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小説「ある定年」㉖

 最終第26話、
 キーボードの手を止め、耳を澄ました。
 居間の窓辺に近づき、庭を見渡した。玄関脇の梅の古木から聞こえたような気がする。
 中程の枝先で、1羽の小鳥が花芽を盛んについばんでいる。朝日を受けた逆光に、雀より1回り大きくずんぐりした体形に、特徴的な太く短い嘴がシルエットとして浮かび上がっている。
「フィー、フィー」
 口笛に似た鳴き声が響いた。
「どうしたの、双眼鏡なんか手にして。何かいるの」
「おいおい、静かにしろ、逃げちまうじゃねえか。ウソがいるんだよ」
「ウソって何」
「野鳥だよ」
 江上は妻の千香に双眼鏡を持たせた。
「あそこに1羽、いや、奥の白梅に移った。今度はよく見える、赤ウソだ」
「奥のどこよ?枝ばっかりで何もいないけど」
「幹の左側の真ん中あたりの枝の先だ。1羽いるだろう」
「どれどれ、あつ、あれ、可愛い。こっち向いた、頭が黒くて、ほっぺたが桃色で」
 里山でセツブンソウ開花の便りも聞かれ、日に日に春めいている。里山に下り、厳しい冬をしのいだウソも繁殖のため山地に戻る日も近い。
 3か月近くの入院生活を終え、江上は自宅に戻ってきた。築35年、古びた木造家屋が妙に懐かしく、庭に数本植えてある椿が赤、桃、白と咲き誇り、退院を祝福しているようだった。
 初めての闘病生活は彼にとって過酷だった。肺機能検査やリハビリで呼吸困難になり、酸素濃度測定のため股間の動脈に注射針を刺され、あまりの痛さに泣きそうになった。ステロイド治療の副作用で体毛が伸び、顔や体が丸くなった。
 何より辛かったのが家族らとの面会ができないことだった。新型コロナウイルス感染防止のためで、妻や娘、息子の太郎とのやり取りも電話やメールが主体となった。病院という厳格な閉鎖空間で話し相手は医師や看護婦、同じ入院患者に限られ、気分が晴れることはなかった。病と闘っているのだから、と言い聞かせるしかなかった。
 ステロイド治療が幸い功を奏し、辛いリハビリの甲斐もあって退院となり、通院による自宅療養に漕ぎつけた。あの金屋からの1通の手紙を受け取ってから1か月。江上はこの日を待ち望んでいた。
 金屋からの手紙はこう綴られていた。
 ーー謹啓 余寒の候、花の便りが待たれる今日この頃になりました。
体調を崩され、ご入院されているとお聞きし、驚きました。江上様と初めてお会いしたのが、昨年秋、安土城跡でした。見学後、帰る途中、仁王門の石段に崩れるように座り込んだのを見て、もしやご気分でも悪いのでは、とお声をかけた次第です。その後、会食の際もお元気な様子だったので安堵しておりましたが、よもやご病気とは知らず、失礼三昧なことを申し上げたことをお許しください。
 病魔と日々、戦っておられると思うと胸が痛みます。ただ、医療知識のないわたくしが申し上げるのもはなはだ厚かましいとは存じますが、間質性肺炎は不治の病とはいえ、節制しながらも普通の生活に戻り、職場にも復帰なされる方もおられると聞いております。神は乗り越えられない試練は与えないと申します。江上様ならきっと、この試練も克服できると切に願っておりますし、密かに確信もしております。
 再度、「国広、足利で打つ」と「山姥切にもう一度」、それに郷土愛にあふれた添え書きを読み返しました。山姥切国広が足利の地に戻り、再々展示される日も近いのではありませんか。お約束した第3弾の草稿に目を通すことを心から楽しみにしております。
 十分、ご静養なされ、執筆活動を再開されることをお祈り申し上げます。
                            かしこ
 闘病中、死の予告は取り消しにならない、2年後か、3年後か、いや、急性増悪でいつ、命を絶たれるかもしれない、時限爆弾は既にカウントダウンしている、と死の恐怖に苛まれた。残された時間は貴重だ、やりたいこと、やり残したいことに手を付けなくては、と焦る気持ちが募る一方、無理できないぞ、と無意識にブレーキをかけ、鬱々とした日々が続いていた。
 そんな呪縛も、1通の熱いメッセージで解けた。待ってくれる1人のファンがいる。65歳定年後の暗い迷路にポツンと街灯が灯った気がした。
 追記には、江上の背中を押すような一文が添えられていた。
 ーー書き溜めた小説を読んでもらったらいかがですか。私も楽しみにしています
 新作を手掛けるには体に負担がかかる、と、金屋の労りの気持ちが読み取れた。
 数年前から小説を書き始め、手元には公募で落選した作品、未完成の小説など数点残っている。落選作品は再挑戦の意味で手直しし、未完成品は仕上げてみようとほのかに創作意欲が芽生えた。
 取材して書く。闘病生活、苦しみ悶えることはその原点戻るための試練だったのか。ようやくくびきから逃れ、余生をリスタートする踏ん切りがついた。
 彼女はネット上の投稿サイトnoteの活用を勧めていた。閲覧すると、プロも含めたクリエーターが小説、詩、漫画などの創作物を随時更新している。江上は週1回、投稿することにした。生まれ育った足利をテーマに書き続けるつもりだ。
「そういえば、午後、奈々子が来るんだろう。勤め先はどうなったんだ」
「コロナの規制緩和でホテル業界も息を吹き返したみたい。会社を移ったけど、待遇も変わらないし、安心したみたい。産休明けでも元気でやっているわ。そういえば翔太が歩けるようになったのよ、さっき、動画を送ってきたのよ。見る?」
 妻はスマホを手に取り、動画を再生させた。数歩よちよち歩きし、奈々子の胸に飛び込む翔太の姿があった。
「この間ハイハイできたと思ったら、もう歩けるようになってんのか」
 1世代30年、娘を挟み、孫とは60年の隔たりがある。世代交代は宿命だ。残された人生終盤を実り大きいものにしたいと江上は痛感した。
「あら、あのウソ、飛んで行っちゃったわ」
「また来るよ、花芽の残っているうちは。さて、もうひと踏ん張りしちゃうか。奈々子たちが来る前に」
「そうね、久しぶりに翔太にも会えるわ、本当楽しみ。でもくれぐれも無理しないで」
「分かっているよ」
 江上は仕事場に戻り、パソコンに向かった。 
                              (了)                                        

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