短編小説 【異常者マンホール】

「聞いた?2組のかんちゃん、異常だって」
小学6年生の春の健康診断。そこで隣のクラスのかんちゃんは“異常”の診断を降された。
「やっぱりね。だって、先生に当てられても一言も喋らないんだもん。」
私は嘲笑気味にそう吐き捨てた。かんちゃんは人前で話せないようで、いつも先生にあてられてもだんまりを決め込んで授業を止めてしまうような子だった。でも、どうでもよかった。別に“異常”になったって死ぬわけじゃないでしょ。正直うんざりしていたのだ。かんちゃんが先生に当てられる度に授業が中断することに、皆うんざりしていたのだ。これでクラスは正常になった。でも、絶対に宿題を提出しないむぎくんは“異常”にならなかったらしい。何故だろうか。診断基準について、6年生になって初めて考えた。

人は皆、正常でいなければならない。異常者は排除される。異常者は社会に居ることすら許されない。学校も、会社も、行ってはいけない。異常者が居てもいいのは、あの、2年前に作られた建物。そこだけだ。正常者は入れない。中がどうなってるのかも分からない。何をさせられるのか、そもそも送られた人達が生きてるのかすらも分からなかった。分からないので皆脅えていた。何が正常か。何が異常か。日々考えながら暮らしていた。かんちゃんはきっと何も考えてなかったに違いない。私なら、もっと上手くやる。

人は皆、正常でいなければならない。異常者は排除される。建物に送られてしまう。学校も、会社も行けなくなる。毎年4月の健康診断、そこで私は小学校に入ってからの6年間、“正常”と書かれた診断書を貰い続けた。当たり前だ。慎重に慎重に生きてきた。パーフェクトだ。完璧だ。かんちゃんは今頃何をしているだろうか。かんちゃんが“異常”と診断された理由って何だったんだろう。

人は皆、正常でいなければならない。異常者は排除される。学校も、会社も行けなくなる。中学生になって最初の春の診断書が渡された。緑色の大きな封筒を、まだ名前を覚えられずにいる担任の先生が一人ずつに手渡ししていく。渡された人からすぐに封筒を開けていくのが毎年の恒例。家に帰って大切に見る奴は一人もいなかった。いや、かんちゃんは見なかったな…とふと思い出す。なんで昨年の春を。なんでかんちゃんの事なんて…そう思いながら診断書を開いた。
『後ろの席』という理由だけで友達になったくみちゃんがにやにやしながら私の背中をつつく。
「君は正常かい?」
君は正常かい?きみはせいじょうかい?キミハセイジョウ……
冷や汗が止まらなかった。くみちゃんがつついた部分の制服の布がぺたりと背中に引っ付いた。

「診断書みせて!わ!好きな人いるんだ!誰よ!?」
「うっそ!?先生には居ないって言ったのに!!」
「馬鹿だねぇ、嘘がまかり通るわけないでしょ今の時代」
そっか。昔は嘘がつけたんだ、信じられないな。

「夏が俺を呼んでるぜ!」
「夏はお前のこと呼んでねーよ!」
比喩だよ、比喩。馬鹿じゃないの。

クラスの話し声がやけにクリアに耳に入る。クラスの話し声に心の中で野次を飛ばす。震える手で診断書を封筒に戻した。震える身体と焦る思考の奥に、何故かゆったりどっしりとした思考がじんわりと染みていった。直ぐに心は落ち着いた。
くるりと振り返ってくみちゃんの顔を見る。パッツン前髪。ふたつに結った長い黒髪。出会って2日目に小さな鏡を見ながら私に話してきたくみちゃん的コンプレックスのそばかす。地味な子。8日前にも思った考えが、今ここでまた過る。
「もっちろん正常だよ!なぁに?くみちゃんは異常かい?」
「正常に決まってんじゃん!あーー、大丈夫って分かってても緊張するなぁこれ開けるの…」
めいっぱいの笑顔で私は嘘をついた。お医者さんの前だったらまかり通らないとんでもない嘘をついた。

私は“異常者”になった。

人は皆、正常でなければならない。異常者は排除される。学校も、会社も、“異常”の診断を下された次の日から行けなくなる。行ってはいけない。建物に送られる。明日から行けなくなる。

「君、楽しい?」
「楽しくはないです。え、人生は楽しむものですか?違いますよね。」

「君、初恋は?」
「人間なんて好きになりませんよ。」

私は医者に嘘はつかなかった。むしろ、正論だけを、大人が喜びそうな正論だけを並べたはずだった。

人は皆、正常でなければならない。異常者は排除される。正常者の最後の夜、私はマンホールを持ち帰った。マンホールが少し歪な形をしていたから、私は自宅に持ち帰って直そうとした。マンホールが無くなった街は大騒ぎになった。

私はその夜、マンホールを盗んだ。歪な形をしていたから直そうと思ったのだ。私はマンホールがとても好きだった。ぽっかり空いた穴に女の子が落っこちて死んだらしい。街は大騒ぎになった。

かんちゃんはマンホールをどうしただろう。

異常な朝に私はマンホールの夢を見た。夢であれと願ったが、枕元のマンホールがごとりと低い音を立てて倒れた。その先に母が泣きながら立っていた。隣に知らないおじさんが立っていた。マジックでも始まりそうな、私が丸ごと入りそうな大きな箱を抱えていた。どうやら私を丸ごと入れるらしい。かんちゃんはこの瞬間に何を考えただろう。私はかんちゃんがとても好きだったらしい。最後に見た診断書を思い出した。
「[好きな人]神崎 〇〇」
久しぶりに神ちゃんのフルネームを見た。下の名前、そうだ、そうだったな。
神ちゃんに会えるならと、私はにっこり笑って箱に入った。小脇に抱えたマンホールは母に取り上げられてしまった。

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