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帰る場所

その家で、暮らし始めた日を覚えている。

玄関から奥へ伸びる廊下を抜けたつきあたり、大きな窓のある台所に、4人掛けの食卓があった。出迎えてくれた祖母と叔母。叔母はにこやかに、当時人気のアニメキャラクターが印刷された、小さなブリキのトランクをくれた。

古い2階建ての木造家屋。大工の大叔父が建てたという住まいは、慎ましく清貧だった。窓が多く、光がたくさん入るようになっていて、その分夜はずしりと暗かった。

居間。板張りに敷かれたカーペット。中央にこたつ、夏場は布団を外してテーブルに。大きなオーディオセット。オルガン。たんす。ガスストーブ。ガラスケースの人形。ヨットの浮かぶ湖の油絵。本棚。テレビ。古い布の匂いがする分厚いカーテン。庭側全面のガラスの引戸は、はめ込んだ冷房のせいで、大きく開けられない。外に停まった赤い原付。

仏間。祖母と並んで寝た部屋。祖父と叔父の写真。仏壇。線香の匂い。床の間のひな人形。障子の向こう、広い縁側で、梅や柿を干す祖母。

母の部屋。いつも薄暗く怖かった。唯一のベッド。持ち主と共に出戻った嫁入り道具に立てかけた、大きなぶどうの油絵。母の描いたその絵は本物のぶどうみたいで、それだけを見にこっそり入った。

二層式洗濯機に阻まれた勝手口。開けると、足元には茂ったどくだみ。

お風呂場。ステンレスの浴槽。欠けた茶色いタイル。夏休みはプールがわり。水を張ってつかり、すりガラスの窓を見上げてぼうっとした。洋風の狭い洗面所と脱衣所。廊下の照明は、黄色くてかわいいチューリップ型。かわいいのに、誰も点けなかった。

ストリップ式の階段。すべりがよく、いろんな踏み外し方でけがをした。階段下には黒電話、保留音の乙女の祈り。

2階の叔母の部屋。入ってはいけない部屋。首だけのマネキンが2体、ウイッグをかぶって並んでいた。タバコの匂い。歌手のポスターが1枚。天井はベニヤの隙間から、裸電球がひとつ。

和室。のちに私の部屋になるが、学習机以外は家族のものばかり。古い木の匂いがする出窓をよじのぼり、屋根に上がって空を見た。庭の柿の木がぐんと近くに見える距離。

庭。1年中ひとりで遊んだ。広い芝生。積まれたブロック。隅には砂利敷きの車寄せ。モミの木、つつじ、楓、山桜。桑の木、柿の木。キウイの木は、私と同い年。杉の木の根元には小川が流れ、近くで祖母がよくたき火をした。裏手に祖母の家庭菜園。じゃがいも、なす、トマト。母の部屋の窓下に生えた南天は、雪だるまの目をつくるときによくもいだ。さらに奥には竹林。育ちすぎたたけのこを折って遊んでいたら、裏のおばさんに怒られた。


1歳半から14歳まで、濃厚な時間を過ごした空間。

疲れていると、かならずこの家の夢を見る。人がいることも、いないこともあるけれど、夢をみて思い出す細かいディテールもある程。からだをひととき離れて、もう帰れない懐かしい家で憩う。


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