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対話と議論の場のつくり方

参院選をきっかけに、どうして投票率が低いのか、どうして政治の話はしづらいか、と次々に問いが立ってきました。自分なりの答えをこちらのマガジンに書きためていっていますので、よかったらフォローしてください。


さて、前回は、「わたしたちはまだまだ、対話や議論ということに慣れていないだけなんじゃないか?」というところまで考えました。

きょうは、

じゃあ、対話と議論の場をどうつくるの?

ということについて書きます。仮説というより、わたしの本業のテクニカルな話です。

これは、出版プロジェクト「きみがつかう きみがみつける 社会のトリセツ」の中でのわたしの執筆テーマ「場をつくる」に大いに関係があるので、そちらのマガジンにも加えておきます。(実際本になったときにどんな形になるかはわかりませんが)


普段から日常的に政治の話をしたい、前回の選挙のその後について話したい、次回の選挙の話をしたい、そのような場(機会と関係)がほしい、という思いがわいたときに、まず握っておいたほうがいいのはこれだと思います。

あなたがつくりたいのは、
1. セーフティネットのための場
2. 共生のための場
のどちらなのか?

政治の話を自分事として話していく場では、社会的立場や、物事や人生に対する価値観、生活状況などあらゆるものの違いが浮き彫りになります。
無用な争いと分断を生むことにならないよう、1なのか2なのか、場をひらくときに予め告知し、会の冒頭で参加者とシェアしておくことが重要です。


1.セーフティネットのための場

状況や価値観が似ていたり通じ合う、共有度が高い者同士が集う場です。安心安全に心情を吐露し、違いがあってもゆるやかで、ここでは何を言っても大丈夫と思える信頼関係ができてくると目的が達成されていきます。
「○○というテーマについて、〜のように考えている人と、〜を大事にしながら、〜な方向性で話し合いたい」と、明瞭に伝える募集の仕方が必要です。そのテーマに対する考えがもともと違っている人は、対象ではないという姿勢です。もちろん共有度が高くても、一人ひとりは全く別の存在なので、個別性を尊重することが大切なのは言うまでもありません。


2.共生のための場

意見の違いがあり、理解できないことがあり、知り得ない世界を持った人との出会いをつくる場です。あえてどんな違いがあるのかを知ろうとする。
そこでは、出てきた違いを違いとしてとらえ、ジャッジしない、説得しようとしないという心構えがより大切になります。
政治の話は、突き詰めていけば、自分自身の生きるか死ぬかの話、信条・信念の話、アイデンティティの話。人一人の中に複合的に絡み合っています。ゆえに感情が出やすい。理解が得られない怒りや悲しみも出るかもしれない。過去に受けた傷が痛むかもしれない。でも、それが誰かを傷つける行為として表出しないような配慮が必要です。


いずれの場をつくるにも、場を進めるにあたって、
一つ、知っておいたほうがいいコミュニケーション、ファシリテーションの「技術」があります。

対話や議論を進めやすくする技術

こちらの書籍で紹介されている、なぜ?どうして?ではなく、いつ、どこ、だれ、なに、いくつ(いくら)等の「事実質問」で聴いて、そこから話を展開する手法です。


こちらはその手法をインタビュー調査に使われていた例です。

この中で注目したいのは、以下の引用箇所。

一般には
「どうしたいですか?」
「○○があったらいいと思いますか?」
というような「希望」や「将来のこと」を聞くアンケートが多いのですが、こうした質問は、相手の「考え」や「気持ち」は聞くことができますが、「事実」としての「現状」は、なかなか浮かび上がってきません。

そこで、この調査では、過去に実際に起こった事実を具体的に聞くことで、子育て中の方たちの実状を把握しようとしました。

(中略)

例えば「よくお子さん連れで出かける場所はどこですか?」と聞かないで、「この1週間でお子さんと一緒に出かけた場所はどこでしたか?」と聞くようにしたり、「悩みを相談できる人はいますか?」と聞かないで、「産後の心や身体に悩みを相談した人は誰でしたか?」
「その人はどこに住んでいる方でしたか?」と具体的に事実を聞くような研修です。

相手について知りたいとき、まずコミュニケーションのはじめは、「事実」や「現状」を聴く。そのための「質問」を工夫することが大事という話です。

これは最初は難しいのですが、使い慣れてくると、いかに
・相手に確認せず思い込みで聞いているか、
・相手の進みたい方向ではなく、自分の描くストーリーに相手を乗せて運ぼうとしているか、自分の設定した落としどころへ向かわせようとしているか、
・自分が安心したいだけで聞いているか、
・質問ではなく非難したくて口にしているか、
に気づくことができます。

「よく、いつも、みんな、ふつう、全体的に、絶対…」などの言葉も、事実質問によって外れていくので、それらが思い込みからくるものだったということに気づきます。応答を繰り返す中で、自分の中に起こっている感覚や感情を表現してみることや、提案もしていけると、よい対話や議論が生まれていきます。

勉強会をひらいたときのブログがあるので、本を読んだ方はこちらもぜひ。


一人ひとりの答えを、行ったり来たりしながら

政治の話をする場に限らず、わたしたちは常に、セーフティネットの場と共生の場を行ったり来たりしながら生きています。そこにさらに、参加する場と自分でひらく場という、「側(がわ)」の行ったり来たりもしながら生きていけると、人生がもっと楽しくなっていくと思います。


対話や議論というのは一見難しいようだけれども、他の文化圏や長い歴史の中で培われてきた個人主義とは別の、日本のこの土地ならではの、共生のあり方はあるとわたしは信じている。わたし自身、意見の違いを怖れながらも前向きに取り組む。場づくりからそれを模索していけたらと思います。


そうそう、最近読んだ記事で、ロバート キャンベルさんがこんなことを言っていました。


よく日本語は、ひとつの答えを出さなくてもいいように、すれ違いを避けるのに長けた言語だと言われますね。それが気持ちよくもあるけど、責任の所在がどこにあるのかわからないとも言われる。確かに日本語にはそういう一面もある。

でも、僕が言う「正解がない」というのは、答えを出さないということではないんです。答えは一人一人にある。そして、それは固定化されているものではなく、(一人の人の中でも)時間の流れの中で変わるかもしれない。一人一人が考えて、咀嚼して、噛み直していく、自分の中に打ち出していくことが大事なんです。

そのために考える素材があるということが大切なんですね。


引き続き、書きます。