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資本主義の終わり、そして。

間もなく資本主義が限界を迎えるといったことを書いた本を読んだ。
ヒト・モノ・クニ…あらゆるものの価値を「金」という目に見えるもので統一的に表すというのは非常によくできたシステムであったようだが、如何せん人の作ったシステム。綻びはある。
手段であったそれ自体を手に入れ資本主義という中での「裕福」になろうとする輩が続出してしまうこと。右から左へ転がすだけで何やら価値が莫大に増えるというマネーゲームなぞが蔓延ったことが違和感を爆発させる要因にもなっているのではないかと思う。

はたまた、某国の企業が日本の平均の二倍の初任給で技術職の新卒採用をすると発表をした。それでも欧米に比べれば格安、日本の技術者の給与はアジア地域の中でも低いほうだというではないか。もはやかつて格安の働き手として雇用してきた人々から使役される存在である。
そもそも、日本では技術者の扱いが酷い。
年功序列で、パワーとやる気のある若手はジリ貧。若いときは苦労するものとして、年嵩の高級取は、新技術を取り入れろ革新を頑張りたまえ若いのだから時代について行けるのは君たちだろうと繰り返すのみである。資本主義の終焉の足音が聞こえる今、金が全てとは言わないが、生活にも不自由するというのはいかがなものか。

さらにもっと価値があるとされていいと思うのは現場の力だ。
大工、電工…今日の生活基盤を創り上げてきた職人たち。きつい・汚い・危険をくぐり抜け、教科書には載らない特性を熟知し、digitalでは伝承できない技能を全て持った熟練職人さえ下請の下請。腕のいい職人が次々と消えてゆく。それでいいのか?

どれだけ大切なものを失えば気が済むのだろう。いつ気付くのだろう。最新技術より、時代の流行に乗るより、coolに生きるより、ひとりの人間として生きるために守るべきものが沢山あると。

よく知りもしないくせにITだのIoTだのAIだのとは息巻いてしゃぎ、coolに時代に乗っているふりをする。――黒船時代から1ミリの変化もないではないか。
人間ひとりにできるcommunicationとentertainmentには限界がある。これ以上発達させてどうしようというのだ。コミュニケーションツールもエンターテインメントも、ないならないで何とでもなるものである。そもそも、友達は100人もいらない。
人生において欠かせないないのは、何はともあれ食料であろう。生き物はとりあえず食べる物に困りさえしなければ、幸せに生きて行けるはずだ。「こみゅにけーしょん」や「えんたーていめんと」と浮足立つ前に、まずは衣食住を自給できるようになって一人前の文明と呼べるのではないだろうか。

つまるところ、何が気に食わないかというと、
”結局、他国が提案した生活を理想としているだけで、どこにもオリジナリティなんてありはしない”
ということ。
差異こそが価値だというのに、他と同じことをしてどうする。
思考停止して他人が良いと思うものを追い求めたって、自分に合うわけなかろう。
「各々にとって最適な生き方ができること」が真の進化ではないのか。

「技術力で成り立つ、ずごい日本」の限界はとうに見えていたものである。
近い将来、技術を基盤にした日本を代表するような企業が霧散するかもしれない。その時が、資本主義終息のターニングポイントにもなり得るのではないかと危惧しつつ、長々と書いてしまったが、資本主義の終了にはワクワクしているのだ。「生きるために必死」にならなくて良い世界は魅力的である。

ただ、価値主義というものには違和感を覚えざるを得ない。
私の数少ない知見ではあるが、ごく一部の超人を除いて価値のある人などいない。
この表現では誤解を招きそうなので正しく言い換えると、己の価値を考え・誇示し続けなければならない世界は、資本主義よりも苦しくはなかろうか。皆、己の価値など考えずに生きたくはないだろうか?ということである。

「何の価値も、超人的な能力も、ずば抜けた才能もない、ごくごく平凡な人が、生き生きと過ごせること」
それが、”ゆたか”ということではないかと、声を大にして言い続けたい。

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そして、そんな世界にするために今私にできることは、言葉を重ねることしかないと思い、考えることと書くことをけして止めないと決意を新たにした次第である。

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