腐る

※小説

 アラームが鳴っても止めては鳴り、止めては鳴り、三回目のデッドライン五分前で起きることは人生の中で身についた、いくつもの習慣の中の一つ。アラームの音を変え、時間を変え、ときにはモーニングコールをお願いした相手に挨拶がわりの別れを宣告されたこともあった。今考えてみれば、さようならも挨拶の一部だ。だから彼女はとても丁寧で礼儀正しかったのかもしれない。猛暑の中でも極寒の中でも、一度寝ついたら簡単には目覚めない。死んでるみたいだよ、と笑ったのはそのときの彼女だったか。片手いっぱいの彼女たちは融合し、ほほえみ、同じ顔になっている。一度血圧でも計ってみれば、低血圧だと証明できたかもしれない。
 寝ていたというより、まばたきをしたつもりだった。倦怠感もなく清涼な風が吹き抜けたように、クリアな頭だ。生まれて初めて、と言っていいほど明瞭に目覚めたとき、僕の体は目の前に突っ伏していた。
 折り畳みの黒いテーブルと缶ビール二本、途中で食べ飽きた惣菜がプラスチックのパックごと放置されている。テレビは見たこともないアナウンサーが原稿を読んでいて、左上に表示された時間は午前四時。目の前でテーブルに身を預けたままの自分は、ぴくりとも動かない。自分で自分の背中をまじまじと見るのは奇妙な体験だ。
 どうやら。いやどうしてか。僕は死んだらしい。
 そういえばと、思い出してみればおぼろげに苦しんだ記憶がないわけでもない。急に動悸がして息が吸えなくなったような気がする。気がするだけで、痛みははっきりとしていなかった。幸か不幸か。楽に死ねた。死んでしまったのだから不幸なのか。
不幸なのは、これからだった。
 死んだのは金曜日。土曜日、日曜日と、なんの動きもなく過ぎていく。土曜日の
段階で、どこから入ったのか、ハエがたかり出す。どうやら嗅覚はとうに死んだらしく、死臭は嗅がずに済んだが、しだいにハエの数が増えていくにつれて、羽音が不安を連れてくる。
 いつ、発見されるのだろうか。自分の体を見つめる。
 肉がよどみ、ふやけていく。



「お前、初めてだったか」
 管理会社から渡された鍵をドアノブに刺した格好で、斎藤が振り返る。
「初めて、ですけど。そんなにやばいんですか」
「いやぁ、やばくはないぞ。ま、見たほうが早い」
 誰もが通る道だからな、と斎藤は勇気づけるように後輩の肩をたたく。ところどころ塗料で汚れた白いバケツを持った杉田が不安げな様子で、部屋の中をのぞく。
 がらんとしたいつもと同じ空き部屋。前の住人が撤退したあとの、壁と床一面すべてが見渡せる状態で、内見と違うのは、住人が残した汚れや気配があることだ。
 自炊はしなかったのか、コンロは傷も焦げ跡もない。隣のシンクも多少の水垢はあるが、顔をしかめるほどではなく、杉田は自分の家よりもきれいだと評価する。壁も、いつつけたかわからない深い傷がない。前の住人はマメなタイプか、居住期間が短かったのだろう。人が住むだけで、家は消費していく。削れていく。味が出てくると言ったほうがいいだろうか。杉田はこの仕事を通してそう感じるようになった。
 依頼のあった部屋の塗装面に関して、原状回復するのが二人の仕事だ。塗装以外はほかの業者がやることになっている。彼らとは日程がかぶり、顔を合わせることもあるが、たいていはすれ違いで、よく知らない。知らない人間とのバトンリレーだ。自分の領域で十分な仕事をする。求められるのはそれだけで、ここ三か月、杉田はずっと斎藤とペアを組んでいる。斎藤はベテラン中のベテランで、簡単な現場なら一人ですべてこなしてしまう。気さくだが、技術は目で見て学べという姿勢の斎藤のもとで働くのは、見込みがあると判断されたのだろうと、杉田は思っている。
俺もおっさんになったらそれでいこう。
 杉田は1Kの狭い廊下を歩きながら思う。
 ガラスがはめこまれた引き戸のくぼみに斎藤が手をかける。一度だけ後ろの杉田を見て、それから視線を戻す。引き戸の先には九畳の部屋がある。
 一般的な凹凸のある白壁で、一見してダメージはなく、依頼内容のまま壁紙の張り替えではなく一部塗装になる。斎藤が目視で「いけそうだな」とつぶやいたとき、杉田は床から目が離せないでいた。
「あれ、ですよね」
 杉田が部屋の奥の床を指す。窓の光で照らされたやや右寄りの場所に黒ずみが沈黙している。
「あれだな。でも言っておくが、かなりいいほうだ。普段はもっとにおいも残ってる」
 斎藤が鼻をひくつかせる。
「消臭剤まいてくれたんだろう。虫もいなさそうだ。まあ、でも俺らはこういう染みを見るだけだ。本体を見るわけでも、遺品整理をするわけでもねぇ。だから、割りきって考えろ」
 そう言われても。という言葉を飲み込んで、杉田は染みから目を離すが、たちまち真っ白な壁に黒い残像が映し出される。
「二、三日だろうな。冷房入れてなきゃ一日か」
「うちってなんでこういうの受けつけてるんでしょうね。なんか、専用の業者いるんですよね」
 杉田は目を閉じて、残像を追い出す。腰に手を当てる。そうして自分を確かめれば、少し安心した気持ちになる。
「人間は死ぬもんだろ。人間が家に住むと決めた以上、家は取り残されるもんだ」
「ここの人、まさか殺人じゃないですよね」
「ばか、話聞いてなかったのか。病死だ。あれは血じゃない。体液だとかそういうもんだ。俺もくわしく調べちゃいねぇが、腐るとそうなる。お前に辞められると困るから、俺のとっておきの経験は秘密にしておくけどよ」
「え、やめてくださいよそういうの。やだなぁ。あれ見ながら作業すか」
「床は総交換らしいから養生しなくていいそうだ。五列くらい剥がせばよさそうなもんだが」
 斎藤はウエストバッグから道具を取り出す。壁の色味を確認してから、窓に向かう。染みを避けるようにしてしゃがみ、窓の下枠部分を触る。染みを踏むことはしなかったが、斎藤は当たり前のように、染みの隣で仕事を始めている。杉田は違和感が拭えず、引き戸のそばで立ち尽くす。とてもではないが近寄れない。杉田には、近寄れば感染する膿のように見えた。
「こんなになるまで発見されなかったって、不幸ですよね」
 気づけば、杉田はそう口にしていた。
 下枠のまだらな塗装部分をへらで剥がしていた手を止めて、斎藤が言う。
「お前、彼女いたっけか」
「はい? いますけど……」
「連絡は毎日とってるか?」
「ああ、まあだいたい……」
「じゃあ、一日返信が来なかったくらいで警察や大家に連絡して鍵開けてもらうような彼女か?」
「いや、そんな束縛タイプじゃないんで」
「だろう? こんな猛暑だ。肉が腐るのなんてあっという間。ちょっとくらい連絡がつかなかったからってすぐには動かない。無断欠勤なら翌日に訪ねてくる場合もあるだろうが、死んだのが休みの前日ならどうなる? 彼女はせいぜい催促のメッセージを送るくらいだろう。親とは毎日連絡とってるか? 友達とは?」
 杉田は黙りこむ。
 自分がこうなることもあり得るのだ。
 もし杉田が逆の立場で、彼女との連絡が途絶えても、たいして気に留めないだろう。四六時中、メッセージを送っていたころならまだしも、報告で占められた内容ばかりで、連絡がなければとくに伝えたいこともない日だったのだろうと思う。無関心ではないはずなのに。死にゆく瞬間に無関心な他人になってしまう。
「嫌なら早く嫁をもらうんだな。誰かと住めば、とりあえずは安泰だ」
「――この人は俺だったかも」
「そこまで言っちゃいない。考えすぎだ。言っただろう、割りきれ。仕事だ。今日はお前に働いてもらおうとは思ってない。ただ知っておけ。今後こういう現場もある。でもそれは必要なことだ」
 仕事と聞いて、杉田ははっとしてバケツを置く。中に入れていたペンキまみれのまま乾いたタオルを横に出し、斎藤を見る。
「仕事、します。ペンキはいつものやつで平気そうですか」
「おう、あと青いのも。後ろの一番左に積んである」
「今持ってきます」
 杉田はふらつく足を自覚しながら、一歩一歩踏みしめていく。これでいいほうなのだ。いい悪いの幅がわからないが、とにかく割りきれと斎藤は言った。
 アパートの敷地内に駐車した車のトランクを開けて、両手をつく。持っていく道具はわかっている。足りなければあとでまた取りに行く。いつもそうだ。床に飛び散らないようにするノンスリップシートが必要ない分、荷物が少ない。汚れてもいいから。すでに汚れているから。
 あれは、汚れなのだろうか。
 名の知らぬ誰かが残した残滓。
 足取りは重い。死んでなにかを残すなら、もっと違うものがいい。
 部屋に戻ると、斎藤が染みに体を向けてあぐらをかいていた。杉田に気づいて、何事もなかったように立ち上がる。
「戻ったか」
 杉田はなにを言えばいいのかわからずに、立ちすくむ。
「やめるか?」
 それは違うと、とっさに首を振る。
「わかんないすけど……うまく言えません。でもここで死んだ人がいて、俺はそれが怖くて。そ、それがあるだけで……俺……」
 沈黙が足元にからみつく。杉田と斎藤と、がらんとした部屋に染みが一つ。


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