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高坂正堯著「世界地図の中で考える」書籍レビュー

 本書は、京都大学教授で、国際政治学者であった高坂正堯氏が、今から55年前の1968年に出版した書籍である。その内容は、近代文明がもたらした功罪を、地政学的な視点、さまざまな史実から見つめ、近代文明が持つ能力とその限界を思索したものである。

 私が高坂氏を知り、著作を読んでいたのは、30年以上前の20代のころ。

 塩野七生氏の最新巻「誰が国家を殺すのか 日本人へV」を購読したところ、”高坂氏の書籍を読み直し、その視点が、50年以上を経た今なお、普遍性を持つことに感銘を覚えたこと”を書き記していたことがきっかけで、30年ぶりに、本書を再読し、書籍レビューを書くこととした。

 本書を紹介する前に、高坂正堯氏に触れる。高坂氏は、1934年(昭和9年)京都に生まれる。哲学者を父に持ち、京都大学に進学し、国際政治学者を志す。ハーバード大学で国際政治学の研究を行い、1963年(昭和29年)に帰国。同年、『中央公論』に「現実主義者の平和論」寄稿したことが、高坂が一般に知られる契機となる。当時は、戦後まだ約10年。日本には戦争の爪痕が残っていた。世論も「非武装中立論」が主流を占める中、その道義的な価値を認めながらも、戦争のない国を実現する難しさを指摘し、軍事力の裏付けのある外交政策の必要性を主張し、論壇に衝撃を与える。30歳前後にして高坂は現実主義を代表するオピニオン・リーダーとしての地位を確立する。その後を境に、「行動する学者」として、佐藤栄作、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘の歴代総理のブレーンとして長く活動する。また、研究者、教育者としても、京都大学教授を務め、多くの著作を出版、多くの研究者、政治家を育て、日本を代表する国際政治学者となる。しかし、肝臓癌を患い、1996年(平成8年)62歳の若さで逝去する。一般に社会科学者らの著作は時を経ると時代遅れになるが、高坂は没後30年近くを経ても『現代の古典』として研究者・専攻学生たちに読まれ続けている。

 それでは、本書の概要を記す。著者は、
・筆者がタスマニアに研究者として招へいされ5か月の滞在で考えたこと
・アメリカ文明への考察(如何なるものか、そして功罪)
・ヨーロッパ文明への考察(如何なるものか、そして功罪)
の思索を通じ、近代文明が持つ能力とその限界を考察する。

 まず、タスマニア大学から招へいを受け、5か月の滞在を決めた理由を、以下のように記している。

 私は南半球から地球を見上げたかったのである。われわれは北半球に住んでいる。だから、われわれが地球と地球上にくり広げられる人間の営みを見る目は、北半球からの見方である。南の端から地球の出来事を見るとどうなるだろうか、私はそれを経験してみたかった。(中略)
 たしかに、科学的にみれば地図は何通りもは存在しないであろう。海と陸の配分、川の流れ、山の連なり、砂漠の存在、それらは見る視点によって変わりはしない。日本のなかで使われている地球儀とオーストラリアのそれはたしかに同じである。しかし、この科学的な地図ほどわれわれに誤解を与えるものは少ないのである。なぜなら地球の形そのものはほとんど変わらなくても、それが人間に対して持つ意味は時代によって、また見る人の目によって異なる。
 地理が人間に対して持つ意味が時代によって変わることは、人間が地球からなにを得るかということについても、また、人間の地球上の往来、すなわちコミュニケーションについても、明らかである。(中略)
 しかし、人間は地理が各時代において持つ意味を正確に捉えると限っていない。人間は大抵、過ぎ去った時代を見る目(地理的視野)によって地理を見ている。人間の技術の発展が与える新しい可能性を捉えることは容易ではないのである。(中略)
 それに、われわれの地理的視野はわれわれがどこにいるかによっても異なる。人間はどうしても自己中心的で、自分とのつながりによって世界を見るからである。(中略)
 つまり、われわれはそれぞれ独自の「世界地図」を持っている。(中略)
 だから、われわれは、地図の持つ意味をつねに探し求めなくてはならないし、その際に、われわれの地理的視野の歴史的性格と主観的性格に留意しなくてはならないのである。過去の歴史が地図の上でどのようにしてくり展げられてきたかを考えることや、現在の技術の状態に認識を深め、それが地理の意味をいかに変えるかを考えることは、きわめて重要なことなのである。

高坂正堯著「世界地図の中で考える」より

 著者は、今まで人間にとってほとんど無価値であった中東の国々が、石油掘削技術の進展により、貴重な資源の宝庫となり、世界のエネルギー重要な戦略拠点に変わったこと、大型貨物船の発達により、太平洋により、他の世界から切り離されていた日本が、海洋国家としての優位性を持ち、戦後の経済発展の基礎になったことを挙げる。
 現在に目を向けると、アメリカと中国の激しい闘争の中で、日本列島が、中国の海洋進出を阻む、アメリカにとっての不沈空母になっており、その重要性が増していることを考えると、著者の指摘は、時代を経ても変わらぬ、国際政治の本質であると感じる。

 また、タスマニアの原住民が、イギリスの入植により滅び、その後、アメリカの科学技術により、タスマニアの森林が開発された影響により、山火事が多発、大きな被害を受けていた事に、以下のような、指摘を記している。

 現代文明は人間にとって確かに強力なものではあるが、自然を統制するほど強力ではない。それなのに、現代の人間は現代文明は人間がその意思に応じて使いこなすことができ、しかも相当大幅に世界を変えうると考えているように思われる。それは大層危険なことではないだろうか。

高坂正堯著「世界地図の中で考える」より

 今から50年以上前、科学万能がうたわれていた時代の指摘である。現代文明が引き起こしている、歯止めがかからない環境破壊問題を考えると、その指摘の先進性に驚きを感じる。

 次にアメリカ文明への考察について

 十九世紀の後半から二十世紀の前半に至る百年間は、世界における優越を求めて激しい力の闘争がおこなわれた時代であった。列強はその闘争に勝つために、領土を拡大し、国内の体制を効率的なものにしようと努力した。そして、結局、効率的な国内体制を持ち総力において秀でるアメリカが、もっとも強力な国としてあらわれたのであった。(中略)
 実際歴史は思いがけない過程を辿り、しばしば皮肉な結果をもたらす。世界における優劣を求めて戦われた一世紀間の力の闘争は、その典型的なものであった。その力との闘争ともっとも縁の薄い国であり、二つの世界大戦に巻き込まれるのを避けようとしたアメリカは、一世紀間の力の闘争が終わったとき、世界最強の国になっていた。(中略)
 アメリカが力の闘争に関係を持たなくてもよかったのは、主として地理的環境のおかげであった。大西洋と太平洋という二つの大洋によって、世界政治の力の闘争から切り離されていたためであった。(中略)
 それはアメリカにとって、なんと大きな幸運だったことだろうか。

高坂正堯著「世界地図の中で考える」より

 著者は、アメリカが近代に大国となった理由を、地政学視点から解き明している。昨今、国際政治が、地政学視点から語られることが多い。この点もまた、その先進性に感心を覚える。
 第二次世界大戦後、世界の超大国となったアメリカは、自由主義陣営のリーダーとして、世界の覇権を掌握すべき、世界進出を図る。そんな中、ベトナム戦争が勃発し、ベトナムは、南北に分断される。アメリカは、南ベトナムを「分断国家」として独立の国とすべき、軍隊を派兵するが、ベトコンの抵抗に合い、最終的には、撤退をする。著者は、アメリカの撤退の原因を通し、現代文明の限界に言及する。

 ベトコンはホー・チー・ミン・サンダルと黒いシャツが印象づけるような、原始的な戦闘員ではない。それはそれはソ連など工業国で作られた優秀な軽火機を持っていて、よく訓練された戦闘員なのである。たしかに、アメリカ軍はヘリコプターやタンクや水陸両用車などによって驚くべき高度の移動力を持っているし、その火器もベトコンのものに優っている。アメリカはたしかに優秀な空軍力を誇っている。しかし、ベトコンは優勢なアメリカ軍が来た時には逃げて、戦わず、小火器がものを言う近距離の戦闘を、小さなアメリカ軍の部隊に対しておこなうという戦術をとる限り、その兵器と戦闘能力においてそれほど見劣りがする存在ではないのである。(中略)
 地図を見れば判るようにインドシナ半島は地形や人種的構成から、ゲリラ部隊に対する外から補給をおこなうのに、理想的な場所なのである。南ベトナムの国境は長く、しかも山岳地帯でジャングルであり、どこが国境かよく判らないくらいの状況だからである。だから、ベトコンは十分でなくても。戦闘をつづけるだけの補給を受けることができる。(中略)
 そうした限定戦争においては、アメリカの巨大な力は生きてこないし、またアメリカはそのような限定戦争に決して強くはないのである。(中略)
 ひとつの文明はいかに強力であり、秀でたものであっても、異質の環境においては強力ではなくなり、よい効果を及ぼしえないのである。文明には限界点のようなものが存在する。そしてこの事情こそ、全ての国家の勢力圏の限界点を作り出して来た。(中略)
 あるひとつの国や文明は、あるひとつの限度のなかでのみ、善であり、強力でありうるのである。(中略)
 ただ困ったことに、軍事力はその文明の限界点を超えて、及ぶ。技術の発達に伴って、超大国の軍事力は世界の隅々にまで及ぶようになったのである。しかし、軍事力は及んでも、総合力としての文明の効果は及ばない。したがって、その効果は破壊か、よくいって敵対勢力の抑止である。少なくとも、軍事力という暴力だけが赤裸々に目立つことは間違いない。そうしたとき、秀でた国や文明は、その輝きを失い、醜さを示し始めるのである。つまり、軍事力の及ぶ範囲と、全体としての文明の影響力の自然な拡がりは異なるのであり、そこにさまざまな問題がおこるのである。

高坂正堯著「世界地図の中で考える」より

 ”軍事力が秀でた国が、限定戦争においては、決して強くはない”、”そういった戦いにおいては、軍事力という暴力だけが赤裸々に目立ち、軍事力に秀でた国は、その輝きを失い、醜さを示し始める”という指摘は、現在のウクライナ戦争に、そのまま当てはまるものである。

 以上が本書の概要である。

 私が本書を通して、感じ、考えたことは、
・優れた知性が語り掛ける言葉は時代を超える(古典が持つ力)
・技術が進化しても人間は自分の環境に影響を受け、物の見方が作られる
の2つである。
 国際政治学について語った書籍だが、人間の思考にベースを置き、その思索を行った書籍ゆえに、個人としての考え方にも、つながる内容だと思った。

 最後に、本書のあとがきを、感銘を覚えたので、紹介する。半世紀を経ても、その言葉は、現在を生きる我々にとって、きわめて示唆にとむ内容である。

 われわれは二重の意味で、前例のない激流のなかに置かれている。ひとつには、通信・運輸の発達のおかげで世界がひとつになり、世界のどの隅でおこったことでも、我々に大きな影響を与えるようになった。(中略)そして、歴史の歩みは異常なまでにはやめられた。次々に技術革新がおこり、少し前までは考えられもしなかったことが可能になる。われわれの生活はそれによって影響を受けるから、われわれは新しい技術に適応するための苦しい努力をつづけなくてはならないのである。ややもすると、われわれは激流に足をとられそうになる。
 皮肉なことに、こうした状況はかって多くの人々の夢であった。人々は世界のどこにでも手軽に行け、世界中のできごとを早く知りたいと思ったし、文明ができるだけ早く進歩することを願った。そうした願望は大体のところは実現したのである。そして、実現した願望が今やわれわれに問題を与えている。
 そのような状況を捉えるためには、何よりも事実を見つめなくてはならない。とくに、文明についての早急な価値判断を避けて、その恩恵と共に害悪を見つめることが必要であると、私は考えた。

高坂正堯著「世界地図の中で考える」より

 

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