25歳人生の転機について

サッカーが大好きで、ジーンズが大好きで、ヴィンテージのVWが好きだった自分を変えた出来事。

神奈川県秦野市に生まれてから、ずっと秦野で生活を育ってきました。大学も自宅から通っていたので結婚して家を出るまで秦野での生活しかした事がありませんでした。小学生の頃からの仲の良い友達とずっと遊んだり仕事をしたりしていました。大学を出たものの、就活などせず、そのままアルバイトをしていた運送会社に就職をしました。高校生の頃に購入したカルマンギアでレースをしたりしていたのでお金が必要でした。大学生でしたが殆どアルバイトをして過ごしていました。一時はアルバイトの月給が60万近いこともありました。全てVWに注ぎ込んでまして、学生時代にアルバイトをしておよそ800万円をVWに注ぎ込みました。

さて、そんな楽しい生活にも徐々に疑問を持ち始めます。このままで良いのだろうか、、ずっと秦野で暮らして楽しいまま歳をとる。一見すると良い人生です。ああそうか、僕には夢がなかったんだ。そうなんです。漠然と過ごしてきた人生。なりたい職業もなく、ただ憧れとしてアパレルのデザイナーなどを見ていました。それもそう、秦野にいるだけでは世界が広がっていないのでした。周りで活躍した知人もいなければ身内で著名になった人もいません。小さなごくありふれた世界しか分からない私でした。毎日、仕事して、夜は楽しく秦野の友達と遊ぶ。そんな生活に満足をしていました。しかし、ある時から徐々にこのままでは行けないと考え出しました。毎日悩みました。そんな時、秦野のお金持ちの知人から貰ったMACを見て思いました。ああ、こいつで何かできるんじゃないかな?と。時代はインターネット時代の到来間近の世の中です。電話回線を恐る恐る繋いでオンラインの世界を見てみました。まだまだ1ページ写真1枚のページを表示するのに数分掛かる時代です。最初に検索したのは、Brian Jones 。まだまだ日本のページは少なく、ブライアンジョーンズなんて検索しても出てきませんでした。ヒットしたpageはなんとBrianの親族が運営するwebでした。

web pageを見ているうちにひょっとしたら自分でも作れるのではないかとお思いました。見よう見まねですが、自分のブライアンジョーンズの思いを伝えるpageを作りました。

さて、その頃私の興味は家具にありました。トラックの運転手と並行して知人の親族が営む木工所に弟子入りします。殆ど職人経験がない私には苦労の毎日でした。そこで当時憧れていた荒木信雄さんの正方形の家具を真似て作ってみました。今でも自宅で使用している思い出の深い品になります。そんな時にヤフオクに出会います。まだ写真を掲載することが難しい時代。手始めに実家にあったウルトラマンのソフビを売ってみたら、なんと爆益が。しかもその頃は思いを伝えるメールが来たりと今では考えられないほっこりとした取引でした。そのヤフオクで自分の作った家具を販売してみたところ、なんとなんと1つ売れました。初めてお金を頂き家具を売る。自分の行為が認められた瞬間です。

結局、椅子を作ることは作業的、デザイン的に困難だと気が付きました。これがきっかけでイームズを輸入する事になるとはなんですが、行動をして気がついた事が大きな事柄になることを知りました。

家具に興味を持ったきっかけはNIGOさんとJONIOさんの対談なんです。ポパイの連載Last OGでイームズに付いて語ってた対談がきっかけでした。

さて、秦野で悶々としていた私は覚えたインターネットで家具に付いて検索を始めます。その時にヒットしたのがD&DEPARTMENT。ナガオカケンメイさんのブログです。おお、これだ!と思った瞬間でした。まだドローイングアンドマニュアルという会社で確か三田にあったと思います。古い日本の家具を販売したり、柴田くんという長身の男性がデザインしたバイクのシートをリメイクした椅子を販売していました。それがきっかけで僕も近所のリサイクル屋を周ります。ありますあります、Dで売ってるような素敵な家具が。そして私がバイトをしていた運送会社が家具の配送でしたので、家具を廃棄する場所にはカリモクやら昔の日本の家具が大量にありました。許可をもらって自宅に持って帰っては修理したりして溜め込んでいきました。木工職人の親方に直してもらったり、紹介された椅子張り替え屋さんで張り替えたりしました。

その時、ふとした事がきっかけで東京に出ることになります。Dの掲示板をみていた時に書き込みをしました。それを見た方が私に空メールを送ります。その頃はメールがくる事が非常に稀だったので、その空メールに私は返信をします。なんとその方は間違って空メールを送ったとのことですが、まだインターネットでの出会いも希薄でなかった時代。同じ古い家具に興味を持つということで連絡を取り合い、その方のスタジオに遊びに行く事になりました。ずっと秦野で同年代の知り合いとしか接したことのない私には衝撃的なことです。ドキドキしながら青山のスタジオを訪れました。菅野さんとの出会いです。菅野さんはスタジオカメラマンで青山でスタジオエアーという写真スタジオを運営していました。当時、40代前半の菅野さん、20代半ばの私。家具という共通の趣味がきっかけでこれからの刺激的な生活の始まりです。毎週、金曜日の夜には必ずスタジオに行って深夜まで過ごす。土日は菅野さんとリサイクル屋さんを回って家具を仕入れる。刺激的な週末のスタートです。その頃、Dが環八沿いに移転して青山のスタジオからの帰りによく寄りました。まだ路駐が当たり前の時代。深夜までやっているDの前に車を停めて田舎者の私には高すぎるコーヒーを飲んだ記憶があります。

リサイクル屋周りの時代はまた振り返るとして、今日は僕が東京に出るキッカケとなった出来事について書きました。

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