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213.教祖伝逸話篇に載っていない教祖の逸話「おつとめの手振りには変更された個所があった」



はじめに


 みちのだい33号に「古老より聞いたはなし」として、当時の婦人さんが自分の祖父母から聞かせて頂いたお話が沢山載っていました。
 まだ稿本天理教教祖伝(以下逸話篇)が発行される前ですので、逸話篇に載っているお話が沢山出てきます。
 その中に、逸話篇には載っていない教祖の逸話がいくつも出てきますので、何回かに分けて紹介したいと思います。
(4日間連続更新の4本目です)

おつとめの手振りには、変更された個所があった


村田すまより
明治十一年の夏のこと、おやしきでは警察の干渉が厳しく、神楽勤めのお稽古などはとても出来なかったのであります。そこで前栽の村田の家で、かくれて神楽勤めの稽古をさせて貰うて居たことが御座います。その時の先生は仲田佐右衛門先生で、稽古人は松尾市兵衛様、山本利三郎様、村田長平、幸助、かじ、すまの6人でありました。
 其の手ならい中に、一下り目の七ッの手を中田佐右衛門先生が振り上げようをなされましたら、俄かに佐右衛門先生がエライ腹痛を起こされたのであります。そこで直ぐ稽古をやめられまして、お屋敷へ教祖に伺いに帰られましたら、教祖には、
「一下り目の七ッ」
 と仰せになって、直ぐ教祖御自らお手を御振り下さった。其の御手が今日のお手であります。それまでは一下り目の七ッは、四ッのお手と同じお手であったのでありますが、此の時にこのお手に御改めになったのである。と聞かして頂いて居ります。このようにお神楽勤めを習わして頂くにしても、かくれ、しのんで而も真剣におけいこされたのであります。
「みちのだい業書 第二集 村田すま」
「仲田」と「中田」や、「稽古」と「けいこ」等が混在しているのは原文通りに載せたためです。


明治11年に何があったの?


明治15年のかんろだい没収後に、おつとめの地歌が変更になったことは有名な話ですが、明治11年に第五節の手振り(一下り目の七ッ)が変更されていたことは知りませんでした。

それまでは一下り目の七ッは、四ッのお手と同じお手であったのでありますが、此の時にこのお手に御改めになったのである。

とあります。

一下り目の四ッと七ッを比較すると

四ッ よのなか
七ッ なにかにつくりとるなら

このようにお歌の長さが全然違います。

単純に考えれば、明治11年以前は、七ツ「なにかにつくりとるなら」を歌っている最中は、四ッ「よのなか」と同じ「いさみの手振り」をずっと行っていたという事でしょうか?
もしくは、七ッ「なにかに」の部分だけが「いさみの手振り」だったという事も考えられます。

このあたりは想像するしかありません。

明治15年の地唄の変更は、警察にかんろだいを没収されたことが契機になったとされています。
では明治11年に、手振りが変更になるようなきっかけがあったのか、ちょっと調べてみたいと思います。

天理教辞典の年表によると、明治11年には、
・はったい粉に代えて金平糖を御供とされる。
・官憲の取締り河内方面にも及ぶ。
・真明講結成

このように書いてあります。
(余談ですが、御供がはったい粉から金平糖に変更になったのは、明治11年とされていますが、逸話篇など様々なお話の中で、明治17年頃もまだはったい粉の御供を渡されていたお話が残っていますので、御供が完全に金平糖になったわけではないと予想してます)

どの出来事もいまいちピンと来ませんので、人間の行動がきっかけで手振りが変わったわけではないかもしれません。


手振りの意味は分からない


では、手振り自体にどのような意味が込められているのか、調べてみようとおもったのですが、「みかぐらうたの世界をたずねて」に
「手振りから一定の意味を引き出すのはむずかしい」
と書いてありました。

みかぐらうたの世界をたずねて 天理教道友社編
教祖は、「この歌は、理の歌やから、理に合わして踊るのや」とおおせられたという。しかし、手振りそのものは同じ手振りの型でも、違う意味に用いられている個所もあり、手振りから直接に一定の意味を引き出すのはむずかしい。いずれの解釈本も手振りについては個々の悟りによるところが多く見られる。

(ちなみに、今回取り上げた逸話も「みかぐらうたの世界をたずねて」の112pに閑話として挿入されていました。流石道友社ですね!)

このように、個々の悟りの部分が大きいため、手振りの意味から推測するのは難しそうです。

ですから、個人的に感じたことを書きます。

「よのなか」は「いさみの手振り」として腕を上下に動かすのに対して、
「なにかにつくりとるなら」は「撫でるような手振り」と「なげの手振り」を行いますが、腕を左右に動かします。

縦軸は時間、横軸は空間を表すという普遍的な感覚がありますので、腕を上下に動かすのは時間、左右に動かすのは空間に関する手振りだと仮定して考えてみます。

「よのなか」は大和言葉で「豊年万作」を表すそうです。
作物がよく実ってくることを表すのであれば、作物が成長していくことは時間の領域になるので、腕を上下に動かす「いさみの手振り」が相応しい様に感じます。

一方「なにかに」は「何も彼も」と訳されるのが一般的です。
「何も彼も」は、この世界全てのものを対象としており、空間の領域になるので、腕を左右に振る手振りが相応しい様に感じます。


個人的な考察


大きな節もなく、現在の手振りが相応しく感じるのであれば、何故教祖は「わざわざ手振りを変更する」という方法を取ったのでしょうか。

これは完全に僕の妄想ですが、僕は仲田儀三郎氏が一下目の七ツの手振りを間違えて覚えていたのではないかと予想しています。

十二下りの地歌と手振りを完璧に覚えるのはかなり大変です。

ですから、仲田儀三郎氏が一下目の七ツの手振りを間違えて覚えており、その間違えた手振りを人々に教えていたため、教祖はその間違いを正すために仲田儀三郎氏の身上に知らして、改めて手振りを教えられたのではないか。という仮説です。

人々からすれば、手振りが変更されたように見えるので、

それまでは一下り目の七ッは、四ッのお手と同じお手であったのでありますが、此の時にこのお手に御改めになったのである。

このように思いますが、教祖からすれば、正しい手振りに戻しただけというのは、十分考えられると思います。

これについても時間が無く、まだ調べられていないので、詳しい方が居ましたら、是非教えて下さい。


おまけタイム


どーも!墓標に興奮する男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

今日は本部のお墓地清掃ひのきしんをしてきました。

普段は入ることの出来ない結界内も掃除するのですが、今回僕は初代真柱様のお墓を清掃させていただきました。

ちょっと前に「稿本中山眞之助伝」を読み終わったところでしたので、めちゃくちゃ興奮して、勇みに勇んで掃除をさせていただきました。

またすぐ近くに先人のお墓も沢山あるのですが、その墓石に掘られている名前やお墓の位置関係を見ただけで、よだれが止まらなかったです。ε-(´∀`; )

昨年も同じひのきしんをしたのですが、その時は全く興奮しなかったので、僕はこの一年の間にかなりの変態になってしまったのかもしれません。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!


サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!