248.かしもの・かりものについての一考察 おふでさき第3号28の解釈について


はじめに



そうなんです。



タイトルでお察しの通り、今回はバチバチ教理の話しを書きます。


バチバチ教理の話しですが、結構面白いと(個人的に)思ってます。
(教理の話しは面白くないってことか(; ・`д・´) )


第3号28のお歌の解釈


まず、今回主題となる「第3号28」のおうた

人のもの かりたるならば りかいるで
はやくへんさい れゑをゆうなり 3-28

このお歌の解釈は、「おふでさき注釈」には載っておらず、多くの人によって様々な解釈がなされています。
(いくつか解釈をこのnoteの最後に掲載しています)


主な解釈の内容は。

・お礼の重要性を説かれている。(物を借りたらお礼をする)
・かしもの・かりものの教理に関わる。
・(
借りた物を返さなかった史実があった可能性も)

以上となっていますが、
「お礼の大切さ」
を、このお歌で説かれていると考えるのが、
一番ポピュラーな解釈だと思います。


しかし、私はこの3号28のお歌を、
「お礼が大切と言ってるお歌じゃない」
と思ったんです。

そう考えた理由を、これから書いていきたいと思います。


前提知識


おふでさき外冊の第三号には、お歌の右側に日付が記載されています。

十月三日 5~6
十日   7~14
十二日  15~18
十五日  19~27
十六日  28~41
十八日  42~47
参照:おふでさきを学習する 安井幹夫

このように28~41までのお歌は、「十六日」と日付が記載されていますので、一つのまとまりとして考えられそうです。


28のお歌に始まり

人のもの かりたるならば りかいるで
はやくへんさい れゑをゆうなり 3-28

40、41のお歌に終わる

たん〳〵と なに事にても このよふわ
神のからだや しやんしてみよ 3-40

にんけんハ みな〳〵神のかしものや
なんとをもふて つこているやら 3-41

お歌の内容から考えても、3号28~41までのお歌全体を通して、「かしもの・かりもの」に関する話が書かれているのではないかと思いました。



「人のもの」に感じる違和感


天理教の世界観では、人間のものは「心だけ」です。

全てのものは神様の身体であり、人間は神様の一部である身体を借りて、この世で生活しています。
この事は、40、41のお歌でもしっかり述べられています。

しかし、そうであるにも関わらず、28のお歌の出だしでは
「人のもの」
と出てきます。

天理教の世界観では、この世に人のものは「心」以外に一切なく、全ては神様からお借りし、与えられているにも関わらずです。

28のお歌の出だしが、40、41のお歌と矛盾していると考えた時、どうやら28のお歌は、天の理が書かれているのではなく、
「人間世界の常識」
が書かれているのだと考えられます。

実際に従来の解釈でも、28のお歌は人間世界の道理として解釈されているものがほとんどです。

しかし、
ここで考えなくてはいけない事は、28に書かれてる「人間世界の常識」が

「=天の理」 or 「≠天の理」

どちらなのか、まだ28のお歌だけでは分からないという事です。

例えば、
「人が好くから神も好く」
のように、
「人間もそうだから神様もそうなんだよ」
となる場合、つまり
人間の心(常識)=神様の心(天の理)
になるパターンと、

「真心の御供(稿本天理教教祖伝逸話篇7)」

に出てくるように、
「人間から見たら良いと思って、神様から見たら良くない」
という場合、つまり
人間の心(常識)≠神様の心(天の理)
になるパターン

どちらのパターンもあり得ます。

しかし、従来の28のお歌の一般的な解釈が
人間の心(常識)=神様の心(天の理)
となっていることは、個人的にかなり気になりました。


28以降のお歌


それでは28以降のお歌をみていきたいと思います。

子のよなき をもふ心ハ ちがうでな
こがなくでな 神のくときや 3-29

はや〳〵と 神がしらして やるほどに
いかな事でも しかときゝわけ 3-30

をや〳〵の 心ちがいの ないよふに
はやくしやんを するがよいぞや 3-31

この3首では、とにかく
「心得違いに気づきなさい」
という事が述べられています。

※子の夜泣きに関しては、おさしづや論文で色々と述べられていますが、今回は触れません。

そして、32のお歌で

しんぢつに 人をたすける 心なら
神のくときハ なにもないぞや 3-32 

真実に人を救ける心になったら、
神の「心得違いに気づきなさい」
という口説きは一切無くなる。

このように書かれています。


では、「心得違い」って具体的にはなんなのでしょうか?

次のお歌に進むと

めへ〳〵に いまさえよくば よき事と
をもう心は みな違うでな 3-33

このお歌にあるように
「今さえよければ良いと思う心は全て間違っている」
と、かなり強い表現で書かれています。

これが「心得違い」の具体的な答えです。


そして続けて、
「今さえよければそれで良い」という心使いの行く末が2首に渡って書かれています。

てがけから いかなをふみち とふりても
すゑのほそみち みゑてないから 3-34

にんけんハ あざないもので あるからに
すゑのみちすじ さらにわからん 3-35

「今さえよければそれで良い」という心使いは、
「大きい道から細い道になる」
ということが述べられています。

対して「人を救ける心」になるとどのような道を通る事になるかが、次の2首に書かれています。

いまの事 なにもゆうでハ ないほどに
さきのをふくハん みちみへるで 3-36

いまのみち いかなみちでも なけくなよ
さきのほんみち たのしゆでいよ 3-37

「今の道は厳しくても、将来は往還道・本道が見えてくる」
という事が述べられています。


本題


次が本題です。

私は次に出てくる2首(特に39のお歌)が28のお歌に深く関わっていると考えています。

しんぢつに たすけ一ぢよの 心なら
なにゆハいでも しかとうけとる 3-38

口さきの ついしょはかりハ いらんもの
しんの心に まことあるなら 3-39

「口先のついしょ」
というのが、人間世界の常識で、
「人の物を借りたら早く返済してお礼を言う」
という事を指していると思えたんです。


なぜそう思えたのか説明します。


人間同士の貸し借りの場合、利息を払い、早く返済して、お礼をすればそれで終わりです。

お礼も形さえ整っていれば、別に心がこもっていなくても問題ありません。

それは、貸す側の目的が
「利息を貰う事で」あり、
「お礼を言って貰う事」ではないからです。

銀行がお金を貸すのは、利息で儲けるためです。
家主が家を貸すのは、賃料で儲けるためです。
TSUTAYAがDVDを貸すのは、レンタル料で儲けるためです。

しかし、神様が人間に身体をお貸しする理由は、儲けるためではありません。


では、神様が人間に身体を貸す理由はなんなのでしょうか?

それは
「人間が陽気ぐらしするのを見て共に楽しみたい」
この目的のために、神様は身体を貸してくださっています。

その目的を果たすための具体的な状態が、「32」と「38」のお歌に書かれている。

「真実に人を救ける心」
「真実に救け一条の心」

この心になることです。

そして、
「真実に人を救ける心」
この心になる事がイコール
「神様にとっての利息を払う事」
このようになるのだと思います。

「口先のついしょばかりはいらない」
と言われているのは、神様にとってお礼を言われることが目的ではないからです。


まとめ


以上の事から、

人のもの かりたるならば りかいるで
はやくへんさい れゑをゆうなり 3-28

このお歌の解釈は、お礼をすることが大切だと言われているのではなく。

人間同士の貸し借りの道理(ルール)
「28のお歌」と
神様と人間の貸し借りの道理(ルール)
「29~41のお歌」を
対比するためのお歌だと考えられます。


人間同士の貸し借りの道理は、詳しく説明する必要が無いので28の1首しか書かれていません。

しかし、
神様と人間の貸し借りの道理(かしもの・かりものの教えの根本)は、人間が初めて聞く話なので、詳しく説く必要があったのだと思います。

そのため、
29~41と13首もかけて丁寧に説明されたていると考えた時、親心の深さに頭が下がるばかりです。


補足


ちなみに、芹澤茂氏のおふでさき通訳には、

この教理(神の話)は賃貸のたとえで表現されている。一般には二八にあったように、利も要るし、早く返済し、お礼も言わなければならない。親神は人間に、そのようなことを求められたのではなく、人をたすける心になることを求められたのである。

このように書いてありました。

今回のnoteに書いた事を思いついた時には
「やばい、凄い発見をしてしまったかもしれない」
と思ったのですが、芹澤先生がすでにこの事について書かれているのを見つけて、やはり自分の考えはまだまだで、先人の先生方は凄いと思った次第です。



おまけタイム


どーも!睡眠欲の秋を迎えている男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

今回、noteの更新が遅れてしまった理由は、


大変よく寝てしまったためなんです。


先週は子供と一緒に9時前に寝た日が3日間もありました。

すると、僕の生活リズムで考えると、1週間で起きている時間が10時間以上減りますので、そりゃnoteを書く時間がないというわけなんです。

ここから先、お布団の魔力がどんどん上がっていくので、その魔力に負けないよう頑張りたいと思います。

手抜きのおまけタイムですが、もう寝たいのでこれで終わりたいと思います。


最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!


おふでさき3号28の主な解釈


おふでさき講義 上田嘉成 
他人に物を借りたなら、利子をつけて、まことに有難うございました、とお礼を言って、早く返済するがよい。これは、人間が当然実行すべき社会道徳です。この人間社会で当然行なわれるべき事を、特に仰せになっておりますのは、後のお歌と関連していると考えられます。
おふでさき通訳 芹澤茂
「人の物借りたなら、利息も要るし。早く返済してお礼を言うの<が世界の道理>である。」
ここ(28)に貸借のたとえをもってお話しされた真意は、40-41に明らかとなるが、かしもの・かりものの教理を暗示している。
29-39には、当時教祖を慕って出て来た人に対して、これからのたすけ一条の道(救済の道)のために、たすけ一条の心になるようにお諭しをされる。この場合、二号一一にあったように、史実に関連してお話が始まるので、子供の夜泣きに悩んだ信者を話の糸口としている。
おふでさき拝読入門 矢持辰三
人間の社会では、他人から物を借りたならば、利子をつけて礼を言って、早く返済するのが常識というものである。それにしても、人間は親神から身体を借りているのであるが、この「身の内、神のかしものの理」に対する無頓着な通り方が、人の世の不幸をもたらしていることを知らねばならない(二八)
こう述べられ、嗣いで具体的に、現在の自分たちが不自由したり、難儀だと思っていることから、一度思案をしてみなさいと、子の夜泣きが一例として取り上げられています。
おふでさき講義 山本久仁夫
この場合の「理」は一般語であって、不変の法則、道路、道筋、道理という理だと思う。つまり、借り物は大切にし、一刻も早く返すときは何かの御礼をつける。これは物を借りた者の当然なすべきことである。まして、人間は親神様より創造され守護されて存在する者である。これを思案したならば、神に対する人間の在り方はおのずと明らかになる。貸し主の言葉を素直に心に治め、その思惑どおり身上を使わして頂く。これは人間が親神様になすべき当然の事柄である。
おふでさき通解 上田嘉太郎
この「り」というのは利息の利でしょうか。お礼の印ということでしょうね。人のものを借りた時には何かお礼をしなければならない。「はやくへんさい」早く返すとともに、感謝の意を表すようにせよ。
ふでのさきがな みへてきたなら 上田嘉世(あらきとうりょう連載中)
人の物を借りたならば、利子が要る。早く返済して、お礼をちゃんと言うのだよ。
このお歌については、身の内かりもののことを仰っているお歌だという解釈もあります。その場合には、返済というのは、身上を返すことではなく、身上を借りている利子を払う。すなわち、ひのきしんなどによって、その御礼を親神様にさせていただくという意味になるでしょう。そういう意味なのでしょうか、それとも実際に人の物を借りてなかなか返さなかったという史実があったのでしょうか。


サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!