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ここは人と人が生きる場所

私は大学生になって、いわゆる田舎キャンパスと呼ばれるキャンパスに通うようになった。同時に住居もその町に移し、日々を送っている。

このキャンパスは多様性が偏る場所だ。

遊びやすい都会キャンパスじゃなくて、同じ大学の、勉強に集中できるアカデミックなキャンパスを選んで入学してきた大学生がここにはいる。

毎日をこのキャンパスで過ごしていると、みんなそれぞれにやりたいことや、将来のビジョンを多くの人が持っていて、その上でこの人生の夏休みを楽しんでいる。

全員が全員いい子でも、頭のいい子でもないし、もちろん得意な科目や勉強の仕方も違う。けれどこのキャンパスでは誰かが誰かを否定するような空気は感じない。

セクシャルマイノリティに関する理解は、教員の部屋の名札に貼られたレインボーシールからわかるし、身体的な障害を持つ生徒に対してはサポートする支援室が大々的に活動している。勉強がしたければできるし、逃げたければいくらでも都会に帰れるように交通の便も整っている。

けれどここにある多様性は偏っている。

私は今この文を西梅田のTully'sで書いている。

梅田駅では70歳は優に超えてそうな紳士がはじめて行ったキャバクラのシステムを復習しているし、謎のセミナーへの勧誘も平日昼間の淑女たちによって行われている。行きかう人々は長そでの服も着ているし、ノースリーブの服を着ている人もいる。西洋からやってきたであろう老夫婦の会話に耳を澄ませることもできるし、他の大学のゼミの状況も後ろの席から聞こえてくる。

ああこれが多様性なのだ。

一歩外に出れば人と人との交流が行われる場所。偏らない多様性が守られていて、まったく知らない人の昨日の夜ごはんが知れる場所。

都会にはあたりまえにある、一見どうでもよさそうなこの多様性は、人を生かすのだ。けれど決してこれがないからと言って人は死なない。その場にあったコミュニティを築けばいいし、それを望む人は多くいる。

ただ、私はこの本当の多様性であふれる、人が潰されそうなまちが好きだ。

以上、大学生になって田舎で生活するようになった私の最大の発見をお届けした。

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