書評:綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社、二〇一九年)

 この本の結論、すなわち、我々は「経済と差別というふたつの領域で平等を求める」「ポリティカル・コレクトネスを大義とした、古臭い左翼であり、新しい左翼でもある」と宣言すべきだという結論*1には異論はない。
 だが、私が思うのは、この本の内容に代表されるように、なぜ人は、差別の問題とその解消をひたすら訴えかけるような現在の反差別運動にひとつの行き詰まりを感じてしまうのか、ということである。小説でもテレビドラマでもよい。10年前、20年前、30年前のコンテンツを見てみるがいい。いかに現在の視点からは耐え難い差別表現が随所にみられることか。そしてそれらは現在、いかに解消されてきたことか。現在のバックラッシュが激しいとはいえ、昔からバックラッシュはあったのであって、今日がこれまで続いてきた反差別運動の最終地点だと主張する根拠はないだろう。
 とはいえ、現在の反差別運動がとりあえずぶち当たっている問題について、多少図式的ながら整理をして検討を加えてみるという作業自体に意味がないとは言わない。しかし、この本においては、その図式がまずい。綿野が反差別の問題を分析する上で根幹に置いている二項対立は、シティズンシップとアイデンティティの区別である。そしてそれは、公法学者カール・シュミットが論じた自由主義と民主主義の区別に対応しているという*2。しかし、この構想は思想史的には大いに疑わしいものがある。

 綿野のタネ本となっているのは、樋口陽一が訳した岩波文庫版の『現代議会主義の精神史的状況』(2015年)である。この本には付録として同じくシュミットの論文「議会主義と現代の大衆民主主義との対立」が収録されている。
 『現代議会主義の精神史的状況』が書かれたのは1923年であり、「議会主義と現代の大衆民主主義との対立」が書かれたのは1926年であるが、前者と後者の間の3年間に新たに付け加わった重要な概念こそが、いわゆる「政治的なもの」である。かの『政治的なものの概念』の初版が発表されたのは1927年だった。そして、シュミットの決定的な自由主義批判は、この「政治的なもの」の概念を生み出した思考と結びついている。つまり、自由主義では本質的に「政治的なもの」は生じえないということだ。それが生じうるのは、民主主義に基づくときなのだ。幾度となく引用されている自由主義の平等が「空虚な」な平等であるという一節は*3、自由主義では政治的な意味で平等な集団をつくりえないという意味であって、反差別運動のロジックとして自由主義を用いることはできないという意味と解釈するのは、誤読とはいわないがかなり無理があるだろう。
 ここで問題なのは、20年代のシュミットにとっての「政治的なもの」は、(国民)国家のほかには何もなかったということである。国家以外の集団が「政治的」な集団になりうるという発想は、1932年の第二版から登場する。しかしそのような政治的な「強度」を持つ集団が国家内に現れたとたん、その国家はもはや単一体ではありえなくなる。したがって、国内マイノリティを民主主義=政治的なもの=アイデンティティの集団とみなすのは、少なくともシュミットの視点からは問題となる。シュミットの図式において解釈するならば、国内のさまざまな利益集団は、国家=公に対する私的な集団でしかありえない。

 しかし、この本ではシュミット的な公と私の区別を欠いている(カール・シュミットが公法学者であることを無視しているといえる)。たとえば綿野は政治学者であるマーク・リラの主張を、アイデンティティに対してシティズンシップを要求する運動だと考えている。そしてそのような処方箋は、シティズンシップでは同質性が確保できない以上、不可能な試みだと考えている*4。
 だが、シュミット的に考えれば、「市民」概念に国家統合の求心力を持たせ、公共領域の再生をはかるリラの運動は、そもそも民主主義的国民の創造とみなすのが妥当ではないか。シュミット理解の不十分さとcitizenとnationの辞書的意味に引っ張られ、分析に失敗しているのではないだろうか。

 シュミットにこだわらずとも、シティズンシップとアイデンティティという綿野の図式に適合するような、自由主義と民主主義の対立を説く政治学者は、探せばほかにもいそうなものである。しかしよりによってシュミットを選んでしまったためか、この二項対立は思想的な緻密性を欠いたものになっている。二項対立である時点で確かにある程度の乱雑さに目をつぶらざるをえないのだが、この本の論じ方は許容不可能なほどに乱雑なのである。

 たとえば、綿野は第二章で『帝国の慰安婦』騒動を取り上げている。2019年に出版された本で、一貫して日本軍「慰安婦」問題ではなく、「従軍慰安婦」問題と書かれている時点で、この問題に対する著者の知見のレベルは理解できてしまうのだが*5、まあそれは置いておこう。問題なのは、綿野が「従軍慰安婦」も兵士も動員された被害者という視点によって、朴裕河が民族主義の対立を超えたシティズンシップの立場に立った和解を考えているのに対して、批判者はこの両者の絶対的敵対性というアイデンティティの立場に立っていたので、両者の相互理解に失敗した、といっていることである。
 だが、朴裕河を批判している者たちが一貫して主張していることは、日本軍「慰安婦」問題を戦時性暴力の問題ととらえたうえで、日本政府は法的な責任を取らなければいけない、ということなのである。ここのどこに民族対立が入り込む余地があるだろうか。「平和の少女像」の作者が「ベトナム・ピエタ」を製作したのに対して、日本政府は右翼とタッグを組み、戦時性暴力被害の象徴としての「平和の少女像」を世界各地から撤去させようとしている。そうした動きを批判してきたのも、『帝国の慰安婦』批判者たちである。
 日本軍「慰安婦」問題を、民族の対立だと解釈したがっているのは、朴裕河および彼女と密接につながっている「アジア女性基金」のグループのほうであろう。かれらは法的責任よりも道義的責任のほうが重いなる奇妙なロジックで、日本の国家としての責任を回避しようとしているのだ。
 そもそも、実証的にもほぼほぼインチキである、兵士と「慰安婦」の連帯なるDV夫もつらかったのよという昭和歌謡的な世界に、自由主義=個人の尊厳=シティズンシップ的な関係を求めることに無理があるのではないだろうか。綿野は自らが設定した二項対立に自縛され、そのため事実認識をゆがめてしまっているのではないだろうか。差別を差別として認識することは難しいと綿野も述べているが、まさにこの朴裕河を相対化したこの節こそが、著者が身をもって実践した、差別を差別として認識することは難しいという実例であろう。

 さらに、綿野は、しばき隊のようなカウンター反差別運動はシティズンシップの立場にたったためアイデンティティ・ポリティクスの立場から批判されたとまとめている*6。実際は、かれらが在特会よりはマシな右翼と組んだため、運動における場の安心が損なわれるという、綿野の理解ではシティズンシップの立場から批判されたのである。当事者の一人として言わせてもらえば、明らかな取材不足だろう。やはり全体的に、片方がアイデンティティなら、もう片方はシティズンシップ、その逆もしかりという思い込みがあるので、その図式に当てはまるようにすべてを解釈してしまっているのではないだろうか。

 また、綿野が指摘していないトピックとしては、いわゆる「表現の自由戦士」問題がある。「表現の自由」というキーワードは、法学的な通説への知識を欠いたうえで、主にオタクの中で広がっており、国会議員まで当選させている。「表現の自由戦士」が主張するのは、ある種のラディカルな自由主義である。彼らのロジックにおいては、個人の私的自由だけが問題であり、アイデンティティは単なる趣味の問題にすぎなくなる。在日コリアンとペドファイルは、個人のアイデンティティという点において「平等」なのである。公的な価値については、「正義」の押し付けだとして、徹底的に拒否する。つまり、綿野がいうところの「空虚な平等」の論理を前面的に振りかざして、彼らは差別を擁護するのだ。「表現の自由戦士」については、少なくともロジックにおいては、アイデンティティの論理の簒奪によるバックラッシュという綿野の図式は崩れるのである。

 最後に、この本でもうひとつ重要な論点である天皇制の問題について触れる。いかにリベラルな天皇であろうと、天皇制そのものが差別であるという指摘についてはその通りだと思う。しかし、自由主義と民主主義の調停者としてのリベラルな天皇という分析については、少なくともその議論はシュミットに全く関係がないので、名前を出さないほうがよいと思う。シュミットは君主主義者ではないし、自由主義によって分解しようとしていた国家の維持を国民によって選ばれたという権威に基づくライヒ大統領の調停に求めたとしても、それは例外状態において決断する権能をライヒ大統領が持っているからである。現在の天皇制を血統ではなく国民の喝采によって正統づけられるカリスマ支配だと解釈するとしても、シュミットの想定と綿野の想定にはかなり距離があるといえるだろう。

 『「差別はいけない」とみんないうけれど。』のカール・シュミット理解が不十分であること、またそれには目をつぶっても、この書物の根幹をなすシティズンシップとアイデンティティの二項対立自体が実情においても矛盾をきたしていることについて論評してきた。全体を通して読んだ印象では、この本の著者は、反差別運動それ自体にはたいして興味がないのではないかと感じた。しかし、英米系の学者の引用で固めているところに無理にシュミットなど用いても、軽さしか伝わらないので、もう少し言説分析を丁寧にやったほうがよかったのではないかと思う。

*1:三一四頁
*2:一八頁
*3:岩波文庫版では一四五頁
*4:六三頁
*5:PCにうるさい左翼の実践ですよ!綿野さん!
*6:十五頁

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藤崎剛人

ドイツ思想史/公法学
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