見出し画像

こどもなんでも電話相談室

5年前、二人暮らしをはじめてしばらくした頃、息子はずいぶんと荒れていた。
引越し先は以前暮らしていたまちからはそう遠くないし、遊びにきたこともあるまちだけれど、それでも大人の感覚からしても、「遠くにきた」。その上、まったく友だちのいないところでの小学校への入学。そして学校のあとの学童...。

新しいまち、新しい家、新しい人間関係、わたしと二人きりの生活。
ストレスがキャパを超えるのも当然だ。

わたしも新しい生活の土台を作るのに必死だったし、次々とやってくる課題、しかも今までの人生で遭遇したことのない難問に直面し、全部を一人で責任を負うプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。

もちろん誰かにリクエストを出して、手伝ってもらうことはできる。
でもそれは、リクエストが出せる状態になっているということだ。そこまで行くのが難しい。


そもそも、「今どうであるか」の現状把握をして、「どうしたいか」を持ちながら、「これが必要だ」とわかり、調べて、比較検討して、決断する。リクエストが出せるのは、その後の実行あたりからだ。それもごく一部。実行したあとの対応も自分。自分がどうにかするしかない。誰かに助けを求めるのも全部自分が起点。こういうとき家の中に大人が一人って誠に辛い。

独り暮らしのときであればなんとも思わずできていたこれを、自分の人生を再構築しながら、家庭を運営し子を育むという責任を一人で負いながらやるのは、大変厳しい。カウンセラーや、親身になって聴いてくれる友人たちもたくさんいたので、精神的には大変支えられたが、肝心のことについての具体的行動は自分でする、というところは変わらない。

元気になってくれば、「一人でマネジメントできる」というポジティブな精神にもっていけて、自由と責任の両方を楽しむことができるのだが、当時はもう全くそんな心境とは程遠かった。

こういう気持ちを味わったので、困難を抱えている人に対して、「無理せず」とか「いろんな人に頼って」と気軽に言えなくなった。言えないというか、定型文のように使うことはやめ、別の言葉や態度や行動で表現したり、その人とわたしとの間の関係性から言うようになった。


前置きが長くなった。


わたしや家庭がこういう時期に、その構成員である息子も安定しないのは当然だった。いろんな人が助けてくれたのだが、二人きりになる時間が日常のメインだ。どうやって過ごすかということに、毎日苦慮していた。

そんなときにふとやってみたことが、「こどもなんでも電話相談室」というごっこ遊びだ。

息子を相談員さんに仕立てる。こどもにまつわる大人の悩みを「電話」で聴いてくれる人だ。
わたしは息子にまつわる悩みを、相談者として相談員さんに電話する。

こんな感じに。


私: ♪プルルルル、♪プルルルル、もしもし、こどもなんでも電話相談室ですか?

相談員(息子):はい、そうです。どうしました?

私: うちに小学2年生の息子がいるんですが、最近怒りっぽくて。

相: どんなふうに。

私: 「きょう晩ごはん何食べたい?」と聞いても「うるさい!」と言ったり、ごはんを出しても「食べたくない」と言ったりして泣いたりして、困っています。困っているっていうか、せっかく作っても食べてくれなかったり、うるさいって言われると悲しいです。息子は今どんな気持ちなんでしょうか。相談員さん、どうしたらいいでしょうか?

相: あー、そういうときはですね、あまり構わずに、一人にしておくといいんじゃないですかね。

私: 放っておくのも心配なんですけど。

相: 大丈夫です。そういう時期です。

私: わかりました!助かりました。ありがとうございました!(ガチャ)


しんどくなるとこれをやっていた。もちろん、のってくれないときもあったけれど、「思いつくことはなんでもやってみる」の一つに入れていた。

息子もしんどかったんだろう。どうしていいか自分でもわからないという感じだったと思う。なんでも電話相談室で少し気持ちがほぐれることがあったようだ。

このやり取りの中では、「イライラするときって、だれかが悪いとかじゃなくて、単にお腹が空いているとかだと思うんですけど」など、「知っておくと損はないぞ」という知恵も紛れ込ませたりした。実際、「お腹が空いたからイライラする」のことは、その後も息子自ら、折にふれて思い当たってくれていて、今も大変助かっている。

お互いにいつもの自分のままでは話しにくいことを、役を演じることで伝えたり、受け取ったりすることができる。

演劇の力ってやっぱりすごい!
すごいし、鑑賞するだけではなく、こんなふうに日常に取り入れることのできる技術でもあるのだなぁと、そのとき発見した。


そしてまた、今書いていて思うのは、こういう一番しんどいときにこそ発動される遊び心、ユーモアが自分にはあるのだということ。

これからも大切にする。