映画『デトロイト』あるいは人種妄想をめぐるグレートゲーム

(この文章は、2018年2月12日に書かれたものです)

 見る前に知人から胸糞映画だと言われて覚悟していたのだが、実際、胸がスッとするようなカタルシスは最後まで訪れず(史実に沿っているのだから仕方がないが)、見た後も頭痛がしてしばらく落ち込んだままだった。
 この映画は黒人差別を扱ったものだが、その描き方については様々な観点から批判がなされている。たとえば古谷有希子は、この映画は公民権運動の一部としてのデトロイト暴動の背景や意味について触れることなく、ただその暴力性にスポットを当てており、黒人に対してネガティヴなイメージを喚起する差別助長映画であると喝破している*1。また、Shenequa Goldingも、この映画は「ホラー映画」の演出を用いてしまったことで、それぞれの人物の個性が埋没してしまったことを指摘する*2。やはりここでも問題になっているのは、センセーショナルな暴力にスポットが当たっているため、本質的な問題であるところの人種差別の構造について描ききれてないということである。
 こうした批判について、私は異論を述べるつもりはない。私個人は暴動や略奪をそれ自体悪だと考えていないので、この映画から黒人に対するいかなるネガティヴさも読み取ることはできなかったが、おそらく一般世間ではそうではないわけであり、当事者にしてみればセンシティヴな問題になるのだろう。また、特に日本のような人種差別の背景についてほとんどの人間が何の前提知識ももたない国で、いきなりこの映画に触れた場合、あまり建設的ではない読み取り方をされるのではないか、という懸念はある。
 ただし、たとえ現実の運動に対して直接的に寄与するところが少ないとしても、一方で私は、差別問題をホラーの技法で扱ったことによって、人種差別妄想のある種の本質を描くことに成功していると思う(意図的かどうかについては留保する)。私はそのことについては積極的な意義を見出したい。もちろん、差別を一部の特殊な、妄想に取りつかれた病理的な人間のせいにしてはいけない。しかし差別の妄想的性格を解題することは、この世界の人種扇動を押さえ込み、人々の理性を保つための手段として、けして無意味ではあるまい。
 
 クトゥルフ神話で有名なホラー作家ラヴクラフトが、一方でスラヴ系やセム系、アフリカ系に対する人種偏見の持ち主だったことは残された書簡などから分かっているが、ラヴクラフトの生前に唯一出版されたことで知られる代表作「インスマウスの影」は、彼の人種的な偏見をホラーに転嫁させたものであるという議論がある*3。インスマウスの住民は、何か得体のしれない種族との「混血種」であり、何やら訳の分からない言葉で訳の分からない神々を崇拝し、静謐な漁村を乗っ取り、恐るべき陰謀を企てている。このような「深きもの」についての叙述は、1930年代のアメリカにおける非白人系移民に対する妄想とパラレルに考えることもできるだろう。彼らはのちに官憲の手によって文字通り一掃される。彼らが誰にも知られないように超法規的にひっそりと処分されていくさまは、ナチスのホロコーストをも思い起こさせるものだ。
 Jägerも指摘している通りこの話には最後にどんでん返しがあるので、単なる人種偏見のアレゴリーには還元できないにせよ、この物語の舞台設定がラヴクラフトの人種的妄想と分かちがたく密接しているという解釈は、けして否定できるものではないだろう。
 得体の知れない奴らがこの町にやってきてわれわれの生活を脅かしている、という人種的妄想は、ホラーの構造と相性が良い。しかしその妄想がいったん妄想だと明らかになったとき、その構図は逆転する。そこにいるのは、もはや得体の知れない者の陰謀によって生活を脅かされる被害者ではない。ただただ狂ったようにマイノリティを痛めつけ続けているマジョリティにすぎない。だが、その構造が逆転したとしても、ホラーの構造そのものは消えることは無い。世界を病理的に解釈する人種妄想は、それがいったんマジョリティの間に広まるやいなや、世界そのものを病理的・妄想的な舞台に変えてしまう。したがって、人種妄想に加担しないもの・あるいはその妄想から奇跡的に正気に戻った者に対しては、今度はより絶望的な、覚めない悪夢が待ち受けているにすぎないのだ。
 
 映画『デトロイト』におけるホテルの悲劇は、一発の銃声をめぐる妄想から始まる。その銃声はオモチャの銃によるもので、ホテルに本物の銃が無いことを観客は知っている。白人の警官たちは、ありもしない銃のありかを吐かせるために、黒人や「黒人と寝た」白人の女性たちを拷問する。当時のデトロイトには実際に狙撃者がいて、またリーダー格の警官は警察上層部でさえ手を焼くほどの根っからの人種主義者である。
 しかしここで問題になるのは、銃に対する妄想・デトロイト暴動の最中という背景・彼らの人種的偏見のどれが、ホテルにおける拷問のプライマリーな動機であったか、ではない。そのすべては密接に絡み合って、区別はつかない。白人警官は、射殺した黒人がナイフを持っていたという証拠を捏造するなど、一見冷静に黒人たちをハメようとしているようにみえる。だが彼は、ありもしない銃に対する妄想にも固執している。けして「遊び」で暴力を振るっているわけではない。かれらは根っからの警察で、銃が見つからないことに対するかれらの議論は真剣そのものである。その妄想はけして、黒人を痛めつけるための口実にすぎない、とはいえない。
 問題は、銃が見つからないということである。妄想の原因となった件のオモチャの銃は、映画の中ではけして発見されることはない。このあたり史実ではどうだったのかは知らないが、映画では妄想の原因が見つからないために、彼らはずっと銃=テロリストの妄想のうちに囚われ続けることになっている。
 さて、観客は、本物の銃がどこにもないことを知っている。しかしそのことは、いったいどのような効果があるのだろうか?拷問を受ける被害者たちの悲惨さを、より強める効果を持つのだろうか?もし銃声が本物だった場合、あるいは、銃が存在するのかしないのか観客も不可知だった場合、観客はどう考えるのだろうか?警官たちの行為に、多少なりとも正当性が出てくるのだろうか?いずれにせよ、結局最後まで銃は見つからないのである。オモチャだろうが本物だろうが、それが見つからないのであれば、あの場所で行われる行為に対して、何一つ影響を与えてはいなかっただろう。すなわち、銃に対する妄想によって暴力が振るわれることには変わりないのだ。
 しかし、もし本物の銃が撃たれたのであれば、警官の行為もある程度は仕方がない。安全を守るためなのだから――少しでもそう思ってしまった瞬間、われわれは人種的妄想に憑りつかれ始めるのだ。その思考は、まさに武器と権力を振りかざして無抵抗な黒人を殴りつけていた白人警官の思考そのものだからである(どこが違うというのだろうか?)。銃声はしたが銃は存在しない。あるのは妄想だけなのである。
 私は、デトロイト暴動およびアメリカの黒人差別問題を扱った映画としての『デトロイト』については、評価を保留したい。しかし、あのホテルの一夜については、人種妄想(警察がいかにそうした妄想に憑りつかれやすいか、ということも重要である)と暴力の関係を扱ったアレゴリーとしては、非常に示唆に富む映画だったと思う。冷静な妄想などというものはない。妄想と暴力との間には、境界線は無いのだ。
 
 大阪にスリーパー・セルなる「北朝鮮」の工作員が潜んでいて、金正恩が死んだら行動を起こす――そのような内容を、ある国際政治学者が公共の電波を使って発信したそうだ*4。彼女の頭の中には、あの白人警官と同じ、見つからない銃があるのだろう。銃が存在するかしないかは問題ではない。どのみちその銃は発見されることはなく、ただ暴力が行われるのだ。
 大阪には、「われわれ」の存在を脅かす「敵」が潜んでいる――「かれら」は、インスマウスの住民のように、やがて処理されるだろう。妄想と暴力の距離はない。差別扇動は良くないが――と前置きをしながら、「北朝鮮」の工作員の存在の蓋然性についてあれこれ語る者も同じだ。彼らはあの警官と同様、妄想を口にしているのに、自分自身はそのことに気づいていない。「安全のため」という理由をかざせば、自分たちは正気だと思っているのである(もちろん、あの警官たちとまったく同じように。もっと言えば、そのように考えている「国民」が多いこと自体がホラーだ!)。そして最後には、かの国際政治学者とともに、「かれら」の焼き討ちにまわるだろう。妄想の帳尻を合わせるためのナイフは、そこら中に転がっている。それに、仮に告発されたとしても、陪審員が無罪にしてくれるに違いない。日本国民という陪審員が。

*1:「映画『デトロイト』が「白人視点で黒人を描く」ことの問題点」https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyayukiko/20180207-00081338/
*2:"‘DETROIT’ Gives Very Little To The Black Community To Hold On To" https://www.vibe.com/2017/07/detroit-film-review/
*3:Lorenz Jäger, "Amerikanischer Holocaust: H. P. Lovecraft", Das Hakenkreuz Zeichen im Weltbürgerkrieg, Karolinger Verlag, 2006, S.161ff.
*4:「三浦瑠麗氏、ワイドナショーでの発言に批判殺到 三浦氏は「うがった見方」と反論」http://www.huffingtonpost.jp/2018/02/12/ruri-miura_a_23359021/?utm_hp_ref=jp-homepage

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