見出し画像

体を動かすことと競技の違い

先日書いたこちらの続き。

競技かるたに出会うまでは、日々の家事をする、なるべく階段を使う、一駅歩く...などをしていれば、「運動」をしたことになるのではないか?と思っていた。つまり、わざわざ名前のつく「スポーツ」や「競技」をしなくてもいいのでは?そちらのほうが安上がりだし、わざわざ時間を割かなくてもいい、いろいろ兼ねられて一石二鳥...など。

けれど、競技かるたに取り組んでみて気づいたのは、やはり名前のついている「スポーツ」や「競技」をすることに意味がある、ということだった。

多くの競技には、その動きのための型がある。その型には、日常ではおよそやらないような動作が多い。その競技のための姿勢や態勢があり、筋肉の使い方があり、関節の動かし方や可動域の捉え方がある。

身体をそのように動かすには、自覚的でなくてはできない。
このことが、身体と自分とのつながりを促している。

家事や作業でも体力はつくし、筋肉はつくかもしれないのだけれど、ある意味勝手知ったる「ながら動き」ともなる。競技でしか身につかないもののひとつに、「その動作に集中していることで、予想もつかない展開に対応する身体の感度を発揮させること」がある。

このことについて、端的に述べた文章があるので紹介したい。

武道修行の経験から私が学んだことの一つは、人間の身体が最適のタイミングで、最適の強度で動くとき、私たち自身は"自分が何をしているのかよくわかっていない"ということである。もっとも適切な身体運用は、脳が四肢になすべき運動を指令した結果達成されるものではなく、「それ以外にありえない」と思われる動きを"身体そのものが自発的に遂行する"ことで達成される。筋肉、骨格、内臓などが、それぞれ自律的・非中枢的に現場判断で動くときに、その総和がある理想的身体運用を達成するのである。

(引用符は原文ではなく、代わりに該当箇所が傍点となる)
内田樹(2012). 武道家の能楽稽古. 芸術新潮2012年12月号. 49-50


このような身体感覚を持ちながら生きることが、具体的にどのように人間の役に立つのか。まだ的当な言葉が見当たらないが、自分の野性とつながる瞬間を日常の中に食い込ませることは、健やかな生命維持に相当な影響を与えていると、自分の体験からは言える。