「生きて」と言われることそのものが、苦しいかもしれないけれど。

 学校に行くのが辛くていのちを落としてしまうひとの話を聞くと、胸が痛くてたまらなくなる。
 心やからだに受けた傷を誰にも見せることが出来ずに、あるいは見過ごされたまま、無言の声を体の中でずっと発して、誰にも気づかれない場所で叫んで、生きたいけれど死にたいと迷っているひとたちや、行き場を失って夏休みの終わりに自らいのちを断ってしまうひとたちに、「いなくならないで」「自分を消してしまわないで」「傷ついたり傷つけられたりして、いのちがボロボロになってしまうくらいなら、学校に行かなくていい」と見知らぬ私がネットの世界の端っこで願っても、どうにもなるものではないかもしれない。けれど、むかしの私が、漠然とした息苦しさで窒息しそうになりながらうつむきがちに学校へ通った日々のことを頭の片隅に置きながら、ハッシュタグをつけて書いてみようと思う。


 あのころ、私は相手から話し掛けられた内容を理解するのに時間がかかる子供だった。口下手で咄嗟に言葉が出てこないし、主語が欠けがちで何を話してるのか相手に伝わらなかった。会話が上手く行かなくて相手を苛つかせる度に、私は自分をどんどん否定してしまって、余分に卑下して、自分には価値がないと思い込んでしまった。
 元々それほど高くなかった自尊感情が、集団に馴染めなかったことでさらに砕かれたのかなと思う。嫌われて嗤われる自分はだめなもので、恥ずかしいものだと思っていた。学校のどこにいても居心地が悪くて、どこに居ても、居ること自体が申し訳ないと思っていた。自分の近くで笑い合ってる人が居たら、自分の何かが、見た目が、雰囲気が、変だから嗤ってるのかなとうつむいていた。
 そういう気持ちを、学校に通っていた時には誰にも話したことがない。自分のことを「恥ずかしいもの」と思っているのだから、ひとに言えるわけもない。私が学校に通い続けたのは、通うしかなかったからだ。私の問題はあまりに小さすぎて、誰の目にも留まらないから、行かなくていいよと言ってくれる大人もいなかったし、親に相談する機会もなかった。そもそも相談しなければという考えが浮かばなかった。

 言えれば良かったのかも知れない。閉じこもっても良かったのかも知れない。やり方を知らなかったから出来なかったけれど、知っていれば出来たのかも知れない。
 誰だって、ひとりで苦しみを抱えて生きてゆくのは難しい。だけど、同じ苦しみを抱えているひとと出会えれば、少しだけ救われる。救われても傷ついていくけど、少しだけ楽になれる。大人になってからそういうことを知った。

 いまの私を救っていることばがある。それは社会に出てから出会ったことばで、学校に行くのが苦しいひとたちに響くかはわからない。たまたま私のこころに響いただけで、誰にとっても救いになるわけじゃないし、ひとによってはあまりいい響きではない言葉だ。だけど、つらくなったとき、ふと思い出して、あともう少しだけやってみようと思える。
 「死ぬのはいつだってできる」とそのひとは言っていた。
「どうやったら死ねるのか色々調べてみたけど、意外と方法はある。死ぬのはいつだってできるってわかった。だからもう少しだけ生きてみる」
 
 
 ひとは誰しも、生きる力を持って生まれてきて、ここにいる。もう覚えていないだろうけど、とっくの昔に忘れてしまっただろうけど、あなたがそのいのちとこころを育ててきた。
 生まれてすぐは泣くだけだったけど、うんとうんとがんばって、言葉を覚えて話せるようになったこと。寝てばかりだったのに、毎日ちいさな体で起き上がろうとがんばって寝返りを打って、這って、歩きだして、ひざを擦りむいてわんわん泣いて、泣きながら歩いてきたこと。走れるようになったこと。そういう風に、自分のいのちを精一杯使って毎日を生き抜いてきたから、いまここにいる。そのいのちは誰かに踏みにじられるために生まれてきたわけじゃない。

 綺麗事かもしれないけれど、あともう少しだけ、ここにいて欲しい。「生きて」と言われることそのものが、苦しいかもしれないけれど、言われることそのものが、つらいことかもしれないけれど。


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