帆場 蔵人

詩を書き随筆を書く何か、です。

帆場 蔵人

詩を書き随筆を書く何か、です。

最近の記事

あーしてこーしてそうなりました

かみさまが栗鼠を刷ると グーテンベルク活版印刷機が 生まれた、 かみさまのリスナー お葉書を書くより祈る あしたへあしたへとあさってへね きのうよりもきょうよりもきのう みぎひだりみぎひだりとみぞおち 活版印刷機がらがら、 がらがら、天気を刷れば、 空は快晴から豪雨まで、 右から左、馬耳東風、 とんでもなくぐてんぐでん グーテンベルク活版印刷機 まわしまくったもんだから 積ん読のままの母が 出した詩集のうえに バナナを乗せて隠し 快晴のために 洗濯機はひたむきにまわり

    • turn the pocket inside out

       そこにポケットがある。僕の身体のどこか、手が届きそうで届かないポケットがある。それは東京だったり北海道だったり、或いは見た事のないアメリカの墓地だったりする。  それは耳、だろうか?    右耳が幼い頃から遠い。耳鳴りが常にある。早口で話されると何を言われたのかわからない。体調の悪さに比例して耳鳴りが酷くなるから余計に僕の耳はどこか遠くで、沢山の僕の知らない音や言葉をため込んで膨れっ面なのだ。  耳はポケットだろうか?  手が届きそうで届かない僕の、遠い耳、がポケット

      • 創作雑記帳①

        随筆から小説が生まれる瞬間 最近、随筆の合評会に参加しているのだが随筆でなく私小説と感じた作品が幾つかあった。その人たちが随筆を書くと決まってそのように感じてしまう。何故だろうか。それについて僕なりの見解を書いてみたいと思う。 ①物語性 その随筆に起承転結の構造があるということ。その事実がなにから起こり、それがどのようにして終わったか、という話を語っている ② キャラクター性 複数の登場人物がいて、その人物どうしがいろいろと絡み合って話が進んでいく ③会話がある 会話を

        • ネットで詩を書いている馬鹿のつぶやき③

          僕の詩はあまり難解な漢字は元より使わないのだが、果たして詩に漢字は必要なのだろうか?と ふと、思ったのだ。確か現代詩フォーラムで羽衣なつの氏のひらがなだけの詩を読んでいたときだ。なぜある言葉を僕はひらがなでなく漢字で書いたのだろう? そんな疑問がよぎった。(https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=347811) 技術論とか柔らかい印象が醸せる、なんて事は置いておいて。その漢字の意味をどれだけ深く捉えていただろう。例えば詩を朗読するとき、

        あーしてこーしてそうなりました

          ネットで詩を書いている馬鹿のつぶやき②

          僕は自分の詩を読んでそれを理解してくれる読者は稀で、読者の手に渡った時点で読者の誤解と勘違いが普通であるということを意識することを心がけています。しかし反対に、自分の詩を理解してくれる読者が普通で、誤解や勘違いする読者は稀であるという考えを持っている書き手がいないとは言えません。 文学作品というものは、手紙でも論文でもありません。手紙や論文、新聞などは、読み手に正しく理解してもらわなければなりません。それに、比べて、文学作品は作者が自分の詩作品を公表した時点で、その作品は読

          ネットで詩を書いている馬鹿のつぶやき②

          ネットで詩を書いている馬鹿の呟き①

          最近、人の詩を読む場合は意識して行っていることがあります。それは作品をまずじっくり熟読するという、時間的な空間を必ず設けていることです。それから自分なりの感想や批評をコメントする。何、言ってんだ当たり前だろ? と思われるかもしれない。しかしネットではこの当たり前のことが行われていないように感じる時がある。出された詩作品に対してあまりにも反応が早すぎるように思えるのだ。 どこか発作的に衝動的に、急かされるように投稿された記事に反応しているように感じるのは僕だけだろうか。投稿さ

          ネットで詩を書いている馬鹿の呟き①

          求めるもの

          頭部のない地蔵が地に突き刺さり私は石くれを拾い集めて供えていく。顔は覚えてくれているのか、と問われても元より知らない。けれども手を合わせることだけは遠い昔に習ったし、あの鳥のように歌を供物にしてあの花のように枯れるのも倣うのだ。やがて屍を滋養に花が咲きまた誰かがそれをつむ。石くれは宮殿の礎になりいつかは人が住む。 宮殿の周囲には花が幾万も咲き誇り、鳥たちが囀っている。それを見もせずに人びとは好き勝手に無駄口を叩き、手を叩き合う。絶えることのない空胞と花火の炸裂音は誰の心も打

          求めるもの

          秋の霧・随筆版

          今、僕は詩を書くための試みとして、自分が書いた詩を随筆に随筆を詩にするということを行なっている。今日、公開する作品は下記のリンクの同名の散文詩を随筆として同じテーマで書いたものだ。ただ初めてのことでもあったためか、随筆よりも小説のように造り込んでしまったきらいがある。また同じテーマで書くからと言って詩の説明をするものではない。通じるものはあるが、趣きが全く違うものになってしまったのは、初めての試みであることをお含み頂きたい。 秋の霧・随筆版 夜勤明けの朝には霧が深く立ち込

          秋の霧・随筆版

          秋の霧・散文詩

          早朝に薄くかかった霧に町は静止しているようだ。ビニールハウスは無防備に丸みのある腹を見せて草木もわずかに頭を下げて眠っている。盆地の霧は緩やかに這うように動く。 いつか友人と山の頂からみた雲海のなかを電車は走っていく。この外に動くものなどないようだ。 ちら、と考えたとき窓を開け閉めする音、私の頰を湿り気を帯びた風がかすめた。そうして電車のなかに流れ込んできた霧の重みに誰もが黙して身をシートに沈めている。そんな停滞した時間のなかでいくつかの唇から、つ、と鱗がぬめり零れて跳ね

          秋の霧・散文詩

          風に飛ばされてゆく葉っぱを拾いあげ それを大切に懐にしまう人をみた まるで栞を挟むような手つきで 忘れられてゆくはずだった葉っぱが 何か違うものに変わったのだ ある日、出会った他人同士が肩を並べ 身を寄せ合う、引力のような縁が 葉っぱとそれを拾う手にも結ばれる 拾われる葉っぱと拾われない葉っぱの 違いなんて考えているうちに、時々 地球との縁を忘れて空に落ちそうになる 袖の振り合うも多生の縁 また、躓く石も縁の端という すべて前世の因縁らしい 今、躓いた石は前世の恋人か

          俎板の上

          そうしてまた悲鳴にならない 悲鳴が飛び交う市場の賑わいのなか 売り買いされるものをみつめる 切り刻まれるのは 爼上に挙げられた 言葉が指さす人たち 他人の顔をしているが彼らが 彼らのためにつくりあげた食材だ 誰もが無意識に人を捌いている 市場の賑わいが それぞれの戸口に 呑まれていく夜に 俎板の上で私も誰かを切り分けていく 耳を削ぎ鼻を削ぎ平らかにして半分に 切り分ける、眼輪筋が美味しいよ 眼玉がぐるん、と後ろを向いた みていられない? お前は私なのに 顔は悪いけど髪

          あれは木星だろうか?ハロウィンの夜など関係もない呟き

          陽が次第に落ちてゆるゆると薄暗くなった町を歩いている。信号機の赤で立ち止まる。まだ青が潜むうすぐらく滲んだ空に爪のような三日月が覗いていた。じっ、と真上を見上げればそんな空しかないのだ。雲はどこか、星はどこか、闇もない。私はそこに落ちそうになる。まるで流れが澱んだ淵のように見続けてはいけない、ひろがりだけがあった。ガードレールをつかみ金属の確かさを錨にして、私は眼を閉じる。夕餉の匂い、車が道路を削っていく音、空気のながれが私を包んでいる。 ゆっくりと上向いたまま、眼を開けれ

          あれは木星だろうか?ハロウィンの夜など関係もない呟き

          台所の廃墟

          ガラス瓶は古代遺跡か 墓のように寂として直立して、ある ピクルスを漬けた叔母の形見 家と遺体を処理する金だけを 残して叔母は死んだ、終活は滞りなく 家の中はがらん、として人の気配は 消えて三十年前に死んだマルチーズの 首輪がテーブルに置いてあった 兄はアラジンのアンティークな白いストーブ 父は特に何も、母はティーセットを一式 残っていたのはピクルスの瓶たちと 首輪だけで捨てるのも忍びないから 首輪を使って輪投げをしてる 直立する瓶を並べ替えて 段々と右肩下がりに したり左

          台所の廃墟

          流星群の夜に

          その夜は何十年ぶりだという流星の群れが夜空に尾を引き、眼の見える人々は空を眺めて手を広げ、自分のちっぽけさを証明するのに夢中になっていた。 随分と長く暗闇に身を浸してきた盲の男は、そんな喧騒から身を引いて海へと続く川沿いの部屋で、窓を開けピアノを弾いていた。右隣に住む寝たきりの老爺の唯一の願いは男が弾くピアノの曲を、眠れぬ夜に聴くことだけだった。特に半ば腐った片足の先が疼く夜には。 盲の男がまだ若く夜を明るく感じられたころ、老爺は洒脱な衣服に身を包み高い酒を呑み女を抱き、幾つ

          流星群の夜に

          栗への讃歌

          青い雲丹のようであった トゲトゲが今やえび茶色に 染まり機は熟したと落ち始めた 栗よ、お前は縄文の昔から 人びとの口を楽しませ、飢えから 救ってきたそうではないか そんなお前を足で踏みつけ実を 取り出す私たちを許してほしい 私は私の先祖たちがしてきた事を 繰り返しているのだ、お前のその えび茶色は実に食欲に火をつける マルーンとも言うが、マロンには 相応しい色味ではなかろうか 縄文に生きた人々は お前を生で食べたという しかし、私たちは お前たちと共存するうちに 甘栗

          栗への讃歌

          オウムと老紳士

          春の陽気にさそわれて、町をそぞろ歩くことにした。少し行くと修道院があり、その敷地の周囲にぐるりと桜が植わっている。修道院を囲む道を挟んで住宅地が広がり、車の通行がすくないので散歩には恰好である。調子よく足を運んでいたのだが、わたしはふと足を止めてそれをみた。ある家の玄関さきに置かれた籐の椅子と空の鳥籠。  数年前にもこうして歩いていた。その頃、あの椅子には老紳士が座っていた。そしてその傍らにはいつも鳥籠が吊り下げられていた。そのなかから、 「オアヨ、オアヨ」  と、呼び

          オウムと老紳士