腹心懊悩

腹心懊悩 入門

入門

 利達が十歳の時、香壇山長楽寺に入門しました。入門当日は、利達の父は姿を現しませんでした。出自を隠しておきたい状況にある者が多いので特別に変わったことではありませんでした。寺門の近くまでは母が見送ってくれましたが、寺院には自分一人で行き、門扉を叩きました。
 長楽寺側では、利達の存在は話題になっていました。出自は皆それぞれに抱えていますが、万寿弥が政界を引退し、再び仏門に戻ってきた時、苦しい政界の話の中でも、親しかった利達の父の話をしていたからです。利達の父は、政界の中枢にいる人物で、京ではその名前を知らない者はいないくらいでした。また、彼の子ども達の優秀さも有名で、非常に恐れられていた一族でした。そんな利達の父は、帝と姻戚関係を結び、地位を築き上げようとする貴族達とは異なり、能力の高さを武器に勝ち上がってきた人物でした。しかし、その性格はさっぱりとした性格であり、貴族特有のネチネチとした嫌らしさがなかったのでした。
 万寿弥は、利達の父の話を仲間の僧侶に話をしていました。彼の優秀さなどを人徳の素晴らしさを説いていました。これから政界に入っていく者へのメッセージのつもりでした。そして、皆を奮起させるつもりで、利達の話もしていました。その頃の利達の父は利達を入門させるそぶりを見せませんでしたが、必ず、利達が入門してくると万寿弥は信じていました。学問を修める能力の高さを聞いていたので、利達がやってきたときは、強力な好敵手になることを伝えていたのでした。
 そんな話があってからしばらくして、利達の入門があったのです。一人でやってきた利達はオドオドしていました。村の大人や父との関わりはあったものの、仏門の人間との関わりは初めてだったからです。
 「ようこそ、いらっしゃい。君が利達ですね」
 利達より少し年上くらいの若い男の僧が声を掛けてくれました。
 「はい。よろしくお願いします」
 「そう、緊張しなくても良いですよ。君が入門することは聞いています。長老がお待ちですので、そこまで案内しましょう」
 若い僧侶は歩き始め、利達はその後を付いていきました。境内は非常に美しく整備されていました。自分より少し年上の僧侶が多く、みな落ち着いた様子に見えました。しかし、利達は非常に不安でした。父の勧めで入門を決めたものの、これまで余所の人とおよそ関わりなどなかったからです。新しい環境に入るときの不安は、これまで読んできたどんな書物にも書かれておらず、利達自身、不安という感情がこれほど大きなものなのかと驚嘆していたのです。
 自分の心の動きに驚きながらも、頭の片隅には、この寺院にいる僧侶たちのごく一部しか政界に入ることができないという事実を意識していました。そのため、僧侶達は落ち着いているように見えながら、腹の底では相手を蹴落としてでも昇進してやろうという気概に満ちているのだろうと推し量っていました。
 「長老、利達がやって参りました」
 「うむ。こちらへお入りなさい」
 本堂の扉を開けると、老僧が仏を前に拝んでいました。本来、修行を行う場合であっても、本尊に近づくことは難しく、建物の外から拝むものでした。しかし、長老は本尊の近くで拝み、利達をその近くへ寄ることを許可されたのです。このことは、案内してきた僧侶の心の内にざわつきを覚えさせました。この場所に入れるのは、入門後ある程度修行を積んだ後でなければ許されるものではなかったからです。利達に対する特別な配慮に、その出自の偉大さを感じ取っていたのです。
 長老の前に案内され、緊張している利達に対して長老は言いました。
「利達。緊張する必要はありませんよ。あなたのことは、あなたの父君や万寿弥という政界にいた僧侶から聞いています。あまりにも事前に話を聞いていたので、初めてあったという気がしません。もはや、私からしたら孫のような感じですよ。さあさあ、お座りなさい。」
「はっはい」
「私はね、ここにやってくる若者が羨ましいって思うんですよ。もうこの歳になると、老い先短く、経を読み上げながらお迎えが来ることが私の願いなんですよ」
 長老はゆっくりと話しながら利達に諭すように話をしていました。
「利達、私はそう思ってここで過ごしています。君を一目見て感じましたが、君には諦めの気持ちがあるように見えます。私のような最期を迎えるための欲のない諦めではなく、この世の中に対する一種の諦めのような気がしました。どうですか?」
 利達は長老の話を聞いて驚きました。これまで、手習いが楽しく過ごしてきていたものの、母からの影響を受けて、この世に対する期待を失っていたからです。これは心の内に秘めているもので他人には悟られないと思っていました。それを一目見ただけで見抜かれてしまったのです。世の中には、自分の想像を超える能力を持つ人が存在するのだと驚きました。その驚きが大きく、利達は返事をすることができませんでした。
「利達、あなたの心にある悩みは、誰しもが経験する悩みです。自分だけだと思いがちですが、ここに来る子どもは多かれ少なかれ、言い明かせない出自であったり、目的があったりするのです。
私はこの立場にあるので、ここの存在意義も理解しています。仏道、学問、政界、この三つの柱がここにはあります。あなたが学問に対して非常に優秀であることは父君から聞いています。しかし、その能力を活かすことができないと知らされたら、諦めを覚えたことでしょう。その気持ちは誰もが抱くものです。父君はそのことを見抜いておられたのです。君をここへやったのも、君の諦めた気持ちを奮い立たせ、これからを生き抜いてほしいと思ってのことです。
 君の境遇は恵まれていると言って良いでしょう。学問ができても立身出世をたどれない者がたくさんいます。こう言ってはなんですが、女性に生まれていたとしたらもはや絶望的だと言わざるを得ないでしょう。私は女性でも能力のある者は活かされるべきだと考えていますが、この時代では不可能に近いでしょう。君がここに来たことで、立身出世の道が開かれたと言えます。しかし、その道への入り口は非常に狭く、険しいものです。
 設立当初の長楽寺は、政界に進出する僧侶を輩出するための施設だったので、多くの僧侶が還俗し、政界へと進んでいきました。しかし、それが数年続くと、今度は政界に多くの僧侶が存在し、貴族達の権限が小さくなってしまい疎まれるようになってしまいました。そこからは政界に存在できる僧侶の数は限られるようになりました。
 今では長楽寺以外の寺院からも、その数を狙って修行をするところも出てきています。もはや本来の仏門という世界はどこへいったのかと危惧してしまうぐらいです。先ほど名前を出した、万寿弥はここから政界に入って長年活躍した僧侶でした。しかし、調子を崩して戻ってきたのです。これからは仏門修行に励みつつ後輩達を指導してくれるものだと私は信じています。後で万寿弥に会うと良いでしょう。彼もきっと君に会いたがっているでしょうから」
 利達は長老の話を聞きながら、多くの情報で頭がいっぱいになっていくのを感じていました。自身の気持ちを言い当てられた驚きを拭えないまま、長楽寺の歴史を聞き、混乱していたのでした。
「長老、お話が長くなっていますよ。ここの説明は実際に案内しながら行いたいと思います。そろそろお話をまとめていただけますか」
「おっと、それはすまなんだ。詳しいことは徳利に任せることにしよう。では、私から最期の質問じゃ。利達よ、お主の目指すべき道はどこじゃ」
 利達は再び問われて戸惑いました。長老の話し方の変化から、本気で試されているように感じたからです。ここに来るまでは、もう人生に諦めを感じていて、一地方の田舎暮らしで平穏に暮らしていきたいと考えるようになっていました。それが自分の身の丈にあった生活だと思っていたからです。しかし、長老の話を聞き、自分が連れてこられた長楽寺は、自分の能力を活かすことができるかもしれない可能性の高い場所だったからです。
 利達は悩んでいました。自分は学問をするのが好きです。漢籍もそれなりに読みこなしてきました。しかし、この能力を活かすためには、仏道と政界の知識を手に入れる必要があり、果たして自分はそのことに興味を持つことができるのかどうか分からなかったからです。
「えっと、その、まだ分からないです。学問はやりたい気持ちがあります。父が持ってきてくれた書物よりも、より多くの書物がここには存在すると聞いています。それらを読んでみたいという気持ちはあります。しかし、他の二つの道は、興味を持てるかどうか分かりません。それに、私がここにいる先達よりも極められるのかも分かりません。私は、少しでもこの世に諦めを持ってしまった身です。その気持ちが抜けるのかもわかりません。なので、もし一つを選ぶというのなら、学問を選びます。しかし、もっと大きな道を選んで良いのなら、自分の能力を活かせる道を選びたいです」
 利達は自分でもこんなに答えられると思っていませんでした。緊張のせいもあったろうし、長老の整然とした話を聞いて、自分も真正面から答えなければならないと思ったからできたのでしょう。
「うむ。なかなか正直な応えといったところですね。わかりました。どの道を選ぶかはここで修行を積む中で選べば良いでしょう。君にとって刺激となる人物がここにはたくさんいるでしょうから」
「はい。そうします」
「では、利達。境内を案内しましょう。長老、失礼します」
「これからよろしくお願いします。失礼します」
 こうして、利達は徳利に連れられて本堂を後にしました。講堂、宿坊、奥の院など様々な場所を境内の地図で説明されました。まずはどこに何があるのかを覚えるとよいことを教えてもらいました。しかし、利達には気になることがありました。この案内してくれている僧侶は徳利という名であるようですが、自己紹介をしてもらっていませんでした。利達は徳利のことを尋ねてみると、徳利はうれしそうに答えてくれました。
「私の名は、先ほども聞いたとおり徳利(とくり)と言います。私がここに来たのは十二歳の時なので、二年ほどここで修行を積んでいます。といってもまだまだペーペーですよ。こうして新たな入門者や来客の中継ぎをしている身ですから。
 利達の話はみんな知っています。万寿弥様が京の話を皆にしてくれていましたからね。そして利達の父君の話も聞いていますので、あなたが高貴なお方のご子息であることも知っています。かくいう私も、その話を聞いてどんな人物がやってくるのだろうとドキドキしていたくらいですから。
 ここにいる僧侶は、それぞれ複雑な出自を持っている者が多いです。あなたのように貴族の落とし胤という立場の者もいれば、地方豪族の出身者もいます。地方豪族の場合は落とし胤というよりも、次男、三男といった立場で、家督を継げない者がここに来て修行を積んでいるのです。私も土師という地方豪族の次男坊でした。家督は兄上が継ぐことになり、私はここに入って政界に進出することを目標としています。といってもまだまだですがね。
 そうだ、政界に最も近いと言われているのが、錫器(しゃくき)ですね。彼は私より四つ上ですが、すでに政界から声が掛かっている存在です。確か彼も貴族の落とし胤だったはずです。あなたの父君に勝るとも劣らないはずです。しかし、彼は真面目で無口なので、なかなか会話をすることは難しいかもしれませんね。私なんて、まだ一言二言しか話したことがありませんよ。」
 利達は徳利の流暢な説明に感心していました。利達自身のことを聞いただけなのに、彼自身の出自のみならず、長楽寺のあり方、そして他の僧侶についても流れるように説明してくれたのです。利達は、錫器に会ってみたいと思いました。同じような出自だと、もしかすると自分と同じような考えを持っているかもしれないと思ったからです。
「ここが、我々が暮らす宿坊ですよ。利達はまだ慣れないでしょうから、私と一緒に行動しましょう。今はそれぞれ修行の時間ですから人は出払っていますので、荷物だけを置いて、みんなのところを回りましょうか」
 利達は言われた場所に荷物を置いて、部屋を後にしようとしました。その時、視界の片隅に動くものを捉え、振り返りました。壁の向こうに人の足が垂れるように突き出されていたのです。
「うわっ……なんだ、足ですか。徳利さん、足です。足が落ちています」
「足が落ちていることなんてありませんよ。うわっ、足。ん?これはもしかして…」
 徳利はズカズカと足に向かって行きました。そして、部屋の向こう側に入り、足の正体を見つけると大きな声で叫びました。
「尺坏!また修行をサボっているんですか?今日は新しい仲間が来る日ですよ。こんなところでサボっていては示しがつかないではないですか!」
「んあ…?よう徳利。おはようさん。新しい仲間?あぁ、この間、万寿弥が言ってた子かぁ。俺ぁあんま興味ねぇんだけどなぁ。」
「そんなこと言ってないで、今ここにいるんですから、挨拶くらいしたらどうですか?」
「何ぃ?今いるのかよ。もっと早く言えよ。興味ねぇって言っちゃったよ、おい」
 利達はどう反応してよいのか悩んでいました。一緒について行って顔を出せば良いのか、ここで待っていればいいのか、悩んでいるうちに、奥の部屋から、頭の形に特徴のある僧侶が出てきました。
「よぉ、お前さんが利達かい?初めましてだな。っていっても、俺ぁ、あんたの話を前から聞いてっから、なんとなく知り合いなような気がするけどな。ま、気楽にいけばいいさ。あぁ、俺の名前は尺坏(さかつき)だ。よろしくな。俺には変に気を遣わなくて良いからな。こっちもあんまし気を遣わないし」
 利達は圧倒されていました。ここに来て、みんなの話し方はゆっくりと落ち着いていて、少し話は長いけれど、流れるような話しぶりから、話術の稽古をされていることが非常に良く伝わってきていたからです。ところが、尺坏に関しては全くそんな様子は見られません。むしろ、下俗の話し方に近く、親しみがあるような気がするものの、場にそぐわない、そんな感覚をもたらしたのです。
「なんだ?緊張してるのか?それとも、驚いているのか?俺の顔は変わってるからなぁ。頭が生まれつきこんな形だ。いいんだ、いいんだ。俺はこれを自分の特徴だと思っているから、自分でネタにもするさ。ってかよ、この頭のおかげで、誰にでもすぐに覚えてもらえるんだ。な?儲けものだろ?その点、お前さんは凜々しい顔だけど、一回じゃ覚えられねぇな。俺の勝ちだな」
 利達はあまりのことに思わず吹き出してしまいました。顔の形も気にはなっていましたが、それを自分から話し、なおかつ、自分の顔と比べて勝ったと思っているのです。学問や仏道修行、政界の知識における勝負をする場所だと思っていたのだけれど、まさか、顔の覚えやすさの勝負を最初にすることになるとは思わなかったからです。
「へっへっへ。これでちっとは緊張が解けたってもんだろう?徳利はよ、修行もするし、人あたりもいい。敵を作らないタイプだ。だけど、話が面白くねぇ。俺みたいにもっと、こう、楽に打ち解けるようにならないとな」
「尺坏、余計なことは言わなくて良いですよ。それに今は修行の時間でしょう?サボってないで、修行に勤しんだらどうですか?」
「ほらな、面白くねぇ。そんなこと誰でも分かってるんだよ。だけどな、気分が乗らないときだってあるんだ。そんなときに無理に修行して嫌になっちまったらどうする?一日くらいしなくたって、大丈夫さ。気分が向いたらやるさ」
「あなたが修行をしないのは、今日一日の話じゃないでしょう。あなたのようなサボり癖が利達にうつってはいけませんから、我々はみんなのところへ向かいましょう」
「あっあの、よろしくお願いします」
 利達は何を言えば良いのか分からなかったので、とりあえず挨拶だけしておきました。尺坏は、わかったよというような感じで手を上げて、また居眠りを始めてしまいました。
「利達、ああいうのを真似してはいけませんよ。全く、どうしてああいう人がここに何年も生活しているんでしょう。不思議で仕方がありません」
 徳利は案内を続けながらもぶつぶつと文句を言っていました。利達は徳利を見ながら、この人は真面目な人なんだと思いました。修行することに対しても熱心で、立身出世することに強い意志を持っていると感じました。
 そうして歩いているうちに、奥の院に到着しました。今日はここで修行している者が多いとのことでした。普段は講堂で仏道の修行に勤しみますが、学問、政界の修行はこの奥の院で行うことになっていました。午前中は境内の清掃を行い、その後講堂で経を読み上げ、修行をします。午後からは、各自力を入れたい修行を講堂や奥の院で行うのです。他の寺院では、一日の大半を仏道修行に費やすのに対して、ここではむしろ、学問や政界の修行に中心を置くことができたのです。
 奥の院に入ると、三人の僧侶がいました。一人は体つきが大きく、強面の僧侶でした。黙々と何かを書き写しています。残りの二人は、一人が話をして、一人が書き取るという形で話をしていました。話をしている僧侶は、随分と年上の僧侶でしたが、どこか影のある感じでした。しかし、その話し方は温和で、非常に優しく年若い僧侶に教え諭しているようでした。話を聞いている方の僧侶は、利達とあまり歳が変わらなさそうな感じでした。目がキラキラして、本気で取り組んでいるように感じられました。利達は三人の僧侶の第一印象をこのように捉えました。
「みなさん、修行中のところ、お邪魔をして悪いのですが、今日から一緒に修行をする仲間がやってきてので、連れて参りました。少しばかり、お時間を頂戴できますか?」
 徳利が声を掛けると、皆がこちらを向きました。強面の僧侶がさらに険しい顔つきにあってこちらを向いています。利達が緊張して何も言えずにいると、徳利が「さあ、さあ」と促してきます。
「はっはじめまして。利達と言います。今日からお世話になります。よろしくお願いします」
 利達は自分が皆のように話せないことを恥じていました。長老、徳利、錫器と会うことで、話が流暢でない自分に引け目を感じていたのです。これまでいかに自ら発することをしていなかったかを痛感していたのです。そして、折角の話をするチャンスでさえ、最低限のことしか言えず、気の利いたことを言えないのかと自分を責めていました。
「利達……利達って、あの方のご子息の利達ですか?ほぅほぅ、よく来ましたね。彼と話したときはそんなこと言ってませんでしたが、私がここのことを説明したので、考えてくれたんですね。いやはやうれしいものですね。」
 ものすごくうれしそうな顔をして、影のある僧侶が近づいてきました。そして、利達の肩に手を置いてうれしそうにしています。
「私は万寿弥(ますみ)と言います。ここで修行した後、還俗して政界にいました。その時にあなたの父君とお会いして色々と相談に乗ってもらったんですよ。あなたの才能をうれしそうに話していたのをよく覚えています。その後、私も色々あって、ここに戻ってくることになったのですが、あなたの父君の話やあなたの話をここでよくしたものです。皆、あなたのことを知っていますよ。ここでは皆それなりに過去を抱えていますからね。あなたも気になさらずに話して大丈夫ですよ。私達は皆、あなたを受け入れますからね」
「わーあなたが利達ですか。初めまして。私は杼壺(ちょこ)って言います。うれしいなぁ。私より後の人ができた!私も先輩だ!なんでも聞いてくれていいですよ」
 万寿弥の話の後に駆け寄ってきたのは、万寿弥に教えてもらっていた若い僧でした。その口ぶりから、一番下の立場だったのでしょう。利達が来たことによって先輩になれて喜んでいました。
「杼壺さん、もう少し僧侶らしくお話しなさい。まだまだ子どもっぽいですよ」
 万寿弥が諫めました。杼壺は小さくなりながら、
「以後気をつけます」
 とだけ言いました。万寿弥は、それを聞き終えると、利達に向かって言いました。
「あそこに座っている、強面の彼は、錫器(しゃくき)と言います。私たちがこれだけ会話をしていても入ってこないくらい、真面目一徹な性格なのですよ。それでも、彼は仏道、学問、そして政界の知識は相当なものです。修行の鬼とでも言いましょうか。それくらい彼はすごい人物なんですよ」
「やめてくださいよ。私だってちゃんとあなたたちの会話を聞いていましたよ。修行の鬼ではなくて、修行の虫と言ってほしいですね。強面だからって鬼ってのはひどいじゃないですか。
 いや、ちゃんと向き合って話をしなくて申し訳なかった。私は錫器です。ここで修行して六年になります。私はあまり話をするのが得意ではありません。一人で考えていたり、書物に向き合っていたりするのが好きなのです。私のことは気にせず、自身のなさるべきことをしてください」
「あっ、はい。ありがとうございます」
 利達は錫器の挨拶を聞き、徳利が言っていた通りだと思いました。強面ではありましたが、威圧感はなく、物腰は柔らかい感じがしました。それに、他の僧侶にはない気品のようなものを感じたのです。この人は本当にすごい人なのかもしれないと利達は思いました。
 挨拶周りをして、日常の生活のイロハを教えてもらって一日が終わりました。利達は寝る前に色々と考えていました。ここでの人々はそれぞれ目的があって修行に勤しんでいました。皆優しい人で、緊張せずともよいとも言ってくれました。そして、少なからず期待が込められている感じがしました。特に、万寿弥の言い分から、みんなに自分の出自が伝わり、学問のことも知られているのだと実感できました。
 ところが、彼の心の中では、学問が役に立たないかもしれないという諦めや、学問以外のことを習得できるのかという不安がありました。周囲の期待を裏切ってしまうことにならないか不安になってきたのです。明日から、どういう立ち方で振る舞っていけばよいのか悩んでいました。
 新しい環境に入る彼の心情は非常に複雑なものとなっていたのです。

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