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つくるのはたのしい、そしておわりがない

手の内を明かすというのは、よっぽど自信があるか、恥をかき捨て「知」を求める勇気があるかのどちらかだ。

びっくりされるかもしれないが、先日、同い年のパタンナーに自分の型紙を見てもらった。

6年ブランドを続けてきてはじめてのことだったので、かなり緊張した。

縫うことに関しては独学とはいえそこそこ自信を持っていて、隠すものはないと思っている。なんなら教えたりもしてきた。

ただ、ことパターンに関しては、その独学の限界というか、もっともっと自由に速く引きたいという思いが強くなっていた。

「知っている」ことに対価が払われる仕事においては、当然ながら「知らない」は遅れを取ることを意味する。「教えて」の一言で相手との立場が逆転することだってあり得る。

知人が月に一回更新しているコラムに出てきた文。
思い切って「教えてほしい」と連絡する直前の自分にも「知らない」自分を見られることで相手はどんな反応をするだろう、信頼を失うかもしれないという怖さがあったとこを思い出した。

でも、(心の中で)頭を下げて彼に教えを乞うたのは、一度の恥も後の力になると信じていたから。
そして、その力が作ることの楽しさを何倍にも大きくしてくれると確信していたから。

そんな僕の気持ちを察してくれたのか、彼はその時間を「情報交換」と言ってくれた。(教えてもらうばかりで「交換」なんて言えたもんじゃない)

話していた数時間は、あっという間と思えるほど充実していた。
時間を言い訳に試せていなかったことに対する彼からの意見。
ここは共通認識なんだなという確認。
それぞれの活動の悩みの共有。
話し終わると、やりたいことで溢れていた。

こういう機会は独立したり、同じ環境が長くなると取りに行かないとやってこない。踏み出した自分に拍手を送りつつ、相手をしてくれたパタンナーの彼に本当に感謝している。

そしてこのコラムはこう続く。

それはまるで永遠に埋まることのないパズルのピースをはめていくような途方もない作業のようにも見える。
そう考えると、「知る」ということは「知らない」を増やすためのひとつの「道楽」のようなものであると捉えることもできる。
そして「知っている」と「知らない」をつなぐアシストをしてくれるような人たちは、その道楽を道楽たらしめる貴重な存在だ。

知り尽くしたなんて感覚には一度もなったことはないし、これからもないだろう。
でも、知ったつもりでちょっと同じことを繰り返しているかな、と感じた時にはあえて「知らない」ことを自分の中に入れてみて、また次の「知らない」に向けて歩を進めたいと思う。

ものをつくるのは果てしなくおもしろい。
そう。果てしない。
やれることは無限にある。
つくるのはたのしい、そしておわりがない。

オーダーという業態を選んだ時点で「無駄なものを作らない」が頭にありました。これまでもこれからも、ちゃんと袖を通して着倒してもらえるシャツ作りを続けていきたいと思います。