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葉月記=五輪の思い出語り

●風英堂葉月記=五輪の思い出語り

<葉月>とは暑い夏からの変わり目の現代の9月に当たる頃で、旧暦では落葉や紅葉が始まる時期なので「葉落ち月」と呼ばれる。また、越冬のために渡ってくる月であるため「初雁月」、稲の穂が張る月である「穂張り月」が転じたという説もある。この他、燕去月(つばめさりづき)、南風月(はえづき)とも言い、台風シーズンが近づいてくる。

葉月になってもコロナ台風が吹き荒れているが、五輪月の思い出話をたまに書いてみたい。

<1964年の東京五輪>は中学校内でのTV観戦、今時の言葉で言えば「パブリックビューイング」でろうか。
それから20年後の<1984年のロス五輪>の際に初めて仕事として五輪に関わった。この年に民間資金が導入されたが、名古屋のミシンでなく、タイプライターのブラザー工業が公式スポンサーになったので、ニッポン放送の営業企画としてサポートした。
<1988年のソウル五輪>は営業企画としてクライアント招待ツアーを行った。開会式は個人的に観戦したが、その数年前から下見と称してソウルには何回か通っていた。
<1992年のバルセロナ五輪>は観ることなくセルビアの万博を視察していた。この時はロンドンでのチェルシーフラワーフェス、オランダの花博、パリのユーロディズニー、イタリア・ジェノバの海洋博をそれぞれ1泊2日で移動する強行スケジュールだった。それ以降は記憶に残る出来事は無い。

一方、冬季五輪で言えば
<1968年のグルノーブル>、記録映画の映像美に魅了され、フランシス・レイの音楽は印象的だった。
<1972年の札幌五輪>は、生活に追われた東京暮らしでほとんど記憶なし。
<1984年のサラエボ五輪>は、2014年からこの街に住んだが、廃墟化、墓地化した施設に心痛み、サラエボ紛争から抜け出せない荒廃を目の当たりにした。
<1998年の長野五輪>は、経営企画とネット事業をしていたので印象は薄い。だが、今、開催に関わった多くの友人に囲まれている。良き仲間いる。そう言えば映画「ヒノマルソウル 〜舞台裏の英雄たち」が公開されているようだが、ソウルが「魂」でなく韓国の地名のように思える。

競技以外で突っ込み所の多い東京五輪、競技は全て見なくて良いから、ダイジェスト版だけでも見たい。反日でなく、暇な半日老人でも長時間じっと見ているのは辛い。コロナ禍が収束しない状況での開催、五輪は「生活の安心」があって初めて楽しめると思う。自宅軟禁生活はまだまだ続く。

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