約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論

 (この文章は、2011年2月23日に書かれたものです)

 今、魔法少女―変身ヒロインとしての―概念は危機に晒されている。『魔法少女まどか☆マギカ』に群がるキモヲタとサブカル評論家たちは、魔法少女概念を蹂躙し、ずたずたに引き裂こうとしているのだ。それが最終回を迎える4月ごろには既に、この王国には荒れ果てた大地しか残されていないだろう。われわれは簒奪者たちの手から魔法少女概念を救出しなければならない。それも、正しい魔法少女概念を、である。そのためには、『まどか☆マギカ』の正しい批評が必要なのである。それは、政治的な批評でなければいけない。実証主義の良心は認めなければいけない。だが、啓蒙的な実証主義は、悪意に満ちた大衆の前では無力である。かといってわたしは、大衆向きにアレンジされた世俗的な神話体系のひとつであるところの、魔法少女概念の「偽史」を構築しようと欲するものでもない。それは自己欺瞞であり、批評のための批評にすぎない。重要なのは理念であり、理念に従属する批評が必要なのだ。魔法少女概念は、パースペクティヴによってではなく、理念によってのみ救済されるのである。
 本来、わたしはこの作業を、最終回の放映終了後に行おうと思っていた。しかし、情況の進展は予想以上のものだった。最終回まで待っていれば、そこにはもうぺんぺん草さえ生えていないかもしれない。そうなってしまえばもう手遅れである。多少の不都合や論の甘さには目をつぶって、この文章はなるべく早くかかれなければいけない、と判断した。ただし、理念そのものは『まどか☆マギカ』の今後の展開に関わらず普遍的なのであって、したがって、もしこの論考と『まどか☆マギカ』の結末に矛盾があったとしても、それはその結末のほうが間違っているのである。製作者は信用できないのである。たとえ理念に従った魔法少女概念こそが唯一正しいものだったとしても、世の中のヲタクたちに受け入れられるのは退廃した魔法少女概念のほうであり、製作者がそれに流されてしまうのはやむをえない。ただし、それは理念の堕落した形態であり、正しい結末からは逸脱したものだと判断されるのである。
 
 『まどか☆マギカ』を論じるにあたって、まず言っておかなければいけないのが、今まで放映されてきた中で明らかになりつつある魔法少女の設定を見て、この作品が新しい魔法少女概念を提示している、あるいは、今までの魔法少女概念にたいする「アンチ」魔法少女物語である、と判断するのは、愚かな過ちであるということである。なぜ、この物語には、異なる理念の、異なる背景の、複数の魔法少女がいるのか?魔法少女のバトルロワイヤルという相対主義的な観念に飛び込むのは早計である。では、なぜ主人公がいままで変身していないのか?それは、主人公こそが魔法少女だからである、つまり、真の魔法少女はまどかのみだからである。それに伴い、まどか以外の魔法少女はすべて失敗として描かれなければいけない。あらゆる物語において、主人公である三男は兄二人の失敗のあとに出発し、成功を手にするものなのである。世界の救済役がまどかに割り振られているのは自明である。救いのない設定は、まさにそれを救済するべきまどかを際立たせるための引き立て役にすぎない。
 つまり、今まで登場した魔法少女の設定や魔法少女たちの精神をいくら検討したところで、それは本質ではないのである。しかし、しばしばamamako氏によって擁護されるようなキモヲタたちの退廃した精神は、蛸壺屋的な鬱屈した魔法少女を好むので、まさにその引き立て役のほうこそが魔法少女概念の本質だと思い込むのである。愚かな不見識と言わなければならない。その設定に基づく魔法少女たちの悲惨が、いかにキモヲタたちの心に慰みを与え、また彼らにとって数少ないコミュニケーションのツールとして機能しようとも、それは最終的には当然のように克服されるべきものなのであって、そのときが訪れるやいなや、すべての魔法少女は救済されるとともに、まるでティプトリーの小説のごとく、かれらは取り残されるのである。
 愚かな人々は、『まどか☆マギカ』における契約概念の理不尽さを、この物語の本質として問題にしたがる。だが、契約概念は、最初から克服されるべきものとして存在しているにすぎない。そもそも魔法少女の契約が、暴力的に行われることは珍しいことではない。むしろ、契約概念一般が、暴力的なものを抜きにしては成立しえないのである。魔法少女概念において、その暴力は、しばしば運命とよばれる。運命が暴力の所有者であり、(しばしば誤って認識されているように)魔法少女の契約相手、たとえばお供―キュゥべえのような―がその所有者なのではない。お供はすべてを知っているようにみえて、運命が猛威を奮いだしたとたん、一瞬にして化けの皮がはがれ、その無能さを発揮する。クイーン・アースはナースエンジェルの真実に対して無力であり、奇跡に頼る以外残された道は無い。この意味でキュゥべえの残酷さはかれの隠された本性に属するものではなく、お供という役割の限界がそうさせているのであって、むしろ無能さの現われとして理解されるべきである。
 契約が暴力的運命と結びつくのは、それが世界を規定する法において定められたものだからである。契約の内容ははっきりしている。魔法少女は魔法少女となるかわりにある願いをかなえる(「奇跡」という名でよばれてはいるが、真の意味での奇跡ではない。それは、以下を読めばわかるであろう)。だが、一方でその全容は魔法少女たちに知らされてはいない。それはある意味で不当な契約に思える。しかし、あらゆる魔法少女は、まずは、この不当な契約を前提にして出現するのである。契約ということばが相応しくないとすれば、単に交換といってもよい。といってももちろん、それは普通の意味での交換ではない。象徴化された物語の中で、資本主義的な経済関係の基礎をなす神学的な根源が明るみに出る。彼女たちはいわば、罪と贖罪を交換するのである。
 魔法少女が存在しうるあらゆる世界には、その世界を規定する法がある。しかし、その法は不文律なものとして存在する。魔法少女は、何も知らぬままにその法を侵犯し、法の侵犯によって、罪が与えられる。つまり、魔法少女となるのである。魔法少女は罪を贖うための存在である。まったく知らなかった法だったとしても、それに違反したことによって、一方的に贖罪を負わされるのである。『まどか☆マギカ』の世界においては、魔法少女の罪は「願うこと」である。彼女達は「願い」という罪を犯したために、魔法少女になることでその罪を贖う。しかしその願いは願わずにはいられなかったものであって、それを単純に不運と呼ぶことはできない。むしろ罪と贖罪の交換を規定している法がそこにあったことが彼女達において決定的だったのであり、ゆえに、法的な意味においては、それは運命と呼ばれるのである。
 法的な意味においての運命はしかし、単に法を侵犯したことに対する処罰としてのみあるのではない。それは、魔法少女たちが法を侵犯するその都度、「契約」として、新たな法を打ち立てる。つまり、その時点における単なる瞬間的な罰ではなく、罪を与え贖罪を担わせることによって、その交換関係において成立する権力構造の中に魔法少女を引きずり込むのである。賢明な読者は既に気づいているだろうが、この暴力的な運命こそ、ベンヤミンが「神話的暴力」と呼んだものに他ならない。

原像的な形態おける神話的な暴力は、神々のたんなる顕現にほかならない。神々が抱く目的の手段ではなく、神々の意志の顕現でもほとんどなく、まずもって神々の存在の顕現なのである。ニオベー伝説は、この顕現の傑出した一例を含んでいる。たしかに、アポローンとアルテミスの行為は処罰にすぎない、と見えるかもしれない。がしかし、この行為の暴力は、なんらかの現行の法を犯したことに対する処罰であるというよりもずっと、ひとつの法を打ち立てるものなのだ。ニオベーの高慢が、宿命を、己れの身のうえに呼び出す。それは、この高慢が法に違反するからではなく、運命をある闘争へと挑発するから、つまり、その闘争においては運命が必ず勝利し、しかも、勝利したとなるとそこにひとつの法を出現させずにはいない、そのような闘争へと挑発するからである。(・・・)この暴力は、本来、破壊的ではない。この暴力は、ニオベーの子供らに血まみれの死をもたらすにもかかわらず、母(ニオベー)の生命には手を下さない。母の生命を、この暴力は、子供らの死によって――ほかでもなくまさに――以前よりもさらに罪を負ったものとなし、沈黙したまま永遠に罪をになうものとして、また人間と神々のあいだの境界石として、あとに残すのだ。
(W・ベンヤミン著、浅井健次郎訳「暴力批判論」『ドイツ悲劇の根源(下)』ちくま学芸文庫p264-265)

『まどか☆マギカ』の魔法少女たちを魔法少女となし、その使命(魔女との戦い)に追い立てる暴力は、キュゥべえの暴力ではなく、まさにこの運命の神話的暴力である。ソウル・ジェムは彼女達にとって、象徴的な境界石なのだ。その境界石こそが、契約の証であり、つまり贖罪の証である。そしてまたその石こそが、罪によって暴力的に与えられた世界の新しい解釈のしかたを、新たな法として保証するのである。さやかは巴マミの死後、別の世界にいるようだというまどかに向かって、世界はとっくの昔に変わっていたのだと主張する。外部によって挿入された世界の主観的な変容を、自身が内なる法として遡及的に受け入れることによって、魔法少女の契約は成立する。さやかが魔法少女となるのは、キュゥべえとの直接の契約においてではなく、その瞬間においてなのだ。
 しかし、世界が既に変容したものとして認識されるとき、魔法少女が魔女との戦いにおいて守ろうとしている世界は、いったい何なのだろうか?魔法少女の守るべき日常が、とっくの昔に変容していたのだとすれば、魔法少女はもはや守るべきもののなかにはいないはずである。だが、世界の変容を認識することが魔法少女になる条件であるとすれば、彼女達は守るべきものを守るために、守るべきものから離れなければならないのだ。逆に言えば、魔法少女は守るべきものから離れることによって、そのことのみによってしか、守るべきものを守れない。このことは、法を擁護するためには法を停止しなければいけないというあの例外状態のアポリアに重なる。
 まどかやさやかたちにとって、それまでの世界は平和で秩序にそったものとして見えていた。だが、魔法少女と魔女の存在を知ったとき、その世界は耐えず魔女と「奇跡」の挿入において脅かされうる、アノミーな空間として一変する。たが、この二つは相互に独立した世界ではない。前者の世界を成立させているのは後者によってである。後者がどのようなものとして前者に介入するかによって、前者の平和は保たれたり、保たれなかったりするのだ。魔法少女は後者の世界に属するものとして、アノミーな力をふるう。しかしそれは前者の世界を守るために、である。魔法少女は秩序とアノミーの綱引きのなかで、その境界線上にあるどちらともいえない空間――例外状態において戦う。
 だが、われわれはその境界線が、運命の神話的暴力によって引かれたものであることを忘れてはならない。例外状態とは法の停止であるとともに法の創出でもあるというあのテーゼに従えば、世界の自明性の喪失はそれまでの法に対して破壊的であるようにみえるが、それと同時にそれは、世界の喪失という新たな法を打ち立てるのである。革命的な運動として出発したファシズムがもっとも反動的な体制となったのはまさにこうした理由からだし、だからこそそれはニーチェやハイデガーの思想と接続しえたのである。もちろんライトノベルで流行の異能物というやつは、その多くはあまりにも退廃的であるので、世界喪失をまさに自明なものとして描き、そのなかで行われるサバイバルをロマン主義的な快楽として消費する。しかし、われわれはこのような性格を魔法少女物に持ち込んではならない。魔法少女の理念は本来、そのような境界線のなかでの戦い、つまり罪と贖罪の交換関係の中での戦いに対して、それ自体を根源的に破壊するものなはずだからだ。
 『まどか☆マギカ』に今まで登場した魔法少女たちは、境界線の中から脱することができてはいない。さやかは境界石がもつ神話的暴力に屈し運命を受け入れてしまったからこそ、あのように神話的暴力の装置と化す以外にはなかったのであるが、杏子はその暴力に気づき始めている。だが、この逃れがたい運命の暴力から脱しうるかに見えた巴マミは、まさにそのことの罰として死ぬのである。マミの死が二人、とくにさやかに与えた影響が絶大なのは偶然ではなく、その死は彼女達にたいして運命の力を見せるける格好の道具であったのだ。さらに、そのような運命の力に自覚的であるほむらはより狡猾に立ち回ろうとしているが、おそらくほむらの人なる力では、運命に打ち勝つことはできない。運命の暴力に勝ちうるのは努力ではなく才能であり、無資格なものはそれを行いえない。
 もちろん、まどかこそが有資格者なのである。その兆候は確かにある。彼女は起きている出来事にとまどい、また無力であるが、根源のところにおいて、けして世界に穿たれた境界線をみとめようとしない。そのようなまどかが魔法少女となったとき、真の奇跡が生じるのであり、真の救済が行われるのである。運命に与えられた罪を贖罪するために振るわれる暴力ではなく、その罪と贖罪の交換関係そのものを破壊する暴力が―つまり神的な暴力が―振るわれる。理念的な魔法少女とは例外なくそのような純粋暴力の所有者であり、少なくとも最終回までにはその力を行使してきた。もちろん『まどか☆マギカ』においても、まどかは最終回までにはそのような救済を行うはずである。その瞬間はじめて、今まで登場してきた魔法少女たちすべてが救済されるのである。
 
 したがって、『まどか☆マギカ』は(少なくとも現時点では)、制作者の悪意―それ自体は糾弾すべきものである―にも関わらず、今までの魔法少女物からはまったく逸脱していない。神的暴力を振るうどころか自らが神話的暴力の大元締めとなった、あの堕落した魔法少女概念のひとつである『リリカルなのは』とは同じカテゴリーには所属されないのだ。『リリカルなのは』は魔法少女の理念をまったく理解していないキモヲタたちの保守革命*1によって犠牲となったのであるが、われわれは『まどか☆マギカ』をそのような者の手から守る必要がある。そのためにも、この魔法少女の理念を、今あらためて認識しなければいけないのである。


*1:この「保守革命」という語用については、保守革命はモダニズムの範疇(たとえばJ・ハーフが「反動的モダニズム」と呼んだような)にあるがキモヲタはプレモダンの範疇にあるのではないか?という批判を受けた。この件については継続的に検討をしていきたい(2013年)。

続編


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