意識が無い時の行動が本心

私はお酒が飲めないので、酔って記憶が無いという経験をしたことは無い。
「え~ 私そんな事言ったの やだー全然覚えてな~い」

飲み会の席で酔っ払って 好きな男性にプチ告白をした知人の様子を見て
うらやましく思った経験はある(笑)。

でも私は、お酒に酔わずに似たような経験をしたことがあって、
それは今でも不思議というか、人間の本心ってこんなところに表れるのかと思わされた。

それは、この記事に書いた時のことだ。

親友との不思議な出来事

私にはたった一人、他の誰とも代えがたい親友
"ちっち"がいる。

彼女は東京に住んでいるので、最後に会えたのはもう7~8年ぐらい前かもしれない。
でもどんなに離れていても、たま〜にラインのやりとりをするぐらいなのに
それだけでいつでも懐かしいあの頃に戻れるっていう ほんとに心で繋がっている友人。

私が倒れた時、その事を連絡してくれたのは、私の姉だったそうだ。

私の記憶では、ヘリコプターで病院に運ばれ
とにかく命の危機だと把握している中、カルテのようなものに私のデータを書き込もうとしている看護師さんに、身長と体重を聞かれ
夫から 「体重サバ読まなくてもいい?」と聞かれ
「こんな時までウソつかないよ~」と笑って返した記憶で止まっている。

その2日後

ものすごい喉がカラカラで痛い感じがしてうっすらと目を覚ましたら、夫や看護師さんが上から顔をのぞきこんでいた。

そこから1週間ぐらいは ずっとICUで過ごし、食事は管で通す流動食。
排泄は看護師さんにオムツを変えてもらう
私はずっと寝たきりでした。
この時の事も、まだたくさん書きたいので、それはまた別の時に書くとして。

本題の、意識が無い時の私の行動についてである。


幻覚の中、毎晩会いにきた親友


1週間のICU入院を経て、容態が良くなった私は
一般病棟に部屋を移動して リハビリを少しずつ始めることになった。

倒れてから10日後だった。

ようやくスマホを触れるようになったので、私は慌てて周りの人との連絡を取ろうとした。
なぜ慌てていたのか分からない。

自分がこのまま死んでしまうなら、みんなに何か伝えなくちゃという恐怖心だったのかもしれない。

でも、スマホの画面を見て、すごく驚いた。
たくさんの着信、ライン、メールが届いていたからだ。
「Yちゃん、大丈夫?みんな待ってるからね!頑張ってね」
「Yちゃんの回復を願っています」

こんなにもたくさんの人が私を待ってくれているんだと、嬉しくて泣きそうになりながら
私が真っ先に連絡したのは、親友のちっちだった。

なぜなら、私がICUにいた1週間、毎晩彼女が病院に来てくれていたから。。。

その時の私は、手術の影響で、視力や聴力もおかしくなり、幻覚も見えていました。
眠りたくて目をつぶると、オウムのようなものがぞろぞろ襲ってきて恐くて叫びそうになったり、面会に来てくれた夫の手が、ぬぅ~~と私に向かって伸びてきたり
幻覚のほとんどがストレスと恐怖。

そんな中、真夜中になると、東京にいるはずのちっちが
病室の入り口のイスにちょこんと座っているのだ。

言葉を交わすことはできなかったけど、私はなぜか、東京から毎日彼女が来てくれてると思っていた。

ICUから一般病棟にうつった時、この時夢の中でちっちに励まされたことを真っ先に伝えたかったから、迷わず電話をかけた。

「もしもし ちっち?ごめんね心配かけて。あのね、あり得ないんだけど、ちっちが毎日病院にね・・・」

私が話しているのを聞いているのか聞いていないのかわからないぐらいの声で、途中で彼女の方が話し始めた。

「めちゃくちゃ心配したじゃん。Yがあんなメール送ってくるから。。。もうこのまま会えなくなったら本当にどうしようって。。。」

言葉に詰まって聞き取りにくかったけど

あんなメールって何?と ふと思い、そのまま聞き返した。

「メールって何?」

「覚えてないの?写真つきで送られてきたよ」


遺言のような送信メール


一旦電話を切ってから、私は自分のスマホの履歴を確認した。

発信履歴もいくつかあった。
発信相手は
ちっち、習い事でお世話になっていた先輩、バンド仲間
どれも、私の記憶が無い時間帯の発信。

夫に確かめると、「何があるかわからないから一応連絡したい人にだけ連絡するって、自分で電話してたよ」と。

夫の話によると、開頭手術ができるまで、血圧があがると危険だからと、鎮静剤を打たれていたが、会話はできたらしいのだ。

そして一番驚いたのが、記憶の無い自分が送っていたという、メールの送信履歴。

たしかに、彼女宛だ。
二人で撮った写真を添付してあった。

「もしかしたら、もう私、ダメかもしれない。もっとちっちと思い出作りたかった。ちっちと出逢えて本当に良かった。私にもしものことがあったらその時は 姉ちゃんのことや私の子どもたちのことよろしくね。ちっちダイスキだよ。」

・・・これを私が?


……読みながら涙が止まらず、そのまま今度は
彼女からの返信メールを確認した。

「Y、そんな事言わないでよ。Yとはこれからもまだまだいっぱい楽しい思い出作りたいよ。80過ぎるまで一緒にいたいよ」

どうして彼女が私の枕元に夜な夜な現れてくれたのかも、この後分かった。

姉が私の容態を連絡した時、彼女は恋人とタイ旅行に向かっていて飛行機に乗るところで、タイに着いたらしばらく連絡がとれないということだった。

帰ってきたらすぐに連絡しますと姉に告げて、その後はずっと私のことが心配でいてもたってもいられなかったそうだ。


心で繋がっていた


私が彼女に送ったメールも、私がよほど彼女のことが大切で

自分の命が終わるとしたら、どうしてもその気持ちを伝えたい相手だったのだろう。

私が彼女を思う強い気持ちと、彼女が私を心配する気持ちがちょうど繋がったから、毎晩ICUに来てくれたのだと。

その時に気づいた事。

普段、意識がある時にしている言動は
自分で考えて、恥ずかしいとか、今じゃないとかタイミングを見計らったり、自分で選んでいる分、どこかで本音にセーブをかけているのかもしれない。

でも、本当に自分に時間が無い時って、自分が言いたいこと、伝えたいことを本音で言えるのかもしれないなと。

だって記憶がないのに、思い出の写真とダイスキの言葉を伝えるなんて。

意識をはるか超えた本当の自分としてとった行動なのだと思う。


無意識と意識を繋げる


回復してからの私は、無意識の自分の本音は何かを考えたりしながら人と接している。

そう言えば小さい頃もそうだった。
夢の中に好きな人が出てきたとき、夢だとわかっている自分がいて
今だけ思い切って手繋いじゃおう!みたいな。

考えてみれば、夢とか無意識とか、死ぬ間際とか どれも本当は意識がある日常と隣り合わせで、
ただ、行動を自分でふりわけたりセーブしたりしすぎているだけかもしれない。

本当はどうしたいの?

今、話したい相手は誰?

そういうのを、最初は面倒でもわざわざ自分に問いかけて
無意識の選択と 意識的な選択が

同じになるのが理想なのかもしれない。

あのメールが最後のメールになっていたとしたら辛くてたまらなかったと思うけれど
助かった今となっては、彼女のことをこんなにも大好きだったんだなと再確認できたので、良い想い出です。

病気で失ったモノより得られたモノに目を向けて これからも日々過ごしていこうと思います。





私の書く記事は多分、伝わる人が限られています。いじめ、機能不全家族、HSP、病気などの記事多めなので。それでも深くせまく伝えたくて書いています。サポートとても嬉しいです。感謝します。コメントも嬉しいです🍀