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きみが僕にウサギの耳を生やした

骨の話です。やな感じがしたら読み飛ばしてください。話自体はフィクションですが、記憶と想いを書き留めた備忘録のようなものです。


 妻は僕を「うささん」と呼ぶ。
 寂しがり屋の方のウサギだ。
 プロポーズの返事は「うささんが死んでしまうと困るので一緒にいてあげよう」だった。ウサギも俺も寂しくてどうにかなったりしないと返したら、無粋な奴めと脛を蹴られた。
 友人連中からは図体がでかくて邪魔だのむさ苦しいだの顔が亀に似ているだのと言われたい放題な僕の頭に、彼女は容易くウサギの耳を生やす。
 いつぞやも名案を思いついたとばかりに小指を立てて、
「『愛してる』の合図を決めました。寂しがり屋のうささんに、電車の中でも食事中でもいつでも想いを伝えられるように」
「きみは恥ずかしい人だね」
「愛してると言った後にゆびきりげんまんも出来る便利な合図です」
 愛なだけに、と冗談めかして僕の腕にしがみつく。
「来週、デートしましょう」
 差し出しされた華奢な指。僕はぞんざいに小指を絡ませた。
「うささん、これは約束じゃない方の小指も含みますよね?」
「‥‥」
 仏頂面の僕を眩しいばかりの笑顔で見上げた。

 てっきりしわくちゃの爺になるまで掌の上で転がされるものと思っていたが、出張先で火急の報せを受けた。妻が倒れた。手術が必要だという。取るものも取り敢えず病院に駆け付けると、既に処置の最中だった。
 看護師に促されるまま別室に入る。室内は二三家族が待機できる程度の広さでソファーとテーブルが据えられていた。
「緊急でしたので同意書にはこちらでサインさせて頂きました。手術が終わるまで控室でお待ちください。処置が済み次第お知らせに上がります。ICUに入室の際は手袋とマスクの着用を──」
 僕は看護師の言葉を動かない頭に無理矢理ねじ込んだ。
 集中治療室のベッドに横たわる妻は微動だにしなかった。ベッドサイドのモニタの数値は安定せず、しきりにアラームが鳴っている。計器に囲まれた小さな体は幾つもの管につながれて、まるで機械の一部に見えた。
 どこをどう帰ったかわからない。真っ暗な部屋で僕は何も感じない生き物になってうずくまっていた。息をしているだけの役立たずな置物だった。
 うささん、うささん。
 頭の奥で声が響く。きみがいないと僕は部屋の灯りすら点けられない。

 仕事の合間を縫って見舞いに行った。
 幾日か経って個室に移動したが、依然として計器がベッドを取り囲み、管も外れない。物々しい雰囲気だった。呼吸器が呼気で微かに曇ると、生きている、と安堵した。
 容体は二転三転した。少しずつ言葉らしいものを発したし、ぎこちない右手で筆談する事もあったけれど、そのうちに自発呼吸が難しくなって、気管を切開して呼吸器を挿入するか否か選択を迫られた。
 僕は彼女を引き止める気はなかった。彼女は体中の管を引き抜いて逃げ出したい衝動を堪えている。苛烈な痛みに絶望している。僕は痛みを取り去れない、励ませない、抱きしめられない。

 彼女は選んだ、生きることを。その選択は僕には到底抱えきれなかった。治る見込みなど微塵もない。自力で起き上がれる兆しもない。なのに抗うのは、
 ‥寂しがり屋のウサギのために?

 僕は彼女に問い掛けた。
「どうして、まだ、がんばれるんだ」
 彼女はかろうじて動く右手でペンを掴み、震える指先で答えた。
「死んで会えなくなるのが何より寂しい」
 僕は金縛りにあったみたいに動けなくなった。
 僕は置いていかれる僕の事ばかり考えて、きみを思い遣れていなかった。死は全てを浚ってしまう。全ての人に会えなくなって、世界の全てが見えなくなって、誰とも言葉を交わさなくなる。きみはこの世界にいたい。僕がきみにこの世界にいて欲しいのと同じに。
 僕らは朝から晩まで病室で同じ時間を過ごした。僕は今まで内緒にしてきた恥ずかしい話をした。初めてキスした日、清水の舞台から飛び降りる覚悟で抱きしめた事。項の匂いが好きな事。
「そろそろ帰るよ」
 痩せた指に僕の小指を絡ませた。僕らは小指で囁き合う。また明日、どうか明日も、同じ世界にと。

 ある日。帰り際に小指を結ぼうとしたら、彼女が僕の手の甲を撫でた。労るように三度ほど。
 そうしてその晩遅く、彼女は事切れた。

 彼女の骨は美しかった。薄い桜色がさしてまるで桜貝のようだった。
 僕は崩れた手首の先にある小さな骨をひとつ拾った。白い円柱形の陶器はすぐに彼女の欠片でいっぱいになった。
 きみがいる場所は世界中のどこよりも遠い。どうして僕らは二つに分かれて生まれたのだろう。一つなら愛する寂しさも失う寂しさも知らずに済むのに。きみが生やしたウサギの耳が僕の頭からどうやってももぎとれない。
 納骨の前日、白い布を解いて円柱形の壺の蓋を開けた。骨は僕をねこそぎ空っぽにするのに、桜貝のように美しかった。
「愛してる?」
 一番小さな骨を小指に見立てて問い掛ける。
「愛してる」
 掌に乗せて想いを告げる。
 骨が何かを囁いた。食べれば一つになれる気がして、僕は小指で骨に触れた。

1999文字


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