母のこと

 明るく優しく厳しかった母が、さよならを言う間も無く天国に旅立った。
享年78才だった。
私が知る限りうちの家系で80才まで生きた人は居ないんじゃないかと思う。

 母が私をこの世に誕生させてくれてから49年間のうち、母と笑ったり泣いたりした濃い記憶は一緒に暮らした18年ぶんしか無い。
あとは細切れの断片的な思い出ばかり。
それでも、無いよりはマシなのだが。
だから自分も娘が大人になる前に、一緒にたくさんの思い出を作りたいと思っている。

 人生は思いがけない出来事の連続が同時に複数のレイヤーで作られて行くものなのだ。
家族のことや友達のこと、そして仕事のこと。

何でも親に話をしていた子どもの頃の日々はいつの間にか過ぎ去って、親には話せないようなどうでも良い秘密を持つようになり、家族よりも友達との時間が大切になって、いま自分が親になって考えてみれば、少し寂しい気持ちになる。

 もっと話をしたり、たくさんの時間を共有しておけば良かったな、と心から後悔している。
親父が天国に行った時もそう思った。
後悔したところでどうにもならない事は分かっているので、後悔しない人生を送りたいと普段から心掛けてはいるけれども、思いがけない出来事が後悔を誘うのだ。
まだまだ人間が出来ていない証拠なのだろう。

 若い頃に認知症のニュースやドラマを見て、その時はまさか自分の両親が認知症になるなんて思ってもみなかった。
認知症はとても哀しく切ない病気だ。
あれだけ叱ったり褒めたりしてくれた息子のことでさえ、忘れてしまうのだ。

 母と最後に会ったのは、ちょうど亡くなる一ヶ月前だった。
要介護状態5という介護認定では最も重篤な状態となって、実家近くの介護施設に入所することになり、その手続き等に行った。
夏をなるべく快適に過ごせるように、近くの洋品店で機能素材の下着やパジャマ、施設から指定されたカーディガン等を買い込み、実家の母のところに行くと、人相は変わり果て、無表情で私の顔を見ていた。
「ひとしだよ、わかる?」そう声を掛けたのだが、首を横に振り「誰だっけ?」
「そうか、何か食べる?」そう言うと軽く頷いたので、兄がスプーンでごはんを食べさせた。

 私がiPhoneで娘の写真を見せながら「えねちゃんだよ、ちょっと見ない間に大きくなったでしょ?」というと、そのときだけ笑顔を見せてくれた。
それが母の笑顔を見た最後だった。

 いま思い出す母との思い出は、私が幼かった頃に住んでいた福島で、母がどうしても見たかった映画に無理やり付き合わされて、その帰りに買ってもらったウサギのこと。そしてその映画はエクソシストだったこと。
幼稚園の遠足のお弁当が、私の好物だった豆ごはんのおにぎりだったこと。
小学生の頃、いつも家の庭で髪の毛を切ってもらっていたこと。

 小学校の高学年になった頃、私には事実を隠したまま、母が東京の順天堂大学病院に入院したこと。私はたまたま母のメモをみつけてしまい、母がガンであることを知った。
その知ってしまった事実を私は知らないフリをしながら過ごした。
母へは何度も御見舞の手紙を書き、単身赴任先の東京からたまに帰宅する父に託した。子どもながらに知らないフリをするのが、とても辛かった。

 中学生になって東京に引っ越し、三鷹の町に住むようになった。
母は三鷹や武蔵境の町がとても気に入っていたようで、生前元気だった頃は口癖のように「成田なんかに引っ越すんじゃなかった、武蔵境に住みたい」とボヤいていた。
確かにあの辺りには、家族のたくさんの思い出が詰まっている気がする。
私の友人達もよく家に遊びに来ていて、誰かしら友人が毎晩のように母の料理を食べていた。
母は料理が得意で、有り合わせで何でも作ってしまう人だった。
あまりに毎日誰かがメシを食うものだから、寝る前に明日は誰が来るのかを聞かれるようになった。

 お菓子作りもよくやっていて、どうやったのか知らないが、フライパンでパウンドケーキを焼いたり、うちにワッフル型なんかあった記憶が無いのだが、レモンクリームのワッフルもよく作ってくれた。
親父の転勤の都合で海外生活が長かったせいなのか、今おもえば私の時代にしては、ずいぶんと洒落たものを作ってくれていた気がする。
タイでの生活が長かったせいなのか、子供の頃に正月のお雑煮がトムヤンクン味だったのが衝撃だった。
他にも幾つか、私が好きな母の手料理レパートリーがあって、母が認知症を発症するまえに、その話をしたところ「そんなの作ったことない」と一蹴され、私の記憶がどこかですり替わったのか、それとも夢でも見ていたのかと自分を疑ったのだが、今思えばあのとき既に始まっていたのかもしれない。

 うちは家族旅行なんて殆どしたことの無い家庭だったのだが、私が中学一年生の頃、ポーラテレビ小説の「こおろぎ橋」が好きだった母が、実際のこおろぎ橋に行きたいと言ったらしく、珍しく親父が旅行を企画した。もしかしたら銀婚式とかそんなのだったのかもしれない。
兄貴二人は行かないと言って、私と両親の三人で旅をすることになった。羽田から小松に飛行機で行った。
私の記憶ではその頃の全日空の機体には、尾翼にレオナルド・ダ・ヴィンチの飛行機が描かれていた。
覚えている限りで私にとって最初で最後の家族旅行が、石川県だった。

母は実際の「こおろぎ橋」を見るや「あ、小さい・・・」と、長谷川理恵のようなコメントを吐き捨て、親父がムスッとしていた記憶がある。 
中学生だった私にしても、能登や金沢の兼六園を巡ったところで退屈以外の何物でもなかった。
そんな石川県に数十年後、まさか自ら移住することになるとは、人生は本当に何があるのか分からないものだ。

 母は天国へ行って、先に逝った父とは会えたのか、可愛がっていた沢山のネコ達とは会えたのか、大好きだった祖母や祖父、ずっと会いたがっていた若くして亡くなったお姉さんとも会えたのか、あっちの世界がどうなっているのか誰にも分からないけど、たぶん会えたのだろう。

 まだ元気だった頃、自転車に乗って、ちょっと遠くまで行って、何か面白いものをみつけたとか、ネコが笑ったとか、そんなどうでも良い話をまた聞きたかったけれど、その話を聞けるその時まで、楽しみにとっておこう。

子供の頃に母から言われた言葉が忘れられず今でも心に留めている。
「笑いはみんなを元気にするから、みんなを笑わせて。でも泣く時は1人でね。」

母との記憶は、私の記憶が薄れないうちに、またどこかへ書き綴って行きたいと思う。

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