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天敵彼女 (80)

 太陽がやけに眩しかった。

 俺は、寝不足のまま車に乗り込んだ。

 昨夜は、明け方まで眠れなかった。ようやくウトウトしてきた頃には、父さんがゴソゴソし始め、俺は目を覚ました。

 何だか頭が重く、起きるのが辛かったが、俺は何とか台所に向かい、朝ご飯の準備をしようとした。

 そんな俺に、血相を変えて奏が話しかけてきた。何を言われたのかは覚えていないが、とにかく台所から出て行くよう促された気がする。

 どうやら、俺がほとんど目をつぶったままシンクの下扉から包丁を取り出そうとして、床に包丁がビーンとなったらしい。

 結局、俺は寝室に戻り、朝食まで仮眠をとった。

 その後、俺は寝ぼけたまま朝食を取り、何とか目を覚まそうとシャワーを浴びた。朝風呂派の父さんは早朝から湯船につかったようだが、そんな事はどうでもいい。

 問題は、俺が乗り込んでいる車がいつもと違う事だ。

「大丈夫?」

 後部座席でうとうとしている俺に、助手席の奏が声をかけた。出来れば、横になりたい所だが、シートベルトをしないとまずいので、シートに深く腰掛けた状態で腕を組み、ちょっと俯く事にした。

 人間眠ければどんな姿勢でも寝られるというが、ちょっと狭めの後部座席が今の俺にとっては最高のロケーションだった。

 しかし、狭い。うちの車はもっと広かったはずだなどと考えていると、聞きなれない声がした。

「寝てるの?」

 その声の主は、奏と親し気に話し始めた。半分寝ぼけていた俺は、特に何も思わずその声を聞き流した。

(うん、よく寝てるみたい)

(奏が寝かせないからじゃないの? 昨夜、深夜にいなくなってたよね? もしかして、ロストヴァージ……)

(ちちち、違うよ。そんな事してないっ!)

(うん、そうだよね。奏をシンジルヨ)

(もう、峻が聞いてたらどうするの?)

(分かった分かった。何もなかったんだよね? でも、それはそれで寂しくない?)

(えっ、う、うん……)

 それから会話が途切れ、俺は一気に熟睡した。

「ねぇ、着いたよ」

「う、うん」

「樹利亜ちゃん、もう帰るから、車降りて欲しいって」

「えっ? う、うん……」

 俺は、何とか起きようとしたが、目を開ける事が出来なかった。

「ごめんね。でも、起きて!」

 奏が俺の肩を揺すっている。俺は、まだ目を瞑っていた。

「奏、ここは私に任せなさいっ!」

 声の主がそう言い残すと、運転席側が少し揺れ、ドアが開く音がした。

「峻、本当に起きないとまずいかもしれないよ?」

 奏の声のトーンが変わった。

 俺は、ようやく不穏な気配に気付き、顔を上げた。

「えっ、何?」

「樹利亜ちゃんがこういう顔してる時は、大抵ろくなことにならないから、早く起きた方がいいよ」

 俺は、そのDQNネームに聞き覚えがあった。すぐに起きなければと思ったが、身体がまだ言う事をきかない。

 それでも、かろうじて薄目を開けると、視界の端に妖しく笑うメガネが見えた。

「秘書さ……やべっ!」

 次の瞬間、寄りかかっていた後部座席のドアが開き、俺は車から転げ落ちそうになった。

「な、ななな?」

 かろうじてシートベルトに救われた俺は、慌てて上半身を起こした。この時点で、すっかり眠気が覚め、俺はこの酷い起こし方をした犯人を探した。

「お、は、よ、う♡」

 思わず声をあげそうになった。気が付けば、目の前に無表情メガネがいた。ドアの隙間から俺をじっと見つめている。これは、昨日のモンスターだ。

 俺は、何故か背筋を伸ばし、反対側から車を降りようとした。

「ちょ、ちょっと、シートベルト!」

 今度は、奏が目の前にいた。俺は、元の場所に座り直すと、慌ててシートベルトを外そうとしたが、うまく手に力が入らなかった。

「はーい、十秒以内に降りないと、このまま峻君を拉致しまーす」

 次の瞬間、俺の脳裏に昨日の秘書さんの言葉が浮かんだ。

 ホス、そうホスだ。

 俺は、どうしてもこの女に連れていかれる訳にはいかないと思った。シートベルトを外そうとジタバタするが、なかなか外れない。

「はーい、ゴー、ヨーン」

 やばい、やばすぎる……顔面蒼白の俺の前に、奏がかがみ込むのが見えた。

「ちょっといい?」

「う、うん」

 それから間もなくカチャリと音がして、シートベルトが外れた。

 俺は、何とか十秒以内に車から降りる事が出来た。気が付けば、家の前だった。

「峻くーん、荷物下ろしてね。行きは君が半分寝てたから、私が積んだんだよ」

「は、はい、分かりました」

 俺は、バックドアを開け、奏と俺の荷物を車から降ろすと、釈然としないものを感じながらも、秘書さんにお礼を言った。

「あ、ありがとうございました」

「いえいえ、またね」

 俺は、言葉に詰まった。

 本音を言えば、もう会いたくないタイプの人だが、奏が縁さん以外で頼れる数少ない大人だ。

 余り邪険にするのも良くない。

 俺は、心を殺して心にもない言葉を吐いた。

「また遊びにキテクダサイ」

「うん、じゃあね」

 秘書さんは、多くの爪痕を残し、帰って行った。

 俺は、どっと疲れるのを感じながらも、ここがどこだか思い出し、気を引き締め直した。

「まず、家に入ろうか?」

「うんっ!」

 俺は、いつもの警戒モードに戻り、周囲の安全確認をした。

「鍵開いたよ」

「ありがとう」

 俺は、家に入るとすぐに鍵をかけた。ホームセキュリティ関係は奏がやってくれているようだ。

「父さんと縁さんは?」

「何か用事があるみたい。だから、私達とは別行動。ここには、樹利亜ちゃんの車で送ってもらったの」

「あっ、そうだったんだ。何かずっと寝ててごめんね」

「いいよ。それより、あれから眠れなかったの?」

 奏が俺を見つめていた。俺は、何となく目を反らし、そっと頷いた。

「う、うん……」

「じゃあ、もう少し寝た方がいいかもしれないね。私も一度家に帰って荷物置いてくるよ」

「分かった。これ奏の荷物」

「ありがとね。じゃあ、また後で」

「うん」

 奏は俺から荷物を受け取ると、渡り廊下に向かって歩き出した。

 俺は、自分の荷物を廊下におろすと、台所に向かった。ちょっと喉が渇いていた。

 そう言えば、昨夜も……俺は、思わず奏の姿を探したが、もう自分の家に帰ったようだった。

 俺は、ようやくはっきりして来た頭であの時の事を思い出した。

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