見た目にすがることになる。それができるようになれば、何かが変わるんじゃないか?という思考。

その一方で、今の自分を否定していて、自分の感覚への信頼もないので、もしそれに近づけようとしても、「"どうせわたしがやっても同じようにはできない、片付かない、変わらない"と思いながら徹底的にやる(やろうとして挫折する)」という二重三重にねじれたことをやってしまう。

これはあらためて書いてみても、たいへん辛いことだ...。

逆に、自分への信頼ができてくると、少しの変化も感じ取れるようになる。「15分でもけっこうスッキリした」と思えるのは、ここだったのだ。

「目に見えて変化している」がほんの少しのことでわかる。視界の解像度が高くなって、目がよく見えるようになる。少し移動させるだけでも、一つ捨てるだけでも、違いを感じられる。

そしてその違いをあるがままに主観的に感じ取り、受け取り、客観的に評価できるようになる。
明け渡していた自分の真ん中を、自分に取り戻す、回復することと、片付けが連動していく。

それがたぶんこのへんの話とつながる↓


もう1つは、《同じことをやり続ける場(機会と関係性)》

15分を10日間。
毎日気づいたことをチャットスレッドで報告し、フィードバックを得て、他の人の動きを感じていた。
わたしは、公に見られる記録として、ここにも残していくことをした。

それがよい体験としてわたしの中に残っている。
だからきょうも、「じゃあ15分お気に入りのストップウォッチでタイマーをかけて、目についたところをできるところまでやって、ちょっとだけでも気分よくなってみようかな〜」と思える。

やってみたらいいことしかない、とわかるってすごい!!

手法だけインプットしても(知っていても)こうはならない。
やってみる、練習してみる、という機会。
それを「やりましょう」と声をかけて応援していてくれる人や、「一緒にやろう」と言ってくれる仲間がいてくれてこそ。

人が介在してくれるから、体験できる。

そこには、場をつくることの価値をわかっている人がいる。
そこでやることにおいての(この場合なら片付け)、独自の理論を持ち、プロフェッショナリティをもって、自らの言動行動の責任を引き受ける覚悟のある人がひらいているということが大きい。
今回の整理収納アドバイザーのあんらくまさみさんがやってくれたことだ。

この反復と継続の効果は、これまた3年前のわたしだったらわからなかった感覚だ。それが、競技かるたをはじめたおかげで、身体からまず、そして頭でも心でも理解できるようになっている。
同じことをただ繰り返していく中で、毎回の違いに気づいていける。

さらに重要なのは、「上達している」という感覚を得ていくこと。
そこにある喜びをたっぷりと味わうこと。
その過程を聴いてもらう、聴き合う、確かめ合う場も持つ。
それを経て、少しずつ自分の技術、知恵、軸ができていく。

これは、同じレシピで何度も何度も調理して、家族に食べてもらってフィードバックを得ていくうちに、だんだんレシピを見なくても作れるようになっていくのにも似ている。
「今晩何を作ろうか」というときに、いつでも取り出し可能な身体の動きがあるような、深く思考する前に身体が動いてくれるようなイメージ。
レシピという情報に庇護を求めていたのが、人とのかかわりあいを含めた体験を経て、次第に身体の中で自立していく感覚を得ていく。


最後に添えておきたいのは、

情報、知識、手法に意味がないわけでは全くない。記事や書籍や番組や講座の形で定着され、公に流通しているからこそ、その知が共有できるし、分野やテーマへの橋が渡してもらえる。

受け手が美味しく食べて栄養にしていくために、実用品として生活の道具にしていくために、生の希望を湧かせるために、生身の人間が介在する場が、より効果や広がりを生む。豊かなつながりと循環。

それぞれの「専門」をもって、人生を通して探求するお役目を分担している。その営みをもっともっと多くの人、いろいろな人と祝福しあいたくて、わたしは「表現と鑑賞の場づくり」と言い続けている。


きょうはここまで歩いてみた。