見出し画像

自由に生きることは、人間をやめることなのかもしれない。 ー村田沙耶香「地球星人」


どこかのメディア媒体で紹介されていたのだと思う。
友人がそのあらすじを偶然見たらしく、「絶対好みだと思うよ」とおすすめしてくれた作品。村田沙耶香さんの「地球星人」

芥川賞を受賞した彼女の作品「コンビニ人間」は以前読んだことがあり、とても好きだったのを覚えていた。(これについてはまたいつか別の機会に改めてまとめたい。)
昨年の夏休み、日本に帰国して本屋に直行・購入。読了しまず思ったこと。

「怖い」

グロテスクな内容に対してではない。
村田さんに脳内を覗かれているのでは、と思うほど、自分の思想・思考がそのままトレースされ、奈月という登場人物に還元されていたからだ。奈月は私だった。

本を閉じて、恐怖と感激と、そしてこれを自分が書けなかったという悔しさ、嫉妬で何も言えなくなった。あー、私が書きたかったな、こういうの。ほんと。

ただ。少しがっかりしたけれど、同時に希望が生まれたのも事実であった。

社会に適合しない思考は抱えて死ぬしかないと思っていた。
だけど「地球星人」を読んで、こういう抱え方もあるんだと思えた。そうやって歩いていけるのかと。
これは登場人物にではなく、著者の村田沙耶香さんに対して思ったことだ。彼女のような昇華の仕方があるのか、と。
そしてそれは私のような人を少しだけ救うのかもしれない。それは悪くないことのように思えたし、私はそんな風に抱えていきたいと思った。

とてもとても大好きな作品になった。
友人もわずかなあらすじだけでよく薦めてくれたなあと思う。改めて感謝したい。

さて、初読から半年以上が過ぎようとしている中、なぜ今更「地球星人」について書こうと思い立ったのかというと、私の高校時代の読書歴を作ってくれた懐かしい友人から4年ぶりに連絡があったからだ。
近況報告もそこそこに、彼なら「地球星人」を読んでどう思うかなと、軽い気持ちでお薦めしたら24時間経たないうちに感想が送られてきた。

そこからは高校時代に戻ったように、お互いの意見をただ投げ合った。昔と全く同じではないけれど、変わってないところもたくさんあった。

そんな中で、この「地球星人」を読んで感じたことを改めてきちんと言葉にしたいなと思い至った、というのがこのnoteを書き始めたきっかけである。

4000字を超えたところで公開を躊躇し下書きに眠らせていたが、別の友人もまた薦めたこの本の感想を綴ってくれたということもあり、再度公開を試みようと思う。

これからものすごく長く、更にネタバレを含む感想と勝手気儘な意見を書き連ねていく。日本に書籍を置いてきたので半年前の記憶を辿りながらの読書記録となるので、実際の内容と相違があるかもしれないことは容赦されたい。

「ぶっ飛んでいる」「クレイジー」と評されがちなこの作品だが、本当に素晴らしい物語なのだ。それを少しでも伝えられたらと思う。
そしていつの日か村田沙耶香さんに、この作品で救われた人もいますよ、と、届けばいい。
たまにネットで見られる酷評など気にせず、これからも村田さんの好きなようにつくりたい作品を作っていってほしいという、いちファンの勝手な願いを込めて。

以下、未読の方はネタバレに注意。
「地球星人」をすでに読んだ方、読む予定のない方、ネタバレが問題ない方はぜひ。(このnoteで読みたくなってくれたら嬉しい限りである)

「地球星人」は、真の自由を追い求めた人間の物語である。

この本のテーマは、自由だと私は勝手に思っている。

ところで私たちは今、自由だろうか。言動や思考ですら制限されていた昔に比べれば、今は心も身体もずっと自由なのかもしれない。

しかし、私たちはまだ真の自由を知らない、と、私は思っている。

生まれた瞬間から国籍を与えられ、容姿や性別をタグづけされ、言葉を投げかけられ、服を着せられ、栄養を注がれ、概念を教えられ、常識を、倫理を刷り込まれる。
私たちが今感じている全ては、私たちが生まれながらにして持っている感覚なのだろうか。それとも、これまで刷り込まれた思考による反射なのだろうか。
わたしの言葉は、果たして本当にわたしが放っている言葉なのだろうか。
何も与えられなかったifの世界にいるまっさらな自分は、何を持っているのだろうか。
理性とは、本能とは、自由とは。
「地球星人」は人間が真に自由であるために、人間が人間らしくもがく姿を描いている、悲しくて美しい物語だ。

物語は、主人公と呼んで差し支えないだろう、奈月(ナツキ)の幼少時の世界から始まる。彼女は自らをポハピピンポボピア星から来た魔法少女であると信じ、現実社会は地球星人が占拠している工場であるといった。
工場をうまく回すために存在する部品としての人間、それが地球星人。自分とは違う星に生きる存在。

奈月は優秀な地球星人になりたかった。

何の疑問も持たずに工場で部品となっている「みんな」を見るたびに、彼女は「みんな」と同じように優秀な地球星人になりたいと願った。
自分が「みんな」のようになれないのは、自分が欠陥品だから。素直に部品として生きることができない自分を彼女は嘆いた。
そして更に、子宮を持つ「女」はこの地球において「生産者」であるべきだと彼女は考えていた。つまり新しい部品を工場に送り、持続可能な工場を作るために生殖を行う存在であるべきだと。
しかし彼女はどうしても工場にいるその優秀な女にも地球星人にもなれないと思っていた。
それは自分がポハピピンポボピア星人であり、地球星人の目を手に入れることは簡単ではないから、と。

ここでいうポハピピンポボピア星人とは、つまり簡単に言ってしまうと客観性と理性を持ちすぎてしまった人間のことだろう。
世界や社会のあらゆる「当たり前」や「普通」に疑問をもち、その不可思議、不合理的な現象を知覚してしまった人間。
何もかもコントロールされているのだと気づいてしまった人間。
そしてそれを「そういうもの」として受け入れることができない人間。

一度その考え方、つまりポハピピンポボピア星人の目を持つと、なかなか地球星人には戻れない。自分を「洗脳」できない。
自分や社会、「自由」に一度疑問を持ってしまえば、それを忘れることは難しい。否、きっとできない。
どれだけ忘れたふりをして社会に順応しようと、ポハピピンポボピア星人の目はずっとずっと心の中に潜んでいて、少しのきっかけでいつだってフラッシュバックしてくる。

だけど奈月は、どうにか自分を洗脳したいと思っていた。
なぜなら、その方が幸せだから。彼女は自由よりも幸せを求めていた。彼女は部品になることがこの世界で唯一幸せになる方法だと思っていた。
思考すらコントロールされた不自由な工場にいたとしても、それに気付かなければ、気付かないふりをすれば、そこで “幸せな”人間に、部品になれるのだと。

と、そんなことを考えよう、信じ込もうとしながら、奈月は地球星人を嘲っていたのだろうな、とも思う。自分は何も考えずに生きている「みんな」とは違う、と。
無知の知を嘆きながら、無知である人間を嘲る。
これが奈月の人間らしさであり、私は彼女のそこが好きで、嫌いだった。

奈月を好きな点はもう1つある。

奈月には(複雑な経緯があり)夫と呼ぶ人間がいるのだが、彼もまたポハピピンポボピア星人であった。しかし、彼は奈月と違って工場を憎んでいた。彼を蝕み、傷つけてきた工場は間違っていて、糾弾されるべきで、壊されるべきだと思っていた。彼は部品になることは恥であり、許しがたいことだと思った。

前述したように奈月も同じように潜在的に工場を嫌悪していたのだろうが、工場に対するアプローチは違う。彼女は工場を壊そうとは思っていなかった。
彼女は現実を批判し、糾弾したところで何も変わらないことを知っていた。
それに、工場の中で「みんな」が幸せに生きていることも彼女は理解していた。
それを壊して自分の世界を作りたいと思うほど、自分に価値を感じていなかったのではないだろうか。
その悲しいほどの自己肯定感のなさ。悲しくて、愛しい。

私も同じように考えていた。
確かに世界は不合理で不条理で間違ってると思う。
だけど、そこで生きる人々を迫害し、彼らの生活を侵害する権利は私にはないし、彼らがその世界で幸せに生きることは素晴らしいことであると思う。
ただ、私が合わなかっただけ。
世界が悪いのではない。自分だ。もしくは自分のいる場所、社会を選べないことが悪いのだ。

奈月は、最終的にその夫からの影響もあり、従兄弟の由宇とともに3人で地球星人を否定しながらポハピピンポボピア星人として工場から離れて生き延びる道を選ぶ。
つまり、自分たちのいるべき・いたい場所を自分たちで作り出したのだ。
夫は工場を倒すために。奈月はきっと、自由になるために。

1つ私と奈月が違う点がある。生への執着だ。
奈月や夫、由宇は「生き延びること」を何よりも重要なことだと信じていた。だから彼らは生を手放すことを選ばなかった。
しかしうまく自分たちを洗脳できなかった彼らは、工場で地球星人のふりをして生き延びることもできなかった。
自由と生存。両方を得るために選んだ道。

賛否、いや、不評の多いラストシーン。
グロテスクすぎるという評価が多く、ここまでやるか?と批判されているのをレビューでよく見た。
だけど私は、必要なシーンだったと思う。
きっと、彼らにはその方法しかなかったのだから。

彼らは真の自由を求めていた。
不条理なコントロールに振り回されないように、再現性のある合理だけを頼りに生活した。この生活が理解できないという声を多く見かけた。確かに私も直感的には気味が悪いし、狂ってるなあ、と何度か思った。だけど同時に彼らの行動の意図も察することができた。
彼らは地球星人になるための教育を受けてきたので、どこまで自分の行動がコントロールされたものなのかがわからない。だからあえて理性が拒絶するようなことをもせざるを得なかったのではないか。
その理性が刷り込まれた倫理、つまり社会からのコントロールではないことを確かめるために。本能と自由を確認するために。
もちろん、地球星人を否定するためにあえて逸脱した行為を選んでいるという理由もあるだろうが、私は彼らが真の自由を見つけようともがいているような気がして、それをとても美しいと思った。

工場の部品である洗脳された地球星人ではない、真に自由な人間らしくあるために、「人間」から外れた行動をしていく彼ら。

大いなる矛盾を孕んだこの行動こそが、彼らが人間である証であり、悲しく、美しい。

最後に「進化」した彼らは、彼らなりの社会とルールをそこに築き上げ、生きていくのだろう。そして、その「社会」で生まれる子がまた新たな自由を求めるのかもしれない。
人間がひとりで生まれること、育つことができない限りそのループは終わることはない。
だが、わたしはこの持続可能でない世界の形を尊いと思う。

彼らは醜くなどない。
信念を曲げず、社会の生きやすさに惑わされず、自分の生を切り拓いた、自由で強い人間だ。
自由になるために、人間をやめた美しい「人間」だ。


読了し、自分で社会を作ることのできないポハピピンポボピア星人が辿り着く先はどこなのだろうと考えた。
自分をその行き場のないポハピピンポボピア星人に投影させては、奈月らの生き方に焦がれ、この目を抱えて進むための手段を思案するのだった。

この記事が参加している募集

推薦図書

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?