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信長の出生城について part2!

こんにちは!hm384352です。今回は前の記事で紹介した信長の出生城となる城郭についてです。

それではまず正解をお伝えしましょう!
今1番信長の出生城として有力な城郭は、、、愛知県愛西市・稲沢市にある勝幡(しょばた)城でした!では勝幡城についてお話していきます。

勝幡城は信長の父信秀のさらにお父さんである織田弾正忠信定(おだだんじょうのじょうのぶさだ)によって永正年中(1504〜1521年)に築城されたと伝えられています。ちなみに弾正忠とは官位の一つです。勝幡城の城域は現在の愛西市・稲沢市に広がっており、現在石碑が建てられているあたりが城の南端部分であったと推測されています。

一般的に信長・豊臣秀吉の時に築城された城をまとめて織豊系城郭と言い、それより以前に築城された城を中世城郭と呼びます。本来なら勝幡城はその中世城郭に含まれ、学術的に考える意味でも重要な城となっているはずでした。

ところが江戸の初め頃に尾張藩が日光川の開削工事を始めたのです。
それがどうして勝幡城と関係があるの?
…と思われるかもしれませんが、この工事で勝幡城の本丸西側半分を貫通し、城の大半を壊して川を開削したのです。もちろん江戸時代ですから現代みたいに開削工事前の試掘調査や本調査なんてしていません。よって勝幡城は日光川によって大半を壊され、石碑のみ建てられました。発掘調査をしようにも川が通ってしまっている為、城の遺構・遺物は全て川の底です。

では在りし日の勝幡城を想像することは出来ないのでしょうか?
幸いにも川の開削工事を行なった尾張藩が城の破壊前に描かせた絵図が残っていました。それが「中島郡勝幡村古城絵図」です。この絵図は現在名古屋市蓬左文庫に所蔵されており、勝幡城を知る唯一の史料となっています。先程、尾張藩が描かせたとしましたが、尾張藩はかなりの測量技術を持っており、正確に信長が生まれたとされる当時の城の形を記録している絵図となっています。そのためこの絵図の信憑性は高いものとなっています。

絵図からは本丸が周りの土塁を含めて、東西約66m、南北約92mもあったことが判明しました。この本丸の規模は当時も力を持っていた越前の朝倉氏の館よりも大きいものとなっていました。これは織田家が勝幡城を築城した当初から大きな力を持っていたということになります。イメージとして織田家は信長の時代に大きな力を持ったと思われがちですが、実はだいぶ前から力を持っていたことがこの絵図から判明したのでした。

この絵図は徳川美術館で展示される事があります。しかし通常展示品ではありません。しかし勝幡城があった稲沢市や愛西市が模型を作成したり、youtubeでも説明を載せていますので、この説明以上に詳しいことを知りたい方はそちらも是非覗いてみてください!


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