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その選択に「自由」を感じる




わたしならできるだろうか?


少し前の話になります。



連日オリンピックの競技が

行われていますね。


オリンピックの開催の是非は

わたしが論じるつもりはないので

脇に置いておきますが。

多分ね。

なかなか無いと思うんですよ。


オリンピックの開催に対する感情が

選手にまで向いてしまって

選手が槍玉に上げられてしまうことって。


彼らに責任は無いのにね。



そんな中で

一生懸命に全力でプレーをしながら

そして周りへの感謝を口にする

なんて人間性が高いんだろうって思います。


わたしならできるだろうか?って。


大人な思惑はきっといっぱいあって

大人な事情だらけなのかもしれないけど

その大人な思惑や、大人な事情をみて


それに伴う感情に意識を向けるか


若い選手たちの輝いた姿をみて

そこからの感動に意識を向けるか

それって自分の選択ひとつだよな

って思うのです。



たった1回の演技

たった数回の試技

たった1度の対戦

それに全力を注ぐ、注ごうとするのって

何か、全てを超えて感動します。わたしは。


世の中には

いろんな考え方の人がいて

それでいいと思っています。

何がいいとか悪いとかの話じゃない。


でも、

自分がどんな世界を採用するかは

自分で決めたらいい、とも思っています。


物事には必ず

いい面と悪い面があって

こっちが「いい面」

こっちが「悪い面」

って決めてるのも自分で



どっちでもよかったりもするし

立場や時代や状況によって変わるし

唯一無二の答えなんてわからないし



わたしは

何もわかっていないけれど。


わかっていないからこそ

「今、自分が何を選択するか?」

の自由があるんじゃないかな。



人生は「体感」



わたしはね

恐怖と怒りで心をいっぱいにするより

不安と恐れに振り回されるより

幸せで心をいっぱいにしたいし

感動で涙したいし

ほっこりする時間がたくさんあったらいいし

人との絆を感じていたい。



感情は振り回されるものではなく

自分の心いっぱいに感じるもの

自分が何を感じて生きていきたいか

それを意識的に選択しようとすれば

選択できるんだよね。



そのことを知った時から

わたしの人生は変わったな

と思うのです。



人生は「体感」だから。


自分の人生の時間

何を「感じているか」で決まる感じがするから。


目の前の出来事は変わらなくても

そこから何を感じるかは

自分で選択することができるって

ものすごく自由じゃない?


あなたは

何を感じて生きていきたいですか?

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