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はじめてのエレキベース

私には年の離れた兄が二人居る。
すぐ上の兄貴はギターを弾いていた。
一番上の兄貴は今でもチェロ奏者を生業としている。
すぐ上の兄貴は確か私が小学生の頃は「さだまさし」や「かぐや姫」を一生懸命に練習していた記憶があるのだが、ポール・サイモンあたりを聞くようになったあたりからは、テクニック指向へと変わって行ったのか、私が中学生になる頃にはアール・クルーやジョージ・ベンソン等を聞いたり、ギターで練習したりしていた。
兄貴が家でいつもそんなのを聞いてるもんだから、私もそっち系の音楽が好きになり、当時はなんだかよく分かっていないながら、格好良く聞こえたものだった。
そして中学一年生の終わりの頃だっただろうか、兄貴の勧めというか影響で、エレキベースという楽器に興味を持ち、貯めていたお年玉と小遣いを持って楽器屋にベースとベースアンプを買いに行った。
足りなかった資金は何故だか分からないけど兄貴が出してくれるという。
たぶん自分も弾いてみたかったんだと思う。
三鷹には三鷹楽器という由緒正しくテキトーな店員だらけの楽器屋があり、そこの店員さんには楽器に関する薀蓄を色々と教えてもらった。
私が店頭で選んだのはヤマハの赤いベースと、やけに大きなスピーカーがついたデカい音がするアンプだった。
もっと欲しかったヤマハの上位機種のベースもあったのだが、それは倍以上の値段がした。
兄貴が不足分を出してくれると言ってくれたのだが、それでなくても既に大半の資金を出してくれていたので私は子供ながらに遠慮した。
なので赤いベースとアンプを持って、欲しかったベースを横目に店を出て、帰宅した。
そのエレキベースとアンプのセットで毎日練習に励んだ。
兄貴のレコードを聞きながら、それと同じように弾けるまで指から血が出ようが、晩飯の用意が出来ようが、聞いて弾いて聞いて弾いての繰り返しを続けた。今みたいにiPodとか便利な道具が無い時代だったので、レコードからラジカセに録音して、分からないフレーズがあれば巻き戻しボタンと再生ボタン同時に押しながらキュルキュル何度も聞いた。
兄貴に「これを練習しろ」と言われ、初めてコピーしたのはスタンリー・クラークのスクール・デイズという曲だった。今にして思えば、あまりにも無謀な挑戦だっと思う。それを練習しろと言った兄貴も凄い。スタンリー・クラークなんていう人は誰だか知らないし、外人だし、どうやって弾いてんのかも分からなかった。
カセットテープに録音した曲を何度も聞きながら音をひとつずつ拾うしかない。私は音楽の成績も悪かったし、音符も読めない。
なので完全に耳コピだった。
運指は想像で、恐らくこうじゃねーの? という軽い気持ちで練習を始めた。奏法も音感も独学で我流なので、いま思えば基礎練習はちゃんとやっておくべきだったな、と思う。
この頃のクセが、その後の人格形成がなされてしまった気がする。
間違った知識も多分に持っていただろうし、実際いいかげんな知識を持っていたと大人になってから気付いた事実も山のようにある。
でもそれが楽しかった。
新しい何かを身につけて、友達に自慢したり、真似してみたり、そしてまた新しい事を探すのが楽しくて仕方なかったのだ。
家にあるレコードのフレーズが自分で弾けるようになると、次の課題が欲しくなる。三鷹の駅前に黎紅堂(れいこうどう)という貸レコード屋さんがあった。今となってはTSUTAYAとか色々あるけれど、この黎紅堂が貸レコードというビジネスモデルの発祥の店だったらしい。
当時は気にもしていなかったけれど、私の住んでいた街にこの店が存在したのは神様からの贈り物とでもいうか、実に有難い存在だった。
中学生だった私は会員証なんて発行してもらえる筈もなく、最初は兄貴と一緒に行って兄貴の会員証で借りてもらっていた。
そのうち店の人と顔見知りになり、自分の会員証を作ってもらえた。
当時の貸レコードのシステムは厳格なもので、レコード盤に傷がついていないか確認をしてから借り、返す時に万が一盤面に傷がついていようものならば、買取をしなければならないというルールがあった。
借りたレコードはオーディオテクニカのビロードみたいな生地がついて湾曲したレコードクリーナーで埃を取ってから、ターンテーブルの針を落とし、最初のプチっというノイズを確認してから、兄貴のナカミチのテープレコーダーのRec.ボタンを押し、ソニー製のちょっと高いクロームのカセットテープに録音していた。
それを自分のラジカセで何度も何度も聞くのだ。
子どもながら本気で音楽に取り組んでいた私にとって、そのカセットテープたるや天竺から授かった有難い教典のようなものだった。
黎紅堂の店長は、ガキが借りるには未だ早いようなジャズとかフュージョンのレコードばかり借りる私に興味を持ったようで「なんでこんなのばかり聞いてんだ?」と話掛けてくるようになった。
私は「スタンリー・クラークみたなベーシストになりたいんだ」。と、いま考えれば「笑わせんなw」と言われてもおかしくない会話をしたことを覚えているが、店長は「だったら聞きたいレコードを仕入れてやる」。と、リクエストを受け付けてくれるようになった。私は良い大人に恵まれた。
私は次から次に遠慮無しにリクエストを出しまくった結果、いつの間にやらその店のライブラリには「誰が借りんのかな?」」というレコードが一杯になっていた。
最初の洋楽の知識は、その兄貴と中学の担任教師から学んだ。
担任のジャンズ(身体がデカイのでそういうあだ名)先生はジャズ好きの爺さんで、コルトレーンやチャーリー・パーカー等を昼の校内放送で流すようなシャレた教師だった。その先生がジャズを教えてくれたのだ。
私がベースを演っていると言えば、チャールズ・ミンガスやロン・カーターのレコードを持って来て聞かせてくれた。
ジャンズ先生には授業で何を教わったのかは全く覚えていないけれど、それ以上に大事な、今の私の基礎となるセンスやフィーリングという、授業では教えてもらえないような何かを教えてくれた。
ジャズを覚えた最初の一歩がこの頃。
今振り返ればえば、ジャズとの良い出会いだった。
音楽も美術も、とっ掛かりは良き師匠との出会いが大切なのだ。
私が住んでいた武蔵野はジャズの街とも言われている。
吉祥寺にはジャズBARやライブハウスが幾つもあり、週末の街角ではジャズバンドが演奏したりしていた。
同級生で仲の良かった山田の家は、地元では名の知れたBARを経営しており、そのツテもあって、中学生では入れてもらえないようなジャズ喫茶にも入れてもらう事が出来た。
名前はサムタイム。
店の中には巨大なJBLのスピーカー、パラゴンが設置されていた。
東小金井にはトミーボーイという安っぽいカフェがあり、木曜の夜はこの店に設置されたプロジェクター(当時では珍しい)が設置されていて、店長自慢のAVシステムで海外アーティストのライブビデオを見ながら、とてつもなく不味いミックスピラフを食べた。
いま思い出しても本当に不味いピラフだった。
武蔵境の駅前にはスタジオ・ロサンゼルスという練習スタジオ兼ライブハウス(ライブをやってる人は見た事が無い)が突如オープンし、私は開業当初から、そのスタジオに入り浸っていた。
店長と仲良くなったおかげでいつもタダで使わせてもらえた。
音楽の香りがなんだか漂う武蔵野の地で育ったおかげで、ミュージシャンの世界に憧れ、後に音楽業界で仕事をする動機になった事は言うまでも無い。

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