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小説「ある定年」㉑

 第21話、
「あの本の作者って江上さんだったんですか」
 金屋はだし巻きの箸を止め、左隣の江上に顔を向けた。
「現職の記者だったので、実名はどうかと思って。それでいい機会だったのでペンネームにしたんです」
 彼女は両手で徳利を持ち、江上の盃に注いだ。
 2人は木屋町通りにある小料理屋・お多福のカウンター席に腰を落ち着けている。電車で京都駅に到着後、一度ホテルに戻り、高島屋で待ち合わせた。彼女がネットで調べ、この店に予約を入れておいた。
 女将は40歳前後で、しもぶくれ顔に笑みを絶やさず、和装に白の割烹着が板についていた。カウンターには大皿に盛った各種のおばんざい料理が並び、注文を受けて小皿に取り分けている。
「旨いですよ、このさばの竜田揚げも」
 江上が皿を差し出すと、彼女は恥じらい勝ちに一つ箸でつまみ上げた。
「本当、味付けもいいし、カラッと揚っていて。ところで、なぜ、磨知亨ってペンネームにしたんですか」
「あれはまあ、当て字なんです。小説を始めた動機が、まちを明るくしたい、ってことで。姓のまちは知識を磨くの意味を込め、名のあきらは漢字の字体が気に入ったので。亨には神様や客をもてなす意味があるんですけど、私や私の小説がおもてなしに値するかは、はなだはだ疑問で、おこがましい話ですが」
 彼女は眦に笑みをたたえて、ビールのグラスを口角の上がった口元に当てた。
 旅先で知り合った女性と飲むのはいつ以来だろう。独身時代、対馬、佐渡島など独り旅したが、女性と二人で酒を飲む幸運には恵まれなかった。65歳定年を祝うお天道様からの贈り物かもしれない。江上は貴重な時間を惜しむように、話を振った。
「それで、小説の感想を聞いてもいいですか。1作目はこれまでに5、6000冊売れて、自分でも驚いているんですけど」
「『国広、足利で打つ』は5年前、『公式薄い本』ってネット上で話題になりましたね。山姥切に乗り移った国広の回想が面白くて、出だしの、国広は困惑している、で惹きつけられました。コンパクトに足利と国広、それに山姥切や布袋国広、長尾顕長との関連もファンは一通りおさらいできたような気がします」
「なるほど、きちんと読んで頂いて感謝します。今度の2作目はどうですか」
 彼女はグラスをつかもうとした手を止めた。
「私はいいと思いました。ネットではいろいろな意見や感想があるようですけど」
「鬱病とか、ブラック企業とか、若者の取り巻く環境もあえて盛り込みました。取材した限り、ファンの皆さんは総じて平均的な女性が多いようで、そうした社会問題などを共有していると感じたからなんです。ちょっと重い部分もあるので、折角、山姥切を鑑賞して束の間の鬱憤を晴らそうとしたファンには申し訳ないとは思っているんですけれど」
「正直、私も刺さる部分があって……。でも小説ってそういうもんでないですか、賛否両論あって。私は1作目より、小説らしくて気にいってますけど」
 江上は校正の段階で5人の小説好きに読んでもらった。彼自身は新たな切り口に挑んだと自負したが、2人から、暗い。前作のがいい、と酷評された。手直しも考えたが、敢えて読者に判断を仰ぐことにした。
「それでも2000部くらいは買ってもらって。自費出版した甲斐がありました。全然売れなかったらどうしようと心配していたので」
「小田原合戦後、顕長が山姥切を手放した経緯も書き込まれているでしょう。続編としても成り立っていて面白かったですよ。続々編も期待していますから」
「そうですか、足利で再々展示の際には、是非、手掛けたいですね。その時は校正の段階で読んでもらえますか」
「もちろんです、喜んで。そういえば、足利市が山姥切を取得する件は進展があったのですか」
 今年春の山姥切国広再展示後、足利市の示した山姥切の取得方針に対し、多くのファンから金儲け目当てでけしからん、などと抗議や批判が殺到。市は今後、所有者との交渉などに支障がでることを懸念してその後の公表を控えている。
「両者間で内々に合意したから、市が取得方針を公にしたはずです。後は金額面での折り合いで、記事にもしましたがクラウドファンディングを活用する方向だと思います」
「それでは、公表の段階で足利市が山姥切を買い取るのは決まっていたということですか」
「そうだと思いますよ。取得したい、だけど取得できませんでしたでは、ビッグニュースだけに、市長の政治生命にも関わってしまう。そんなことは政治的にあり得ないでしょう。それに、5年前の初展示で、足利への譲渡の流れはできていたと思いますよ、私の見立てですが」
「それってどういうことですか。もう少し詳しく教えてもらえますか」
「あくまで私見ですが、ご存じの通り、山姥切は東博で展示以来、足利で初展示されるまでの20年間、一度も展示されませんでした。その間、刀剣ブームも沸き起こり、東博、京博も含めて多くの関係機関が所有者に打診したはずだと思うんです。それでも展示されなかった」
「確かに不思議ですね。足利の初展示の翌年、京博で大々的な京の刀展が開かれましたが、山姥切は出展されませんでした。私も見に行ったのですが、ちょっと残念でしたし、不思議でした」
「予算、スタッフ、施設も充実した国の施設で展示できずに、地方都市の足利だけで2度も展示できた。なぜだと思いますか」
 彼女は口元を引き締め、宙に目を転じた。2、3度、瞬きすると、
「あつ、つまり、所有者の意向ですか」
 と、江上に向き直った。
「そういうことでしょう。所有者は足利にしか貸し出すつもりはないんだと思うんですよ、最初から」
「始めから?5年前の初展示からですか」
「ええ、そう思います。所有者と足利市の強い信頼関係があって、展示に結び付いたと思うんです」
「第1作の序章で触れてますけど、あの経緯って本当なんですか」
「あくまで小説ですが、取材した感触だと、当たらずとも遠からずではないのかと」
「足利名物の最中ひと箱で、所有者が貸し出したって話もですか」
 彼女は笑いをこらえるように、口元を右手で抑えた。
「よく覚えてますね。そのくらいいい関係だとは確信できますね」
「だから、市の取得方針で騒ぎになった時、所有者が足利市に刀の件は任せたいとコメントを出したんですね」
 彼女はようやく箸を持ち直し、追加注文したおからのたいたんを口に運んだ。
「記者ってやっぱり詳しいですね。本当、裏話が聞けて面白い」
「もう元記者ですけどね」
 江上も盃の酒を流し込んだ。話に夢中になり、熱燗が温くなっていた。
「残念ですね、記者を辞められて。失礼ですが、その後の予定は決まっているんですか」
「いえいえ、全く。でも、まだ働くつもりですよ。ただ、方向性が決まっていなくて、時間もあるし、何かきっかけが見つかればいいなと思って、それで独り旅にも出たわけで」
「つまり、自分探しの旅なんですね。」
「ええ、まあ。いい歳して恥ずかしいんですが」
「そんなことないと思うんですが、でも江上さんは……」
 彼女は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「何か、私が」
「いえ、自分探しって。ちょっと江上さんは違うなあと思って」
「違うって?何が、違うんでしょう」
「つまり、何ていうか、悩まれる必要はないような気がするんですが」
                           第22話に続く。

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