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小説「ある定年」⑳

 第20話、
 自転車の前のカゴにノートを開いて載せ、時折、老女の道順を記したメモを見ながらペダルを漕いだ。10分も走ると、安土川に架かる百々橋を渡り、左手の緑深い丘陵地の所々に石垣が見えてきた。安土城跡だ。
「ジャケットと荷物は預かりましょうか。結構、天守まではありますよ。今日は暑いですから」
 受付の女性の親切に甘え、江上は手渡した。
 大手道は石段の急な坂道が続いている。石段途中の日陰で小休止する人の姿もちらほら見える。天守までは30分かかるという。
 この日は琵琶湖東の城巡りを計画した。JR琵琶湖線に沿って北から順に長 浜城、安土城跡、彦根城を訪ねる予定だったが、午後、雷雨予報が出ていたため、一番、足を向けたかった安土城を先行した。
 石段の所々に石仏が収まっている。案内板には発見当時の状態で保存とあるだけで、利用した理由は記されてなかった。踏むわけにはいかない。気をつけて登り続けた。
 日差しが厳しく、汗が滲み始めた。なぜか、息苦しい。定年を機に、健康維持でワーキングも始めたのに。昨晩、少し飲み過ぎたのが体にこたえたのかもしれない。
 緑陰で休みを取りながら、前田利家や羽柴秀吉屋敷跡を過ぎ、道の両側を石垣が迫る黒金門跡、木立のある本丸跡、そして天主跡に辿り着いた。
 天主跡は礎石が整然と並んでいるだけだった。往時、5層7階の壮大な造りで、6階は朱塗りの八角堂、最上階は内外装とも金箔で飾りつけられていたとされる。
 その最上階、狩野永徳の描いた三皇五帝、孔門十哲、商山四皓、七賢の障壁画に囲まれ、織田信長は琵琶湖を遠望しながら、天下統一の夢を描いたのだろう。
 その大志も束の間、信長は明智光秀の謀反で自刃に追い込まれ、その天主も一夜にして灰燼に帰した。
 ーー人間50年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり
 自刃に際し、信長は本能寺で幸若舞の敦盛を舞いながら、その一節を詠んだという。
(夢、幻のように儚い人生の晩年を、どう締めくくろうか)
 挫折してもいい、成就できなくても構わない。夢を追い求めた信長を、江上は心底、羨ましかった。記者を辞めて何をしたい、何ができる。65歳定年後の限られた貴重な時間で。
 物思いに耽りながら天主跡を後にして、摠見寺本堂跡、三重塔を過ぎ、石段を下った。仁王門を潜ると、また息苦しさを感じ、今度は気の遠くなるような感覚に襲われた。慌てて、彼は石段に座り込んだ。呼吸が乱れ、汗が噴き出す。
「どうしました?大丈夫ですか」
 数分経っただろうか。女性の声に、彼は目を開けた。
「ええ、ちょっと眩暈がして。もう大丈夫です」
 女性はショートヘアーで、黒目がちな大きな両目に安堵の色を浮かべた。目尻に小皺がある。30歳代半ばに見える。
「じゃあ、無理をなさらずに」
 彼女は立ち上がると、石段を軽やかな足取りで降りて行った。淡い緑色のプルーオーバー、長い脚に細めのジーパンがよく似合っていた。
 江上は呼吸を整え、ゆっくり腰を上げた。石段を一段一段、呼吸が乱れないように踏み、山道も小股で下った。受付に着いた時にはどうにか発作は収まっていた。大事をとって、予定を変更し、安土駅からまっすぐ京都駅に戻ることにした。65歳、もう無理はできないのかもしれない。
 
 発車間際、記憶にある女性が京都方面行の電車に飛び乗って来た。江上が注視すると、その女性と目が合った。彼が会釈すると、彼女が近づいてきた。
「ここよろしいですか」
「どうぞ、先程は本当にありがとうございました。お陰様で落ち着きました。もう、大丈夫です」
 彼女は4人掛けのボックスシートの斜向かいに座った。平日の昼間とあって乗客はまばらだ。江上は駅近くの喫茶店で休み、彼女は資料館を見学し、たまたま同じ電車に乗り合わせることになった。
「安土城跡には初めて来て、本当に訪れて良かったと思いました。信長の野望の核心に触れた気がして」
「そうですね。山全体がまるごと城って感じで圧倒されました。あの山頂に絢爛豪華な天主があったと思うと、想像しただけで戦国時代の男のすごさを感じます」
 淀みのない受け答えが知性を感じさせる。マスクで顔半分が隠され、一層、愛らしい両目が強調される。
「歴史がお好きなのですか」
「ええ、社寺や城巡り、陶磁器、絵画、古墳も。日本の文化に興味があって。休みになると出かけて見て回るんです」
「今日もお休みで。他にもどこか見て回る予定ですか」
「明日は京都で、二条城、それに北野天幡宮で秘蔵の刀剣展もやっていて」
 旅先でひょんなことから妙齢な女性と知り合い、刀に興味があるという。恰好の会話材料だ。江上は胸が躍った。
「刀剣?日本刀も好きなんですか」
「よく見て回りますね。この数年、各地の刀剣展を回って」
「例えば、国広とかも」
「ええ、好きな刀があって」
「あの山姥切国広とか山伏国広でしょう」
「あら、お詳しいんですね。やはり刀がお好きで」
「実は栃木で新聞記者をこの間までやっていて、取材していたんですよ。足利で開いた山姥切展も」
 その女性は大きな目を開き、輝かせた。
「えつ、私も行きました。5年前も今度も、泊りがけで」
「遅れました。私、江上といって、日本新報の記者をやっていて、先月末で定年になったんですけど」
「私は金屋です。持っています、江上さんの署名記事。初展示も今年の再展示の新聞も、宇都宮に住む親せきに送ってもらって。私、山口県に住んでいるので」
 金屋と名乗る女性はIT関係の会社に勤務し、暇を見ては旅行をしているとのことだった。独身らしかった。
「奇遇ですね。私の記事を読んでもらって、それも持って下さるなんて。本当、光栄です」
「私こそ、旅先でお会いできるなんて。先程、退職なされたとおっしゃっていましたけど、リタイアということですか」
「先月末で65歳定年退職し、記者に終止符を打ちました」
「そうなんですか。それで、今回は旅に」
「ええ、独りで京都、滋賀を見て回ろうと思って」
 電車は大津駅に到着し、車内も込み合ってきた。あと2駅で京都駅に着く。彼女が窓外に顔を向けた。鼻も小ぶりで形がいい。江上は切り出した。
「あの、この後、時間はありますか。もしよろしかったら、もう少しお話ししませんか」
「ええ、私の方は構いませんけど」
                        第21話に続く。

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