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もう恋はしない

 付き合って半年になる彼は、ろくに手も繋がない。
 部屋でDVDを観ていても肩も抱かないし、アイシテルなんて絶対言わない。
 告白は私から。好きと言うのも私から。
 毎日のように会社で顔を合わせるけれど、話す事といえば仕事一辺倒。
 告白した時、確かに彼は言った。
「俺はもう恋はしない」
 昔付き合っていた人に大失恋をしたのだという。
 なのに私ときたら声を聞けば姿を目で追わずにいられないし、夜になれば彼が私の夢を見ればいいのにと願ってしまう。
「付き合ってみてやっぱり好きになれないなら振ってください。何もせずにあなたを諦めるのは嫌なんです」
 終わらなかっただけで始まってもいない恋は会社の皆に内緒だ。いつ壊れてもおかしくない恋を大っぴらに出来るほどハートは強くないし、彼の見えない傷が癒えるまで秘めて待ちたかった。
 そんな折。同期の淀君が聞き捨てならない台詞を吐いた。
「あの二人、付き合ってるんですかね?」
 彼と南さんが話している様子を遠巻きにして言う。
「‥どうしてそう思うの」
「だってあの二人特に打ち解けてるでしょう」
「それは‥同期だし」
 素知らぬたふりをしたが内心穏やかでない。
「俺、先週仲間と飲みに行ったんです。で、見たんですよ。仲良さそうに腕組んで歩いてるとこ。丁度飲み屋から二人が出て来て‥‥」
 しまったと思った時にはもう遅かった。涙がすうっと頬を伝った。
「ど、どうしました」
「なんでもないです」
「なんでもないって事は‥‥そうだ!今日飯行きませんか。奢ります」
「結構です」
「そう言わずに。俺の気が済まないので」
 その場は適当にあしらったものの、定時と同時に会社の前で待ち伏せされて、渋々近くの飲み屋の暖簾をくぐった。彼との関係を追求されないような話題を探して口篭る私に、
「違ったらすみません。もしかして、あの、好きだったりします?だから泣いたとか‥‥」
「いえ、全然」
 正直さっきの話は不愉快極まりなかった。うっかりすると怒りが溢れそうだ。
 淀君に何のかのと突っ込まれるのは想定内。でまかせを言ってもボロが出るだけ。真実を含ませた方が嘘に信憑性が増すと言うし、ここはひとつ正直に。
「実は私付き合ってる方がいまして。煮え切らない人なので寄り添って歩くとか出来ないんです。だから二人が羨ましくてつい」
「つきあってどれくらいです?」
「半年くらいかしら。でも付き合ってる感じが全然しなくて。私の事もさほど好きではないと思うの」
「はあ、大変ですね」
「私、面倒な人は好みではないのだけど惚れた弱みね。あの人も貴方くらい分かり易ければ良いのに。本当に何考えているのかしら」
 トマト料理に大量のハバネロを入れてやろうかしら、林檎の切り口に生姜を塗りたくってやろうかしらと毒づく私に、
「あの、もしストレス発散になるなら、ライブ行きませんか?」
「ライブ?」
「このバンドなんですが」
 淀君はアイポッドに繋がれたイヤホンを差し出した。耳に入れると聞き慣れた重低音がリズムを刻んで駆け抜けた。
「あ、これ!私好きなの!ご一緒していいのかしら?」
「ホントですか?良かった。いいですよ行きましょう。来週の日曜日です。空いてますか?」
「ええ」
「じゃあ決まりですね」
 刺しつ刺されつ飲むうちに思いの他話し込んでいた。腕時計は八時近くを指している。明日に響くからこの辺でお開きねと駅で別れた。
 常なら会社の最寄り駅から電車で帰る。けれどひと駅分歩いて頭を冷やしたかった。
 寄り添って歩く二人の姿を想像すると怒りで目眩がする。煮え切らないのは昔の彼女のせいとばかり思っていたのに、南さんとただならぬ雰囲気ってどういう事。
「おい、こんなとこで何してんだ?」
 背後から声がした。目で追わずにいられない声。振り返りたい気持ちを無言でねじ伏せた。
「定時で上がったんじゃないのか」
 説明するのが面倒くさい、適当にはぐらかしてしまえ。
「喫茶店で本を読んでました」
「一人で?」
「普通喫茶店で人と向い合って本を読んだりしませんよね」
「何怒ってんだ」
「感動を噛み締めてる所を邪魔されたので不愉快です」
 不意に彼が鼻先を髪に寄せた。音がするほど高鳴る心臓が忌々しい。
「髪が煙草臭い。あと少し酒臭い」
「私が誰と飲もうと勝手でしょう。あなたもどうぞお好きに」
「え?」
「淀くんに言われたんです。あなたと南さんが付き合ってるんじゃないかって。たまたま見掛けたそうですよ」
 私は振り返らずに一目散に駆け出した。夜風は芯から冷たくて淀君と話して仮初に暖かくなった心はすっかりしぼんでしまった。
 週末まで私達はろくに口をきかなかった。彼はずっと忙しかったし、元々仕事のある日は夜寝る時にメールを入れる以外にコンタクトを取らなかった。仕事相手に入れる定期連絡のような決まりきったオヤスミの一言を互いに送り合うだけ。それでも常なら惜しむように押す送信ボタンを投げやりに押して私は頭から布団を被った。
 時折、淀君がフロアに顔を出して「週末大丈夫ですか?」と尋ねた。元気出して下さいねと差し出されたメモリースティックの新しい音源をエンジンに私は一週間を乗り切った。
 ライブは思いの外楽しかった。音楽に身を委ねてその場にいる人と好きなものを共有し同調して、一つの大きな波になったようで充足した。
 帰る道すがら鼻歌交じりに歩いていたらメールが入った。彼からだった。会って話したいと一言。もう帰るところなので結構ですと素っ気なく返した。
 浮き足立つ自分が腹立たしい。会いたい。会いたい。
 だけど会えばきっと怒りが抑えられない。面倒くさい女になってしまう。心の隙間を埋める程度の都合のいい女でなければきっと振られてしまう。一方的に私が好きで、たった一言で舞い上がってしまうくらい好きで。考えていたら涙が出てきた。恋なんてするもんじゃない。
 日が落ちるまで河原をそぞろ歩いた。家に戻るとロングコートを着た人影があった。夢に見るほど瞼に焼き付いた姿。
「言い訳もさせてくれないのか」
 声が胸に突き刺さった。始まってもいない恋を終わらせたいなんて誰が思うだろう。
「あなたがどなたと飲みに行こうが構いません。どんな話をしたかなんて聞きたくないです」
「俺は構わなくない」
 彼はやけにはっきりと言った。
「南の奴、家の事情で会社辞めるんだ。まだ俺と室長しか知らない。誰にも言わないで辞めたいからって送別会代わりにあの日、二人で飲んだ。だけど俺、考えが足りなかった。お前に黙って二人きりで行ったら駄目だった」
 彼はそっと私の頬に触れた。指先がすっかり冷えていて一体いつから待っていたのかと胸が切なさで千切れそうだった。
「嘘つかれて俺が思ったんだ。お前のもんは髪の毛一本他の奴に触らせたくないって」
 堪えても勝手に涙が零れた。悔しい。どうしてこんなに振り回されるんだろう。恋はなんて面倒くさい。
 彼は凍えた腕で甘い夢のように私の背中を抱き寄せると、
「お前の香水って、柑橘系の香りだな」
と、噛みしめるように言った。
 

「おつかれさまです!」
「淀君。暫く見なかったけどどうしてたの?」
「冷たいなあ」と縋るように淀君が言う。 
「実は先週ライブ行った後、風邪で寝込んじゃいまして‥。熱下がんないしキツかったけど、イイ事もありました!彼女が看病に来てくれたんです。愛を感じました!」
 丁度通り掛かった彼が素知らぬ風に、
「お前彼女いるんだ?こいつとライブ行ったって聞いたからてっきり‥」
「やだなあ実はこの人もいるんですよ。煮え切らない彼氏が」
 やはり人の口に戸はたてられない。慌てて咳払いをする彼に、私は謝罪の意を込めて首をすくめた。
「憂さが溜まっているようだったので誘ったんです。勿論仲間も彼女も一緒にですよ?半年も付き合ってるのに全然付き合ってる気がしないとしょげてたので。可哀想に悪い男に捕まったんですね。あれ。どうしました?みぞおち押さえて。胃痛ですか?」
「いや、胃と胸がちょっとな‥」
 彼が良心の呵責に耐えかねるように言い淀んだ。私がお先に失礼しますと声を掛けると弓矢で射るみたいな真っ直ぐな目をした。
「俺も帰る。一緒に飯食おう」
「珍しいですね。お忙しいんでしょう?」
「まあな。けど今日はイイんだ。なんか旨いもん奢るよ」
「旨いものですか?お高いですよ?」
 私達は厳つい木製の看板を掲げた寿司屋のカウンターに並んで座った。温かなおしぼりで手を拭う私を彼がじっと見つめて頭を撫でた。
「悪い男に捕まって可哀想に。お詫びに今日はお好きなものを召し上がって結構ですよ」
「はあ。では、お言葉に甘えて」
 そう言ったものの流石に遠慮した。二人とも小腹を満たす程度食べただけで諭吉が軽く二枚飛んでいったが、むしろ彼は楽しげだ。
「いやー高かった!寿司って凄いな!」
「スミマセン。まさかあそこまでとは‥」
「さすがに旨かったな!トロなんか舌でとろけて消えてった。で?次は何をご所望ですか?」
「ええと、そうですね。どこかでゆっくりお茶でも」
「では食後のスイーツを買って行きましょう。徒歩五分の所に当方オススメのケーキ屋が有りますが?」
「おまかせします」
 モンブランとチョコレートケーキを買い求めると彼は私を部屋に招き入れた。取っておきの茶葉に湯を注ぎ入れ、私をイメージして選んだというカップに紅茶を淹れる。
「お気に召すと宜しいのですが」
「お高そうですね‥」
 華奢なカップを眺める私に、彼は意味深な視線を投げかける。
「あの、どうかしました?」
「いえどうぞ?紅茶が冷めますよ?」
「‥‥はあ、では」
 妙に落ち着かない気分で紅茶のカップに口をつける。高い香りが湯気とともにふわりと花開いた。チョコレートケーキを口に含むと控えめにブランデーが香る。彼は柔らかに笑って、
「美味しいですか?」
「ええ、とっても」
「それは良かった。では、俺にも一口」
「ちょっと待ってくださいね」
 切り分けようとケーキにフォークを入れた瞬間、彼の指先が私の顎に触れた。
 気づいたら目の前に顔があって、驚いてる間に口を塞がれた。頬が熱い。きっと真っ赤な顔をしている。気恥ずかしさが一層増した。
「本当だ。確かに甘くて美味しい。それにほのかに柑橘系の香りがする。もっと食べてもよろしいですか?」
「‥‥からかってるんですか?」
「いいえ?至って真剣ですよ?」
 彼は子供みたいに笑うと私の肩をそっと抱き寄せた。
「俺はもう恋はしません。あなた以外にはね」


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