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小説「ある定年」⑨

 第9話、
 ーー私の最初に勤務した日刊栃木のスローガンは「郷土とともに」で、常に地域に視点を置いて取材活動に当たってきました。退職後も栃木県栃木市の埋もれた地域資源の発掘調査に従事し、世界的に有名な浮世絵師・喜多川歌麿の肉筆画を発見し、地方創生に寄与できたと自負しています。その後、日本新報でも地域資源の掘り起こしを視点に、同県足利市ゆかりの刀工・堀川国広、佐野市で作陶した佐野乾山など取材し、紙面化してきました。また業務外でも地方創生のための小説を執筆しました。
 綿密な取材を基にしたストーリーの創作などで、打ち刃物の世界戦略に寄与したいと願っています。
(こんなものかな、自己PRの欄は)
 江上はキーボードの手を止め、履歴書を読み返した。
 履歴書を書くのは日本新報傘下の人材派遣会社に提出して以来、10年ぶりとなる。ファイルに閉じこんであったその履歴書、経歴書を参考にしながら、彼はパソコンに向かい合っている。
 数日前、彼はふと思いついた。
(地域おこし協力隊でも狙ってみるか)
 10年前、歌麿調査を終えて失業中に検討したことがある。確か、九州地域の離島で埋もれた民話を調査し、1冊の本にまとめる業務内容だった。培った編集経験を生かし地域おこしに寄与できると本気で考えたが、幸い、日本新報の誘いが舞い込み、断念した経緯がある。
 パソコンを立ち上げ、地域おこし協力隊のサイトで活動カテゴリーの地域づくりにチェックを入れ、地域は九州から北へと順に調べた。
 その九州、鹿児島で格好の仕事が見つかった。ウェブ記者募集とある。募集名からして経験を生かした適職そのものだ。業務内容は農村地域への移住促進のため、農村の魅力を情報発信する内容だ。勤務先は鹿児島県内のある自治体で月額給与は20万円弱、住居は職員用宿舎を斡旋している。
 応募資格に年齢制限はないが、3大都市圏をはじめとする都市地域在住者とある。早速、窓口の担当課に電話を入れると、「残念ながら足利市は対象になっていません」とのことだった。やはり過疎化に伴う移住対策に力点が置かれていた。
 再度、近畿、中部、関東と北上し調べると、東北のある募集で目が止まった。打ち刃物で知られる秋田県内の団体が、主に情報発信を業務とする同協力隊員1人を募集中という。日本刀の伝統を受け継いだ打ち刃物は欧米を中心にシェフらの間で切れ味がいいと人気が急上昇で、一層の販売力強化のためにPR事業を展開するとの内容だった。
 業務委託契約で月額報酬25万円、家賃補助をはじめ業務に伴うガソリン代、通信など月額10万円も月枠で支払われ、比較的、好待遇だった。
たった一つ、問題は現地に住民票移動、つまり住居変更を伴うことだった。1年契約の最長3年間の契約期間、足利を離れることになる。単身か妻とともに移住できるか。幸い子供2人も独立し、親の介護の面倒はない。
(足利を離れてみる?)
 求職優先で地域おこし協力隊に飛びついた感もあるが、よくよく考えを巡らせると魅力的ではないか。新天地で地域貢献しながら収入を得られ、年金と合わせ経済的にも余裕ができる。新たな人々と交流し、その土地の風物に刺激を受け、旨い地酒を飲みながら郷土食に舌鼓を打つことができる。
 一方、足利の自宅はどうするか。ローンは完済している。息子夫婦は近隣の館林でアパート暮らしをしている。息子の太郎夫婦が移り住めば、江上にとって家の管理は不要となる一方、息子夫婦にとっても月数万円のアパート代も不要となり、家計に余裕ができる。まさに両家庭にとって一石二鳥だ。
世間並みに子供を育て、親の介護も済ませ、無事、65歳定年を迎えた。これまで忙しさにかまけて現居住地を離れるなど念頭にもなかったが、束縛のないフリーになったからこそ可能な選択肢のような気がしてきた。
「なるほど、移住か。面白い発想だね。確かに子育て中の身の上じゃ考えられないけど、定年後のフリーな立場だからできることだな。それに江上さんの経歴にもぴったり合っている感じだし」
 同僚の山口に相談すると、好意的な反応が返ってきた。
「でも、果たして65歳の定年男を採用するかな。協力隊員は大都市圏に住む若年層の移住が狙いみたいだから」
「だけどその案件は年齢制限がないんだろう。移住の問題はあるけど、試しに受けてみたら。腕試しにいいんじゃない」
 確かに何も動かなければ始まらない。業種を絞らなければ別かもしれないが、厳然と65歳の壁じゃ立ちはだかっている。ハローワークに行ってもそう簡単に適職が見つかるとは思えない。ましてや大都市圏と違い、地方都市に編集経験を生かせる仕事は地方紙、ミニコミ誌などごくわずかといっていい。数少ない就業機会に果敢にアタックするのが賢明だ、と割り切った。
 応募には履歴書とともに、再就職の際は職務経歴書が重要となる。10年ぶりの不慣れな作業で手間がかかる。大卒後、駆け出しの日刊栃木、歌麿調査に当たった市民団体、現在の日刊新報の職務経歴を克明に記し、資格・特技、生かせる経験・知識・技術の項目もびっしり書き込んだ。
「どうしたのスーツにネクタイなんか締めて、どこに行くの、慌てて。ワイシャツの襟が立っているけど」
 玄関を出ようとすると、パート勤務から帰宅した妻の千香と鉢合わせした。
「履歴書用の写真撮影だよ。スーパーに無人の写真機があったろう」
「履歴書って、いい仕事でも見つかったの」
「そうなんだよ」
「何の仕事?」
「地域おこし協力隊に応募しようと思って」
「あの田舎暮らしの仕事でしょう。それでどこの協力隊?」
「秋田だよ」
「秋田?」
 彼女は2、3度、瞬きして、
「ってことは、秋田に住むってわけ」
 と、江上を凝視した。
「受かれば、まあ、そうなると思うけど」
「本気なの」
「まあ、そのつもりだけど。詳しい話は夕食の時でもするから。とりあえず、写真を撮って来るよ。締め切りもあるし」
「あつ、そう。ところでポストにこの封筒が入っていたよ。市役所からだけど」
「何だろう。取材依頼かな」
 差出は足利市役所元気高齢課とある。封を切ると黄色の保険証のようなものが出てきた。介護保険被保険者証とある。
「なんで、俺宛に」
「何言っているの、65歳だからでしょう」
                        第10話に続く。

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