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悪食娘の帰郷と青春

 なにか温かいものを食べたくなるような、寒い日のことだった。
 終業式の日に気分が上がらない高校二年生なんているだろうか。僕は上々の気分で二学期最後のホームルームをやりすごして、あまり良くはないけれど悪くもない成績表を学校指定の鞄に押し込んで、校舎の一階のランチルーム——自販機や食事用のテーブルを備えた多目的ホールにはなぜかそんな名前がついていた——に向かった。
「あっ、サトルくん」
 ランチルームの奥の方で並んだ机のひとつについたまま——マリカさんが僕に手を振った。
 今日は午前中で終わりで部活も禁止だから、ランチルームには僕とマリカさんしかいないようだった。マリカさんと僕は学年は同じだけれど別のクラスで、だからここで待ち合わせをしていた。
 彼女——飯野茉里花(いいの まりか)は、細く長い手足と、それからカラスの羽根みたいに真っ黒な黒髪が目を引く女子生徒で、そして僕の彼女だった。
「お弁当は? 今日はとっておきだって」
 彼女はどこか影のあるアンニュイな雰囲気の顔立ちをしていて、黙っている限りは明らかに怖い人に見えるのだけれど、口を開くなり印象ががらりと変わる。自由奔放で、フランクで、よく笑う。そんなギャップが魅力だった。
「もちろんあるよ。タンドリーチキンとごぼうサラダのサンドイッチでございます」
 僕——坂田聡(さかたさとる)は、ごくごく平凡な男子高校生で、何か特技や打ち込んでいるものがあるわけではないのだけれど、何か一つそれらしいものを挙げるとするなら、それは料理だった。高校進学と同時に引っ越してきた新居のそこそこ立派なキッチンや、前の家から持ってきた料理道具を父親が全く触らないのがなんとなくもったいなく感じて始めたものに過ぎないのだけれど、弁当を自分で作れば多少お金も浮くし、何より自分の好きなものが好きなだけ食べられるというメリットは大きい。
 それに——ささやかな弁当で彼女を喜ばせることもできる。
「やった!」
 茉里花さんはそう言うと、机の上に置いた炭酸飲料をぐいっと一息に空けてから、きょろきょろとあたりを見回す。僕以外の目がないことを確認すると、中身の空いた缶におもむろにかじりついて、一口、二口、三口——まるで缶のかたちをしたもなかの皮でも食べるように、自然な様子で咀嚼し、飲み込んでみせた。
 彼女ほとんど普通の女子高生だったけれど、あまり見所のない僕と付き合ってくれていることのほかにもうひとつ、明らかに普通ではない特徴を持っていた。
 彼女は何だって食べてしまうことができた。どんなに硬いものでも、熱いものでも、彼女が口に含み、あるいは歯を立てるやいなや、豆腐のように何の抵抗もなく彼女の胃の腑に収まってしまう。
 彼女のこの不思議な特徴——常識を越えた悪食——を知らされたのは付き合い始めてしばらく経ってからのことで、もちろん最初は驚いたけれど、だからといって彼女はそれ以外のところでは普通の女の子だということはわかっていたし、だから、秘密を打ち明けてくれた喜びの方が驚きよりも徐々に勝っていった。
「はいどうぞ」
 僕は鞄から紙製の使い捨て弁当箱を取り出して、——蓋を開けた。
「いただきます!」
 特殊な個性と関係があるのか、茉里花さんは食べることへの関心が非常に高かった。おいしいものの話題や僕が作る料理の話にとても興味を持っていて、だから僕とも話が合った。
 おいしい!
 これだいすき!
 サトルくん天才なんじゃない!?
 彼女が大げさなくらいの歓声を上げる。この声が聞きたくて、僕は彼女のためにお昼の弁当を作り続けていた。
「茉里花さんは成績どうだった?」
 舌鼓を打ちながらサンドイッチを次々とたいらげる茉里花さんに、なるべくさりげない風を装って、僕は尋ねた。
「全身を強く打って重体」
「助からないやつだ」
「はっはっは」
「笑い事じゃないと思うけど……」
「わたしはさ、サトルくんと一緒に、こうやってご飯を食べてられたらそれだけで幸せなんだ」
 そう言って茉里花さんは幸せそうに笑った。なんだかいい話のようだけれど、だまされてはいけない。一学期の茉里花さんの成績は控えめに言って壊滅的で、卒業はできたとしても進学はかなり危ういラインだった。さきほどの口ぶりからするに、それより良いということはないだろう。
「進路、ちゃんと考えないとね」
「進路かあ、よくわかんないよね。実感ないっていうか。勉強頑張って、それで大学に行くところまで想像できないんだよ」
「想像できないのはわかるけど……冬休みの宿題でも出てたよね。進路希望のやつ」
「そう! 行きたい大学なんてないって!」
「でもさ、茉里花さん」
 僕は努めて真剣な声と表情を作って続けた。
「僕も茉里花さんとずっとこうしていたいと思ってる。でも、何もしなかったらきっと壊れちゃうんだよ。将来は勝手に来ないよ。自分で作らなきゃ……きっとひどいことになる」
 うまく言葉にならなかった。パートナー同士がずっといい関係を保ち続けるのはとても難しいこと、そして生活の食い違いやそれぞれの問題が重なるだけで、愛情なんていともたやすく崩れてしまうことは、父親と母親の関係が時間をかけて、しかし確実に壊れていくさまを間近に見ていた僕にはとても差し迫った恐怖に感じられたのだ。
「まじめだなぁ、サトルくんは」
 茉里花さんはため息をついた。あんまり効いていないようだ。だから、僕は一度周りを見回して、誰も見ていないことを確認してから言った。
「だって、茉里花さんのこと好きだから」
「ああもう!」
 そう叫んで、茉里花さんは自分のサンドイッチを一気にたいらげた。続いて紙製の弁当箱もくしゃしゃに丸めて一口に食べてしまって、一度大きく息を吸い込んでから、
「わかりました。サトルくんの気持ちはよくわかりました。好きでいてくれてありがとうございます」
「あ、恐縮です」
「じゃあこうしよ。里帰りに付き合って」
「里帰り?」
「そう。昔住んでた町に。それで、〝お母さん〟に会うから」

 その日の次の次の日。僕たちは東京駅の新幹線ホームで、あと数分で到着する予定の新幹線を待っていた。
 まだギリギリで帰省のシーズンに突入していなかったおかげもあったのだろう。幸運なことに横並びの指定席を取ることができた——しかしだいぶ高くついたけれど——ものの、早朝の便しか選択肢がなかったために、まだ空も明るくなりきらない中、重厚なダッフルコートと毛糸のマフラー、それからブーツで完全防備をした茉里花さんと並んで、あくびをかみ殺しながら十二月の早朝の寒さの中、しばらく待っている必要があった。
 アナウンスに続いて、やっと新幹線がホームに滑り込んできた。新幹線なんて乗るのはいつぶりだろう。確か、母親の実家にみんなで帰省したときぶりだ。そうか、あれも里帰りだったのだ——
「サトルくん」
 手をぎゅっと握られて、そのまま引っ張られる。ぼうっとしていたことを謝りつつ、茉里花さんの後に続いて、新幹線に乗り込んだ。
 車内は暖かくて、どこか薄暗い。これが単なる家族旅行だったなら、一瞬で眠りに落ちていた自信がある。
 けれど、この不思議な日帰り旅行は、僕にそれを許さなかった。里帰りとは一体どういう意味なんだろう。もう何度となく想像をめぐらせてみたけれど、どうも説得力のある説明が思いつかない。何より、〝お母さんに会う〟とは——
 茉里花さんの両親には会ったことがある。付き合って半年ほど経ったころ——忘れもしない先々月のことだ——に、茉里花さんの誕生日に、家にお呼ばれする機会があった。そこには彼女の父親と母親がいて、緊張のあまり記憶がほとんど残っていないけれど、両親それぞれの身体的特徴を茉里花さんが受け継いでいるんだなと思ったことは鮮明に覚えている。どこからどう見ても、特に問題のない幸せな家族。ずっとこうあって欲しいと思った。(本当は逆なのだろうけど)茉里花さんの母親は特に茉里花さんの面影をはっきりと残していて、素朴に「お母さん似だな」と思ったものだ。
 そういうこともあって、彼女の両親のいずれか、あるいは両方と血がつながっておらず、この旅で実親に会いに行くのだ、という想像はどうもしっくりこなくて、僕は思考の袋小路にはまりこんでいた。しまいには検索エンジンで「里帰り 意味」なんて調べてみたりして。
 茉里花さんに尋ねてしまえば解決するのかもしれない。でも、これはとてもデリケートな問題で、だからこそ茉里花さんが自分から話してくれるのを待つべきだと思った。僕にできるのは、ただ彼女に寄り添うことだけだ。
 とは言っても、気になるものは気になるわけで、新幹線がベルと共に発車してしばらく、僕は下を向いて思索にふけっていた。そのうちに、昨日の晩に仕込んで出かける前に仕上げ、鞄の中の水筒に入れてきたチキンスープのことを思い出して、茉里花さんに勧めてみようかなと顔を上げた。
「あ、サトルくん起きた」
「寝てなかったよ。目、開けてたし」
「開けたまま寝てたのかも」
「そんなことあるかな……」
 軽口を叩く茉里花さんに笑って合わせようとして、しかしそれはうまくいかなかった。茉里花さんの顔色が悪い。その声はいつもの活気を完全に失っていて、明らかに平静ではなかった。
「どうしたの、その、具合、すごく悪そうだ」
「うん、ちょっとね、だって、なんでこんな付き合わせてるのかとか、そろそろ説明しないとだし、うまくできるかなって」
 いつものどこか飄々とした茉里花さんはどこかに行ってしまったように見えた。彼女はおびえていた。果たして僕にできることはあるだろうか。
「別に説明しなくてもいいから。余裕のあるときで」
「それじゃちょっと甘えすぎだよ」
「甘えてもらうのってけっこう嬉しいものだよ。だから、平気。あの、スープを作ってきたんだ。飲もうよ——新幹線で水筒って大丈夫かな? 飛行機みたいに爆発しないよね? 気圧とかで」
「だめだよ。しなきゃって決めてきたんだ。なんで——どうしてわたしがこんなになっちゃったかとも関係あるし」
 茉里花さんは僕に手のひらを差し出した。手を取ってから、その冷たさにショックを受けた。二回りほど大きな僕の両手で、その手を包み込んだ。
 少しでも暖かくなれば。
「まとまらないかもしれないけど、聞いて。最後まで話すから」
 僕ははっきりとうなずいた。彼女の手のひらに汗がにじむのがわかった。新幹線が空気を切り裂いて進んでいく音だけが響いていた。茉里花さんはぽつりぽつりと語り始めた。


* * *


 何から話したらいいのか、ずっと考えてきたんだ。でもぜんぜんまとまらなくて、だから、思いつく限り話す。意味わかんないこと言ってたら止めてね? ——ありがと。
 あのね、うち、小学校までは東京じゃなかったんだ。そのときは田舎に住んでて、お父さんは自営業をやってて、お母さんはわたしができて仕事をやめて、専業主婦になった。わたしが生まれて、小学校に入って——それくらいまではお父さんの仕事も順調だったんだけど、ちょっとずつ雲行きが怪しくなっていって。お金もなくなっていって、最後の方にはぜんぜんおもちゃとか、服も買ってもらえなくなっちゃったんだ。
 今までよそと比べても仲良しだと思ってたお父さんとお母さんも、どんどん仲が悪くなっていって、お母さんがもう一度働くとか、でもこんな地方都市じゃろくな仕事がないとか——あ、お母さんは東京出身でお父さんといっしょになるために越してきたんだけど——なんでこんなところに来ちゃったんだとか、文句ばっかりになっちゃって。
 家がそんなだから居場所がない感じがして、だから、遊ぶ相手がいてもいなくても、「今日は遊んでくる」って言って、なるべく外にいたんだ。
 いつだったか、町からちょっと外れたところにある、つぶれた工場に行こうと思ったんだ。前に車で隣町に連れてかれたときに近くを通りかかったのを覚えてて。町中で行けそうな場所はもう全部行っちゃって、だから、もうそこしかないと思った。
 家から工場まではけっこうかかって——時間がつぶせるからそれもよかったんだけど——、暑い日だった。夏だったんだよね。昔は元気だったなあ……
 工場は草だらけだったけど、門を乗り越えてなんとか入って、中を探検してた。そう、夏なのにどこか空気がひんやりしてて、ちょっと気持ちよかった。
 そうしたら、歌が聞こえることに気がついたんだ。知らない言葉の歌。ちょっと和風な感じがしたけど日本語じゃなかったと思う。女の人の声でアカペラだったんだけど、じっと聴いてると、なぜか後ろで楽器がたくさん鳴ってるみたいな——不思議に立派で、なんていうんだろう、ヘンだけど、聖なる天の神様……感じみたいなのがしたんだよ。
 あーもう、そこは笑ってくれなきゃ。そうそう、そんな感じ。その方がいいな、気楽に構えて聞いててよ……うん、お願い。
 それでね、歌声のする方に行ってみたんだ。大きな倉庫の中からしてるみたいだった。壁がやぶれてて、その後もずっとそこの穴から出入りしたんだけど、そこから入った。
 そうしたらね、中で〝その人〟が歌ってたんだ。工場の奥の壁のほうに座ってた。そこだけ天井に穴が空いてて、陽が差し込んでた——
 女の人だった。昔の、教科書の平安時代のとこに出てくるすごい着物、なんだっけ——じゅうにひとえ? そう! それ——を着てた。でも、どこからかわからないんだけど、血が出てて、大けがしてるように見えた。ぎょっとしたし、怖いし、でもとにかく救急車を呼ばなきゃって思って、すぐに戻ろうとしたんだ。そうしたらね、
「まりかちゃん」
 って、名前を呼ばれたんだ。やさしい声だった。名乗ってもいないのに。不思議だなって思った。怖いっていうより、不思議だった。
「こっちにいらっしゃい」
 そんなばかなって感じだけど、そう言われてわたしは素直にそっちに行っちゃったんだよね。
 近づいてみてわかったんだけど、女の人の着物がきらきら輝いてて、その人自身もぼうっと光っているように見えたんだ。
 ケガしてるよ、ってわたしは言ったと思う。でも大丈夫だってその人は言って……それからは詳しく覚えてないんだけど、たくさんおしゃべりをしたんだ。学校のこととか、勉強のこととか、それからもちろん家のこととか。楽しそうにわたしの話を聞いてくれて、嬉しかった。きれいで不思議で、すぐにその人のことが大好きになった。でも、そのうち帰らなきゃいけない時間になって、さよならだねってなったときに、その人はわたしに言ったんだ。
「まりかちゃん、私の娘になるっていうのはどう?」
 嬉しかった。なんだか居場所ができた気がした。この人もわたしと同じでさびしいんじゃないかと思って、それもなんだか嬉しくて。だから「うん」って言った。また明日も来るねって言った。その日からその人はわたしの〝お母さん〟になったんだ。
 あっ、でもさ、嬉しかったって言ったけど……でもサトルくんに好きって言ってもらったときの方が嬉しかったからね。それは心配しないで!
 ああもう、泣かないでよー、泣いてない? そっかあ……泣いてもよかったんだけど。えっと、どこまで話したんだっけ。
 それから毎日〝お母さん〟のところに行くようになった。色んな話をして、楽しかった。一ヶ月くらい経ったころかな。お母さんはどこから来たの?って聞いてみたんだ。
「お母さんは天の国から来たの。世界の残り時間はもう少なくなってきていて、天の者達が世界を直接治めることになったのよ。お母さんはね、とても偉いお方の命令で、先んじて地上の様子を確かめに来たんだけど、事故があってここに落ちてきてしまった。だからお役目を果たせなくて困っていたの。そこにまりかちゃんが来たのよ」
 それを聞いて、やっぱりお母さんもわたしと同じなんだって思った。お母さんの力になりたかった。それで、お母さんが言ったんだ。
「ねえまりかちゃん。お母さんの、〝ほんとうの娘〟にならない? そして、お役目を代わりに果たして、お母さんと一緒に天に帰るの。そのためにはまりかちゃんに試練を与えなければならないけれど、あなたなら乗り越えられるって思うの」
 そう言ってもらえてすごく嬉しかった。もちろんオーケーして、それで——呪文を教えてもらった。すごく長いやつ——でもすぐ覚えちゃったんだから子どもの記憶力ってすごいよね。それを寝ないで夜通し唱えるの。お父さんとお母さんは気味悪がったけど、でもわたしに罪悪感があったんじゃないかな。止めなかった。
 それができるようになったら、今度は〝お堂〟の作り方を習った。そのあたりにあるものを組み合わせて、お堂って言っても、ひざくらいの高さで、そう——捧げ物をね——捧げられればいいから。


* * *


 茉里花さんはそこまで話してから、大きく息を吸い込んで、それから何か言おうとして——そして、黙り込んだ。
 僕はと言えば、茉里花さんの現実離れした物語をどう受け止めたらいいのかわからなくて、その代わりに、自分でもどうしてそんなことをしたのかわからないのだけれど、鞄の中から水筒を取り出して、
「そういえば、スープを作ってきたんだ、良かったら」
 気がつけばそんなことを口走っていた。もちろんと言うべきか茉里花さんはそれを断ると「ありがとう。サトルくんは優しいね。ほんと」そう言ってから、「気分いい話じゃないから一気に行くね。気持ち悪くなったらストップって言って」と前置きしてから、続けた。
「お堂ができたら、今度はそこに、供え物をしないといけなかった。生き物をつかまえて解体して、そこに置いて。最初は虫。何種類かの虫で同じことをした。それが終わると鳥だった。ハトが多かったかな。そのころにはもうすっかり慣れちゃってた。おかしいんだけど、でもそれはただの獲物で、生き物って感じじゃなかったんだ。何より、お母さんに近づけてるんだってことが嬉しくてたまらなかった。それしか考えてなかったんだ。それで、次は——」
 不意に身体が傾いたような気がして、僕はとっさに姿勢を正した。新幹線がカーブにさしかかったのだと思った。でも、すぐにそれは間違いだったことに気付く。それはめまいだった。目の前で語られている〝事実〟への拒否反応に違いない、と思った。
 生き物を殺して解体して〝お堂〟に捧げる。捧げるのは虫、それから鳥にステップアップして、その次は——
「犬とか猫。哺乳類ってことが重要だったのかもって思う。……これは流石に嫌だった。本当だよ」
 茉里花さんが僕の目をじっと見つめて、言った。思ったよりもショックはなかった。話が読めていたというのもある。けれど、実際のところ、こんな話をされたところで僕にできることは「ただ信じる」ことと「ただ信じない」ことしかなくて、僕はどんなときも全面的に茉里花さんを信じると決めていた。だから、迷う余地はなかった——信じるだけだった。
「でも、お母さんが〝ご褒美〟をくれたんだ。そんなことでご機嫌取られちゃったんだよね——その日の〝お堂〟を作り終えた後なんだけど」
『ここまで頑張ったまりかちゃんにはご褒美をあげましょう。この先、あなたが一生、決して飢えることのないように、加護を与えます』
「それで、わたしはこんな風になっちゃったってわけ」
 ははは、と乾いた笑みを漏らすと、茉里花さんは新幹線の座席ポケットにはさみこまれていたビニール袋と観光パンフレットをわしづかみにすると、いつものように平然と咀嚼し始める。
「わたし、こんなになると思ってなかった」
 紙とビニールをもぐもぐと咀嚼しながら、茉里花さんは大粒の涙をこぼしていた。ごめんね、としきりにつぶやきながら。僕は再び茉里花さんの手を強く握った。弱々しいけれど確かに握り返す感触が返ってきた。
「それでね、最後に、『次はまりかちゃんの今の両親を〝お堂〟に捧げなさい。それができたら晴れてあなたを天の仲間に推薦するわ』って、言われて。それは流石に、本当の本当に嫌で、怖くて、でもお母さんのことは裏切れなくて、家に帰って親の顔見たら絶対できなくなるぞ、って思って……帰れなくて。夜中じゅう、ずっと町中を歩き回って——おまわりさんに補導されて、親が迎えに来た」
 この話はどこに行くんだろう、と思った。それは純粋な好奇心からだったのかもしれないし、茉里花さんが今ここにいるという現在に早くたどり着きたいがためにそう思ったのかもしれなかった。
「お父さんもお母さんもわたしにすごく謝ってきて、今までごめんね、いい親じゃなかったねって。それから本当にわたしのことを大事にしてくれるようになって、なんていうか毒気を抜かれちゃって。普通に考えて親を殺すなんて考え、ありえないってそのとき気がついたんだ。ばかだよね」
 はやく。
 心から願った。早く。もうすぐ僕の知っている飯野茉里花にたどり着く。僕はもうそんなに長く耐えられないぞ。
 目は前列のシートの背面を見つめたまま、聴覚を茉里花さんの言葉に集中させながら、思った。
「そのうちお父さんも東京で仕事が見つかって、引っ越しが決まって——うやむやになっちゃった」
 茉里花さんは僕の手をそっとほどいた。目で「だいじょうぶ」と僕に伝えながら。僕はされるがままだった。
「やっぱり本当の両親が好きなのでやめます、なんて言えなくて、それ以来、工場には行ってない。それだけ、これでおしまい」
 ほう、と息を吐いた。僕の知っている茉里花さんがそこにいた。
 頭がくらくらして、無意識にずっと呼吸を止めていたのだと気付く。それと同時に、頬に暖かい感触を感じた。僕は泣いていた。「サトルくんが泣くことないよ」茉里花さんが泣きながら笑った。
「これがわたしに起きたこと。いまさらずるいけど、こんなわたしに付き合ってくれる?」
「もちろん」
「嫌いになった?」
「この流れで嫌いになったって言える人いないよ」
「そっか、ありがと」
 茉里花さんが僕にもたれかかってきた。肩にかかる茉里花さんの頭の重みと、それから茉里花さんの髪の匂いを感じた。
「そろそろわたしも向き合わないといけないなーって。人間にならなきゃ」
 僕は何かを言おうとした、そのタイミングで車内アナウンスが響いた。次の停車駅は僕たちの目的とする、急行の止まらない、新幹線の停車駅としてはマイナーな、聞いたこともない名前の駅。山ばかりだった景色に少しずつ灰色が増えていって、新幹線がゆるやかに減速を始めた。
「お母さんに、会いに行こう、サトルくん」
「そうだね」

 指定席の予約画面で初めて存在を知った駅の改札をくぐった——分厚い雲が太陽を覆い隠していたせいもあったかもしれないけれど——東京よりも一段と濃い寒気に、駅前は包まれているようだった。
 駅の一番大きな出口を抜けると、商店街のようなところに出た。駅前の最も栄えている一帯らしい。思ったよりも田舎じゃないな、と思った。東京でも見知ったようなチェーン店が並んでいるし、人の行き来も多い。大きくはないけれど、普通の町だ。そのあまりの普通さは茉里花さんの語った物語の異様さから大きく乖離していて、そのギャップは少し僕を混乱させた。
「ちょっと寄ってみたいところがあるんだけど」
 そう言われて断る理由があるはずもなく、僕は彼女の案内で駅から数分の、小さな食堂の暖簾をくぐっていた。
 ちょうど、唯一の客が会計を済ませて出て行くところだった。人気のない店なのだろうか、と思ってから、単にまだ朝が早いのだなと気付く。
「お父さんがここの人と仲良くて。朝早くから夜遅くまでやってるから、よく来たんだ。アジフライが名物だったはず……」
 正直なところあまり食欲は湧かなかったけれど、そういえばこれから〝お母さん〟の居所まで歩くのだ、ということに気付いて、なんとか食欲を奮い起こした。注文を取りに来た割烹着姿のおばさんに「ご飯は大盛り無料ですけど」言われたときは、流石に「普通で大丈夫です」と答えたけれど。
「ねえ、あなた、茉里花ちゃんじゃない? 飯野さんのところの」
 おばさんが出し抜けに尋ねた。「中山さん!?」茉里花さんが声を上げた。「そうよぉ、覚えててくれたのねえ! ずいぶん美人になって……ご両親は元気?」
「はい、おかげさまで。中山さんはちっとも変わらないでキレイなままですね!」
「アハハハハハッ! 注文通して来ちゃうからちょっと待っててね!」
 厨房にオーダーを伝えにゆく中山さんの背を見ながら「多分おかずが増えるよ」と、そっと茉里花さんが僕に耳打ちした。

「茉里花ちゃんたちが引っ越してから、この町もずいぶん物騒になってね。思えばあのときが一番いい時期だったのかもしれないわねえ」
 中山さんのは隣のテーブルに腰掛けてお茶をすすりながら、ものすごい早口と大音量でしゃべり倒していた。きっと僕ら以外の客が入るまでは暇なのだろう。
 アジフライ定食なはずなのにアジフライのみならずエビフライとイカフライまで乗った、妙に豪華な「アジフライ定食」をいただきながら、中山さんの話に耳を傾ける。
「物騒? もしかして、行方不明とか?」
「あら、茉里花ちゃんよく知ってるわね、ニュース見たの? 何年か前に一家がまるごと、こつぜんとね。家は荒らされてて、でもお金は取られてなくて、恨みなんじゃないかって言われてるけど……ウチのお客さんの知り合いだったのよ、しばらくお店出るの怖かったわよー!」
「……怖いですね。その後もそういう事件が続いたりは?」
「そうねえ、流石にそんなに大きなのはそれっきりかもしれないわねえ」
「ペットとか——野良かもしれないけど、犬猫がいなくなったりは?」
「えっ、特にそういった話は聞かないけど……なあに、何かあったの?」
「いいえ、海外ドラマでそういうのがあったんです。心理学のやつで」
「あっ! それ旦那がずっと見てたわよ! ケーブルテレビで! 茉里花ちゃんちも入ってる?」
 二人の会話を聞きながら、僕は黙々と多すぎるフライ類と静かに格闘していた。おしゃべりに参加しながらでは、かなりきつかっただろう。二人のおしゃべりに助けられた格好だった。
 なんとか食べ終えて会計をする段になって、中山さんはレジを叩きつつ、茉里花さんに何気なく尋ねた。
「ずっと気になってたんだけど、そっちの子は? ——はいおつりね、まいど」
「彼氏です」
 茉里花さんがぱっと僕の腕に抱きついて、腕ごと身体をゆすっておどけてみせた。
「あらぁ、やっぱりねえ……」
 中山さんはきっかり一秒ほど口をぽかんと開けてから、すぐに笑顔に戻って、「お幸せにね」とだけ付け加えた。

「あれは絶対、釣り合わないって思ってたよ。実際そうだけど」
「そんなことないって、考えすぎだよ。卑屈になりすぎ」
 腹ごしらえを済ませて、今度こそ〝お母さん〟と出会った廃工場を目指す段だった。しかし、茉里花さんの幼少期の記憶の細部は、いざ掘り起こしてみると本人が思っていたよりは鮮明でなく、工場の名前も、住所も、おおまかな場所を除いて覚えていなかったために捜索は困難を極めた。
「茉里花さんに似合うほど僕はかっこよくない」
「じゃあサトルくんが思ってるほどわたしも可愛くないんじゃない?」
「そういう話じゃなくて……」
 結局、僕らは地道な手段を取るほかなかった。「隣町に車で移動する途中に見えた」という情報を元に、スマートフォンの地図アプリとにらめっこして目星をつけつつ、場所を絞り込む。行ってみる。そうやって二箇所ほど訪ねたが、外れだった。時刻はいつの間にか昼を過ぎていた。
 とは言っても、市街地から少し離れた工業地帯を含めてもなお、この町はそんなに広くはなかった。文明の利器の多大な貢献もあり——スマートフォンの電池を心許ないところまで減らした甲斐はあった——国道を少し外れ、林に半分埋もれるようなかたちで佇む鉄門の前に立ったとき。
「ここだ」と、茉里花さんはつぶやいた。
「ここだよ、間違いない! でも、昔はこんな鍵はなかった……サトルくん、ちょっと見張ってて」
 僕の返事を待たずに、茉里花さんは門扉を閉ざす巨大な南京錠にかじりつく。表面を覆った錆にも躊躇することなく、瞬く間に南京錠にからみつく鎖まで〝完食〟してみせた。
「開けよう」
 僕も茉里花さんの返事を待たずに門扉の端に手をかけた。冬空の下で放置されてきた金属のひんやりとした感触。
 これから僕は彼女の〝お母さん〟に会うのだ。天から来た、〝お役目〟を背負った何者か——人間ならざるものに。
 門はなかなか動かない。門扉をしっかりと掴んで、全体重ごと後ろに傾けた。
 もしかして僕はとんでもなく愚かなことをしているんじゃないかという気がした。
 本当にこれでいいのか? 後で後悔するんじゃないか?
 茉里花さんの手を引いて、この場所からすぐに去る。彼女を思うのならそれが最善なのではないか——
 そう思ったのとほとんど同時に、身体が後ろに傾いて、僕は地面に尻もちをつきかけて——「さすがサトルくん」——ちょうど一人くらいなら通れるだろうというくらいに、門は開いた。
「昔よりだいぶボロボロになっちゃってる……うわっと!」
 僕の想像よりもいくぶんか広い敷地の中を、茉里花さんはずんずん進んでいく。でも、その足取りはどこか注意力散漫で、わずか数メートルごとにつまずいたり、足を止めてきょろきょろしてみたり——妙に落ち着きがない。緊張しているのだと思った。
 事務所か宿舎か、それともまた別の何かなのか。敷地の中には複数の建物が建っていて、このどれかひとつに〝お母さん〟がいるのかもしれない。そう思うと、内臓がぎゅっと絞られるような不快感があった。この敷地に入ってからずっと、みぞおちのあたりが重い。身体が「ここにいてはいけない」と言っているような——そんな気がした。
 もしかしたら、〝お母さん〟の歌声が聞こえるかもしれない。耳をすましてみよう、と足を止めた。
「あった! あそこだ!」
 立ち並ぶ廃屋の中でもひときわ背の高い一棟を、茉里花さんが指さした。走り出した茉里花さんの背中を追って、僕も走った。地面を蹴るたびに理由のわからない頭痛に襲われて僕は顔をしかめた。信じられないくらいあっという間に息が上がる。でも、彼女を見失うわけにはいかなかった。いつの間にか曇天には晴れ間が差していて、目指している場所はそのちょうど下にあった。
 僕の数メートル先で、茉里花さんは立ち止まった。目指していた棟の前だった。
 言葉は要らなかった。ここに間違いなかった。
 そうだ。ここだ。
 茉里花さんが出入りしていたという壁の穴を探す必要はなかった。建物の壁は穴だらけになっていて、中に入らなくても、その様子が見えた。
 雨風に浸食されたコンクリートの床。表面を覆う無数のシミ汚れと同じ密度で林立する、黒い小山のような〝お堂〟の残骸。そして、茉里花さんが話した屋根の穴から差し込む光のもとに静かに横たわる——
 これは何だ?
「そんな! どういうこと!?」
 茉里花さんが再び駆け出す。その背中を追い掛けることはできなかった。
 〝それ〟のせいだ。
 こんなものが、ここに、いてはいけない。
 体表を整然と覆う白い鱗——差し込む日差しを受けて極彩色の光沢を放っていた。
 腕が回らないほど太く、床に幾重にもとぐろを巻いた胴体——よく見れば傷だらけで微動だにせず、一切の息づかいがない。
 巨大な頭部——脳天と思しき場所には、廃材と思しき金属の棒が一本、深々と突き刺さって、そのまわりは血の赤で汚れている。
 そう、死んでいた。
 いびつな龍の他殺体。
 僕の知る言葉を尽くして説明するとして、それで限界だと思った。
 世界最大の爬虫類はコモドオオトカゲで、でもそれもせいぜい数メートル、蛇も確か十メートルは超えなかったはずで、どちらも目の前の生き物には遠く及ばない。人間の英知を完全に逸脱していた。
 それに、龍とは言っても、いわゆるドラゴンとは雰囲気が違う。有名な漫画に出てくる、願いを叶えてくれる龍に少し似ている。でも、あんな親しみ易い造形ではない。細部を観察しようとすればするほど頭痛がしてくるような、粗雑な——それなのに驚くほど秩序だった印象を受ける——危機を感じさせる造形。
 茉里花さんが危ない!
 危機感が僕の身体を動かした。僕は壁の穴のひとつをくぐって茉里花さんの後を追った。〝お堂〟のひとつにつまずいて、木片と何かの白い——骨片——が軽い音を立てて散らばった。喉の奥から吐瀉物みたいにせり上がってくる恐怖の叫びをなんとかこらえて、〝それ〟の傍らに立つ茉里花さんに追いついた。
「茉里花さん、危ないよ!」
 声を出してから身震いした。もしかして自分の声が〝それ〟を起こしてしまうんじゃないか、と。明らかにもう死んでいるのに。
「お母さん……」
「これが、やったのかな、お母さんを、こいつのせいで、いないのかな」
 ううん。
 茉里花さんは首を横に振って、しばらく黙り込んで、それから、
「これが、お母さんなんじゃないかって思う」
「でも、だって、人間だったって、着物を着てたって」
「着物のきらきらと、この鱗、似てるんだ。それから、なんだろう、雰囲気が、お母さんっぽい」
 〝お母さん〟は、「世界の残り時間が少なくなっている」と言った、らしい。
 これが〝お母さん〟で、それを送り出した者たちが〝天の国〟から現れるようなことがあれば——それこそが世界の残り時間がゼロになる瞬間に違いなかった。
「そんな、そんなわけないじゃないか。おかしいよ! こんなの、ありえない!」
「『ありえない』!? じゃあわたしが南京錠食べちゃうのは何!? それは『全然ありえる』ってこと!? じゃあなんでコレはありえないって言えるわけ!? サトルくんは全然わかんないじゃん!」
「わからないよ、全然わからないけど、でも、」
 いつもの茉里花さんではない。そう感じた。怖くなった。こちらの方が本当の茉里花さんなのではないか、と、ほんの少しでも思ってしまったから。
 第六感的感覚で、この異様なものと〝お母さん〟を結びつけることが許されるような世界が、本来の彼女の居場所なのではないか——と。
 見開いたままの〝それ〟の瞳に目をやった。白濁しきって生命の残り香を微塵も漂わせない、濃厚な死の気配。
 眼球に詰まった濃厚な白が、どろり、と動いた。そう見えた。思わず息を呑んだ。ポケットの中でスマートフォンが震えた。突然の振動に縮み上がりながらもポケットから取り出して画面を確認する。「電池残量が10%以下になりました」息を吐いて、画面から顔を上げた。そして、僕は再び息を呑むことになる。
 視界が暗い。見上げた空がほのかに赤い。これは——夕方の空だ。
 来たときはせいぜい遅めの昼だったのに。太陽も高かったのに。
 パニックに陥りそうな思考を必死で落ち着けて、スマートフォンの画面を再び確認する。錯覚ではない。午後四時を回っている。でもどうして? 立っていた床が突然抜けてしまったような恐怖。〝それ〟の目をもう一度見つめることは——できなかった。
 茉里花さんはまだそこにいて、僕に背を向けたまま〝お母さん〟の遺骸を眺めているように見えた。一瞬だけ躊躇して、でもその手を掴んで、意を決して、言った。
「帰ろう」
 僕の声は自分もわかるくらいに震えていた。でも、そんなことは些細なことだった。混乱から立ち直りきらない頭でもわかった。ここから立ち去るべきだ。茉里花さんを連れて。
「うん」
 僕の手を握り返す、ささやかでも心強い感触。僕たちはその場所を立ち去った。
 〝お母さん〟を、やがて来る冬の闇夜の中に置き去りにして。

 工場の敷地を早足に抜けて、しばらく歩く。国道を照らす街灯りの光の下に出た。すぐ側を走り去るトラックの轟音に、戻ってきたのだと安堵する。やっと少しだけ気分を緩めることができそうだった。町の方角を確かめて、また歩き出す。
「ごめんね」
 茉里花さんが絞り出すように言った。握った僕の手を離そうとするから、僕はそれを強く握って離すまいとした。
「気にしてないよ」
「わたし、すごい怒ったのに、暗くなるまでずっとそばで待っててくれて、ちゃんと連れ帰ってきてくれて、面目なさ過ぎるっていうか」
 そうなんだな、と思った。僕が体験したと感じている時間の欠落は、あくまでも僕の感覚に起きたことなのだ。鳴りを潜めていた頭痛がぶり返してきそうで、この件について考えるのは後にするべきだと思った。
「今日は付き合ってくれてありがとう。ほんとに、感謝しかない」
 僕を軽く見上げる茉里花さんはだいぶ疲れた顔をしていて、きっと僕も似たようなものだろうなと思った。
「まだ終わってないよ。帰るまでが里帰りって校長先生も言ってたし。帰ろう」
「それ学校で里帰りするってことじゃん。絶対おかしい」
 二人で覇気のない笑い声を上げながら、町までの道を歩いた。直線距離で歩けば思ったよりも遠くなくて、ものの数十分のうちに僕らは今朝に降り立った駅前に立っていた。
 帰りの指定席の時間までは、まだ多少の時間があった。そういえば、ずっと何も食べていなかった。それに、十二月の寒気は確実に僕らの体力をむしばんでいて、どこでもいいから暖かいところで座りたかった。温かい飲み物があったらなおいい。
「あそこでいいんじゃないかな」
 東京でも見かける、サラリーマン・学生向けのチェーンのそば店だった。僕はいいけれど——女の子と二人で入るにはいかがなものか——そんな風に思いはしたものの、すり切れた頭脳では代案を出すこともできず、僕は「そうだね」と、静かに従った。
 券売機で買った「かけそば・温」の食券をカウンターに出して、セルフサービスの水を半透明のコップに満たし終わる間もなく、食券の番号を呼ばれた。この慌ただしさと店の内装は、ここが東京から数百キロメートル離れていることを忘れそうなくらいに慣れ親しんだものだった。
 丼ごと持ち上げて、温かいそばつゆを味わった。熱い。立ち上る湯気が頬に当たってぴりぴりする。飲み下したつゆの熱が凍てついた食道、胃、そして内臓を強制的に解凍していくように染み渡ってゆく。まるで生き返るようだ。そう思った。
「はあぁぁ〜、あったかい!」
 僕は我慢した歓喜の声を、茉里花さんは我慢しなかったようだ。僕にはそんな勇気はない。なんせ客足の少ない店なので、大声なんて出したら店中に響き渡るのは明らかなのだ。でも茉里花さんは僕とは違う。彼女のこういうところが好きだった。茉里花さんのちょっと変わったところが。自分とは違えば違うほど、彼女が魅力的に思えた。彼女の悪食についても同じだった。彼女の〝普通じゃない〟ところが好きだった。
「ありがとうね、サトルくん。わたし、来てよかった」
 そっか。返事をして、箸を置いた。
「自分が何なのかははっきりすれば、進路のこととか、色んなこととか、もっとちゃんと頑張れるかなって思ったんだ。なんて言うんだろうね。結局さ、甘えがあったんだよ。『最悪、また〝お母さん〟のところに戻って謝って仲間にしてもらえばなんとかなるよね』って。『結局お前は半分くらい〝あっち側〟なんだからこっち側の人たちとうまくやれるわけないぞ』って」
「茉里花さんはそんなことない」
「ありがと。でも確かめないとと思って。怖くて一人じゃ無理だったけど。でも、帰るところなんてなかったし、これからはちゃんと人間するよ。進路のこともちゃんと考える。人間だから」
「うん。一緒に考えよう……一緒に」
 ねえ。
 茉里花さんが僕の瞳をのぞき込んで、「わたしが化け物の仲間だったって知って、嫌いになった? まだ好きって言える?」そう尋ねた。
 それは違う。僕は鼻で笑ってみせてから、「この流れで嫌いになったって言える人なんて」——「味がしてなくても?」
 それはどういうことだ。口に出して言ったと思う。でもその記憶がない。
「この身体になってから、味がしなくなった。何の味も。匂いだけ少しわかるけど、今までとは違う——ただの嗅覚で、味には関係なくて」
「——でも、弁当、おいしいって、僕の、」
「味はわかんなくても、作ってもらえると嬉しいんだ。味はわからなくても、変なお店に食べに行くのとか、どうやって作ったとか、サトルくんから聞くのは楽しいんだ。それで十分楽しいんだ。楽しくて、だから、本当のこと、言えなかった」
 ありえない。そう思った。だって、そんなの前提からおかしい。
 ランチルームで友達と昼食を食べていた。その日も僕の昼食は手作りの弁当だった。隣のテーブルのグループの女子——前から少し気になっていた——と目が合った。「それって手作りなの? 男の子が?」彼女は僕に尋ねた。うなずくのがやっとだった。「何のサンドイッチ?」少しどもった。「た、タンドリーチキンとごぼうサラダ」「めちゃくちゃおいしそうじゃん。ちょっともらってもいい?」胸が高鳴った。「え、う、うん、もちろん」首をぶんぶんと縦に振って、そして彼女の白い指が食パンを掴んで——
「それで、それで君を好きになったんだぞ!」
「わたしだってそうだよ!」
「それで!? あのとき!? あのときめちゃくちゃ緊張して、ちょっと噛んだし——ありえないだろ! そこは委員会のあのときじゃないのか!?」
「そこで怒るの違くない!?」
「そうかもしれないけど! じゃあ、ウソついてたんだって責めればいいのか? どう考えても茉里花さんが一番傷ついてるのに? それってなるか意味あるか? ……どうしたらいいんだよ……」
 しばらく沈黙があった。そんな答え、出るわけがなかった。伸びきったかけそばのつゆを一口、飲み込んだ。もう冷たくなっていた。
「食べ物の味がしない? 匂いも食欲をそそらない?」
「そう、隠してた。ごめん。裏切ってたってわかってる」
「僕もそうみたいだ」
「え?」
「あんなにおいしかったかけそばも味がしないし、冷めてるし、匂いをかいでもぜんぜん食欲が湧かない。お腹空いてるはずなのにな」
「どういうこと?」
「この前茉里花さんち行ったときもそうだったけどね。初対面でご両親がいっぺんにだよ? あのお寿司ぜったい特上だったけど、ぜんぜん味がしなかった」
「なに言ってるの?」
「でも、そんなの大したことじゃなかった。ぜんぜん重要じゃない。冬休みに茉里花さんとこうやって旅行ができたこととか、ご両親にも、あまつさえ人間かわからないような〝お母さん〟にも紹介されかけたりしたことに比べたら!」
 茉里花さんの手を握った。心臓の鼓動が高鳴りすぎて痛いくらいだ。手の汗が止まらない。
「大したことじゃない——だから、また、新メニュー、作るよ。年が明けても。卒業しても、君のお昼ご飯」
「サトルぐううううううんんん〜〜〜〜〜」
 茉里花さんが涙で顔をぐちゃぐちゃにして抱きついてきた。
「大好き、食べちゃいたい」
「それは洒落にならない」
 僕は彼女を強く抱きしめて、大丈夫だよ、と伝えた。茉里花さんはひときわ大きな泣き声を上げて、ありがとう、と何度も繰り返し叫んだ。店からは追い出された。

 新幹線の車内は往路のときと同じくらいに暖かくて、指定の席を見付けて腰を下ろすなり、茉里花さんはものの十数秒で眠りに落ちた。
 通路を挟んだ反対側の席では、男の子が特撮ヒーローになりきって手元のフィギュアと死闘を繰り広げながら絶叫に近い声を上げていたけれど、どうやら疲労が勝ったようだ。

『——お堂が、ちょっと多かった』
 暖かいそば屋の中から一転、寒空の下に放り出されて、仕方なく早めに駅に向かう途中、茉里花さんが言った。
『わたしはあんなに作らなかった……気がする。わたしの後に、他の子どもが来たのかもって、思った。見間違いか記憶違いかもしれないんだけど』
 感情を押し殺した、無彩色の声色。ささやくようなそれは、彼女に寄り添わないと聞き取ることができない。
『だとしたら、その子はどこまでやったのかな? どこまでやりとげたんだろう。そもそも誰があの生き物を殺したのかもわからないし』
『それってわたしに関係あるのかな? そのうち誰かに怒られちゃうのかな?』
 ううん。そう言って茉里花さんはかぶりを振ると、月のない冬の夜空を見上げながら、今度は確かな口調で宣言してみせた。
『でもね、決めたよ。わたし、徹底的に逃げ回ってやろうと思った。死ぬまで。二度と関わらない。逃げ切ってみせる』
『だから、サトルくんも付き合ってね』

 ゆっくりと列車が動き出した。アナウンスが次の停車駅を告げる。
「付き合うよ」
 先ほどと同じ答えを口の中だけでつぶやいてから、茉里花さんの手を握った——大丈夫、目を覚まさないようだ——
 僕も一眠りしようかなと目を閉じた。圧倒的な眠気。心拍数が下がっていくのがわかる。騒ぐ男の子の声も、だんだん遠くなっていって——
「ママ見て! 女のひと! とんでる!」
 意味を理解した瞬間、眠気が吹き飛んだ。心臓が蹴り上げられたみたいに嫌な脈を打った。
「ママ! キラキラの!」
 目を開いた。見開いたと言った方が正しいかもしれない。
 見開いた目で、前のシートの背面を見つめていた。下まぶたの筋肉かぴくぴくと震えるのを感じた。
 きっと何かのイルミネーションだ。アドバルーンかもしれない。とにかく——ありえない。
「すご! きっれい!」 
 そんなわけないでしょ、ウソをつくんじゃありません、とたしなめる母親の声を、どこか遠くの席で叫ぶ子どもの声がかき消した。
「ほんとだ! かぐやひめ! かぐやひめがきた!」
 今すぐにでも、男の子の座席側の窓を見ることができた。その気になれば今すぐにでも彼が見ているであろうものを見ることができるはずだった。
 また他の子どもも同じものをみとめたらしい歓声を上げた。
 ひとつ深呼吸すると、気分がだいぶマシになった。
「付き合うって言ったもんな」
 何人かの大人が立ち上がって、確認に向かう気配がした。
 車内のざわめきが大きくなっていく。
もしかして僕はとんでもなく愚かなことをしているんじゃないかという気がした。
 本当にこれでいいのか? 後で後悔するんじゃないか?
 それでも僕は、眠る茉里花さんの手を握り続けることを選んだ。

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