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続)15分片付けからの考察(範囲の設定と自己信頼)

6月は10日間の書類片付けプロジェクトに参加していた。
その後も「15分ちょっと気になるところを片付ける」は継続している。
先日「変化と場づくりについての発見」があったのでここに書いた。


7月も半ばを過ぎ、ますます15分の可能性やそこから派生したことについて考察が深まってきたので、また記録しておく。(いつものようにわたしの実感の話なので、他の人に当てはまるのかは不明)

「片付け」には2種類あるのでは?

①範囲を決めれば片付くもの
範囲というものがない、または決めづらい。その上、片付いた実感の得にくいもの

とまず思った。もっと種類はあるかもしれないけれど、とりあえず。


①範囲を決めれば片付くもの

例えば、洗濯をした分だけ洗濯物を干す、シンクにあるお皿を洗う、取り込んだ洗濯物を畳む、玄関の靴を下駄箱にしまい出ている靴は揃える、冷蔵庫の中の食品の食べられるものと、食べられないものを分ける、図書館に返す本を集める、きのう届いた郵便物の中でいるものいらないものを分ける...とかそういうの。

今書いていて思ったけど、こういうのも「片付け」なんだよなー。なぜか「ルーティン家事」枠に別置して、ルーティン+エクストラ片付けみたいに分けてたんだけど、ここ分けないほうがぜったい楽!!!
なぜか自分をしんどくしている謎ルールは次々と撤廃していくのだ!!

これらはその範囲を設定して、それが終わったら完了、達成とする。
範囲の設定も簡単だし、ゴールは明確、見た目の変化も一目瞭然。
手を動かして働きかけたことで、あったものがなくなる、汚かったものがきれいになる、物質の形状や状態が変化する。

見た目に明らかな片付け。これはスッキリする。


②範囲というものがない、または決めづらい。その上、片付いた実感の得にくいもの

片付けで厄介なのがこれ。
例えば、本棚からあふれている本、クローゼットからあふれている服、制作の資料、子どもの学校や習い事に関する書類、子どもの制作物、子どものおもちゃ、とか。物理的に腐らないので、増え続ける一方になりがち。

種類という意味では分かれているけれども、それを範囲にするとすごく量が多いし、根本から問い直していかないといけない。「蔵書方針」「教育方針」「わたしらしいファッション」とか。

それを利用した手法で、「種別を範囲にして一気に片付けてしまおう」というものもある。片付けを自力で定義するのが困難な人に「範囲」と「大きな変化」を実感してもらうための。これはけっこうエネルギーを費やすので、ここぞというときにやるとすごくよい。人生に変化が求められているときには効果的。それがたとえば本の整理とか、全片付けでわたしがやったこと。

今回はその発見ではなくて、この②を普段から扱いやすくしておくための手法なんだとわかった。寸法や量という範囲で、すぐの達成が見込めないものは、15分という時間の範囲を設定する。

「15分でできるところまで」で終了するのがポイント。
最初は変化を感じにくいのだけれど、だんだんと感覚が研がれていって、15分やっただけで見た目がスッキリしていることに気づく。

寸法や固定量の範囲が明確なものの変化に比べれば、ごく些細。でも、手を動かして働きかけたことで、あったものがなくなる、汚かったものがきれいになる、物質の形状や状態が変化する、は起こっている。触っているだけで大事なことを思い出せることもあるし、優先順位がわかってくる。頭の中では散らかっていても、「物」を触っているうちに整っていく。

今思ったけど、掃除もこれだ。15分だけ掃除する。


こうやって「片付け」をもっとひらいていく。
自分だけの定義を見つけていく。


①②いずれの場合にもあるのが、これ。

「わたしには状況を変える力がある」という自分への信頼。

このフレーズが出てきた背景については長々とここに書いた。

誰にでも当てはまるかはわからないけれども、わたしに関して言えば、自分への信頼と片付けはけっこう関係がある。

範囲を設定するにせよ、時間を測るにせよ、「そうすることでよい変化を起こせる自分」への信頼が必要になる。自分への信頼の育て方のほうは、長く時間がかかることなので、片付けだけを継続していくことでできることでもないと、自分の経験から思っている。結局、生身の人間との関わりの中で見出していくことが中心にはなるんじゃないかと。タフだし、時間もかかる。でも人間は必ず「回復」するから、自分への信頼も育てられる。

ただ、実感をもってここで言えるのは、片付けについて自分への信頼をもっていると、他のことにおいても自分への信頼につながりやすくなるということ。かるたと片付け、のように。新しい仕事をするときや、新しい関係をつくるときに、今は別個のものとして扱っているもの、つながっていないものも、源は同じなので、思い出すだけで回路ができていって、自分の全体性をつくる流れができていく。


やってみてどう感じるかを生半可に表現していくといいことがある。

毎日何らかの発見を、人も見るところで綴っているのは、そうしているといいことがあるから。

「いいこと」の中身は、読めてよかったと感想をもらえるとか、自分で自分のことがわかる(好き嫌い、得意苦手、今考えていること)、自分がわかるから仕事の話につながりやすい、好きなものや好きな人に囲まれていく、毎日楽しい、とか、、ざっくりと、そういうこと。

やっぱり自分にとって一番興味深い人間は自分だと思う。生まれてから死ぬまでずっと付き合っていく自分のことをそう思えるのはいい。

それをいちいち人前(インターネット)で言っていくことで、足場が確かになっていく感覚がある。


この話もいろんなところでいろんな人が言ってるのを見聞きしたことがある。ああ、みんなこのことを言ってたのか。

自分に合うやり方を模索していたら、結果的に他の人間も同じことをやっていた。でも他にやっている人がいるのを見聞きしたことも必ずヒントになっているので、ありがたいことだ。

一見して「わたしにはあれじゃない!」と判断すること、試みて「違った!」と思ったこと、そこからの「じゃあわたしには何?」を探究し始めること。

だから一人ひとり「わたしはこれが好きだ、これが合う」を声高に言っていったらいいと思うんだよなぁ。

実際にやってみること。
楽しむこと。
何からでも学べること。
みんなが先生になること。

自分だけの体系を構築していくこと。


きょうもここまで歩いた。

わー、書き終わったら、曇天だった空から陽が差してきた!