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なくした記憶と友情の終わり

 人間の記憶というのは、とてもあやふやなものだ。僕は身をもってそれを知っている。だから、この話も事実とはかけ離れているのかも知れない。

 あれは確か四年生の頃だったか、岡野君とばかり遊んでいた時期があった。岡野君は超巨大マンションの十一階に住んでいた。幼い頃僕がいっ君に連れていかれた、公園裏の広大な草むらに建てられた、あのマンションだ。
 岡野君は何故か僕に優しかった。彼はサッカーがとても上手で、当時はまだ珍しかったクラブチームにも所属していた。四年生から部活動というものが始まる。どういう経緯かは忘れたが、サッカー部に入った。親に入らされたのだと思う。まだ喘息がちだった僕を健康にしようという、親の涙ぐましい恒例の努力の犠牲になっただけだが。
 例の如く月に何回か休んだ後に、病み上がりでサッカーの試合に参加した。練習試合だったので、お情け枠で後半残り五分くらいのところで試合に出された。
 練習にもろくに参加したことがないのに、いきなり試合に出されてすごく困った。困ったし、自分に対する世間の扱いというものに切ない気持ちになった。
 とにかくルールもイマイチ分かっていなかった僕は、岡野君に言われるままゴール前のあたりに張っていた。張っててと言われたので張っていたと表現したが、実際はみんなが怖いので、人がいない所をウロウロしていただけだ。
 誰かがシュートをした、キーパーがボールを弾いた。皆を避けてウロウロしていたお陰で、結果的にフリーになっていた僕の前にボールが転がってきた。ゴールはガラ空きだ。僕は無我夢中でボールに向かった。
 当時の僕にシュートができたとは思えないが、ボールはゴールに吸い込まれていった。それが決勝点になった。たぶん、今のルールならオフサイドだったろう。
 試合後、岡野君の呼びかけで僕は胴上げされた。全てが不可抗力の結果で、嬉しいことなど一つもなかった。

 そのゴールをきっかけに、僕は岡野君に気に入られた。曰く、ゴールを決められたのは、僕が周りを見ているからだと。コーチにも周りを見ろといつも言われるのだそうだ。君は頭が良いとまで言われ、悪い気はしなかった。当時の彼はサッカーが上手くて、人気者だったから、そんな彼の友達になれるのは嬉しかった。
 岡野君がクラブチームの練習が休みの日に、よく彼の家で遊んだ。外遊びをしなかったのは、僕に気を遣ったからなのかどうなのか。
 ある日、彼のお父さんのアサヒグラフか何かを二人で盗み見た。お父さんの趣味がカメラで、カメラ雑誌が何冊も置いてあった。その中に、ヌード写真が掲載されていた。ヘアヌードとか言う言葉が世間を賑わす前だった気がするが、芸術無罪ということだったのだろうか。
 別の日には、音楽グループ「レベッカ」の「MOON」を数十回聞いた。霊の声を聞こうとしたが、「先輩」というはっきりした音声は聞き取れなかった。

 そんな岡野君との蜜月も、ある日の放課後を境に終わりを迎えることになる。
 あれは初秋だったろうか、そんなに寒くなかった気がする。僕と岡野君は、坂下(女)の机を囲んでいた。坂下は、ちびまるこちゃんのみぎわさんに似ていて、ややいじられキャラだった。といっても、何か言われれば言い返すし、しつこく絡むやつもいなかった。僕も低学年の頃から一緒だったので普通に話す仲だった。
 岡野君と二人でそんな坂下の机を囲んで何をしていたかというと、落書きだった。机一面びっしりと落書きをした。体力の無い僕は、当時絵を描くことで個性を発揮しようとしており、割とみんなが気に入ってくれていた。
 あろうことか、そんな落書きすら気に入ってもらえるだろうと、悪意ゼロで机が黒くなるくらいまで絵を描き続けた。
 翌日、朝のホームルームで坂下さんの机落書きが事件となった。犯人探しが始まった。僕の絵の特徴を見れば、犯人などすぐに分かる気もするが、真っ黒になるくらい描いたのが功を奏した? のか犯人はなかなか見つからなかった。
 僕は酷い事をする奴もいるものだと、のんびり構えていた。

 そう、のんびり構えていたのだ。犯人探しが始まった段階で強いストレスを感じたのかなんなのか、僕は落書きしたことを完全に忘れていた。
 犯人が見つからないことでホームルームはなかなか終わらない。音を上げた先生が、放課後まで待つので自分から名乗り出なさいと言って、その日の授業が始まった。
 休み時間の度に、岡野君がやって来る。昨日のアレどうする? 岡野君は必死だ。だが、完全に記憶障害を起こしている僕は、アレが何のことか分からない。落書きのことだよ、耳元で囁かれる。あろうことか、僕はこう答えた。落書きの犯人知ってるの? 今となっては、岡野君の表情は思い出せないが、ポカンとしていたのか恐怖に引き攣っていたのか、どちらだろうか。
 放課後、罪悪感なのか、落書き事件が大ごとになるのに耐えられなくなったのか分からないが、岡野君は先生に自白した。その際、岡野君は僕も一緒にやったと訴えた。先生に尋ねられた僕は、何のことか分からないと文字通り知らぬ顔で答えた。
 何度か確認されたが、あまりのナチュラルさと、部活でお情け枠にも入れられるくらいの弱キャラ設定だった僕は、結局無実とされた。
 岡野君の悔しそうな表情は流石に覚えている。

 その日の学校の帰り道、道路に描かれた白い菱形模様を見ていた時に全ての記憶が蘇った。分厚い唇と眼鏡にギョロギョロした目。坂下をデフォルメした絵をデカデカと描き、岡野君をノらせたのは僕だった。教室は西に傾いた日の光で全体にオレンジがかっていた。
 これはどういう事だ。僕は戸惑った。何故今の今迄忘れていたのか。岡野君は今頃一人で怒られていることだろう。最悪、親も呼び出されるかもしれない。僕もやりました、今からでも自白しに戻った方が良いだろう。だが、ついさっき迄そんな事をした記憶が丸々なくなっていた、などと言って誰が信じてくれるだろう。嘘を吐いてもどうせバレるのだから、嘘を吐くなんて馬鹿のすることだ。僕は嘘は吐いていない。だが、真実を言ったら、頭がおかしいと思われるかもしれない。病院に連れていかれてしまうかもしれない。それは嫌だ。一体、僕の頭の中で何が起こっているんだ。

 気が付けば家にいた。何がなんだか分からないまま、翌日を迎え、学校に行った。
 落書き犯は公表されぬまま、坂下に犯人が謝罪をし赦されたということで解決を見た。僕はじっと机を見ていた。
 岡野君には何も言えなかった。岡野君はそれ以降二度と話してくれなくなった。

 岡野君は六年生になって、サッカーを辞めた。彼にとって人生初の挫折だったようで、それからの彼は無駄に目立とうとしてスベり倒す道化キャラになっていった。
 大学受験の模試を受けた際に、会場の大学で岡野君を見かけた気もするが、あれは本人だったろうか。僕を見て、一瞬固まったのは何故だろう。

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