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ウクライナ平和の鐘 091 聖と俗

https://youtu.be/ZleE4Emsg2g

■2022(令和4)年6月26日 091 聖と俗
(動画の3:01~8:05)

本日の「平和の鐘 鳴鐘の輪」。僧侶は法を語り、祈ります。戦争という究極の暴力を直接的に停める力はありませんが、人の魂を導く言葉と祈りは、社会の底流で大切な役割を果たします。

合掌

 仏教の僧侶のことを「出家者」といいます。家を出ると書きます。

 これはもともと古代インドの文化に由来するものです。インドでは若い頃は様々なことを学び、大人になってからは社会の中で生産活動・経済活動を行い家族を養い社会貢献する中堅の時代があります。それが終わると家庭や生産活動から引退をして、人が幸せに生きる方法を探求する宗教修行に入る段階があるといいます。

 このように俗生活から離れることを出家というわけです。つまり、社会の中で生活をする俗なるものと、宗教修行という聖なるものの間に分断があると捉えて、俗生活を離れて聖なる世界を生きること。そのような移行が出家ということの本来の意味でした。

 家を出るということは、生産活動をしないで宗教修行をするということです。生産活動をせずにどうやって食べていくのか。俗世の人たちからお布施をいただいて、生かされていくということです。

 古代インドでは宗教修行者は、人間の魂を導くための尊い修行をしている人として尊ばれていました。だから出家者が托鉢に回ると「お坊様これをどうぞお召し上がりください」と、その日に家で作っていた料理など差し上げる。お坊さんは「ありがとうございます」といただいて、それで身を養い、宗教修行する。つまり社会全体で宗教修行者を尊ぶ意識があったからこそ、俗世間と聖なる出家の生活が同時に成り立っていたわけです。

 けれども俗生活を離れるということは、逆にいえば、聖なる生活をしている者は俗生活に関わらないということでもあります。お釈迦さまは釈迦族という一族の王族に生まれました。つまりお釈迦様も俗生活のコミュニティに属していたわけです。釈迦族はお釈迦さまの存命中に他国に攻め滅ぼされました。お釈迦様はすでに俗生活を離れて宗教者として生きていらっしゃいましたから、釈迦族を守って戦うことはしなかったわけです。

 ウクライナの戦争が始まって四カ月以上が経過しました。現地では今もなお凄惨な戦闘が続いています。

 遠くこの安全な日本の片隅から、毎日このように仏様の言葉を紡ぐことに、果たして意味があるのか。そう疑問を感じる方もいらっしゃるでしょう。残念ながら田舎町の小堂から私が言葉を発しても、戦争の現場で何かを直接解決する力はありません。

 しかし宗教者は、俗なるものを離れる代わりに聖なるもの、私たちの魂の問題に関わって生きています。戦争の中で見失いがちなもの、しかしそれを失ってはならないものを、聖なるものの視点から考え、祈りの言葉を伝える。それが今の私にできる全てです。そしてそのことは、巡り巡って大きな流れの中で、必ず戦争が終わり平和復興に至る時に役立つ筈だとも思っています。

再拝

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