溢れてきたものを与え合いたい
以前、こんな記事を書いた。
言葉にすることで、何かが失われる。
それって別に悪いことでもなければ、ネガティブに捉えることでもないと思う。
逆に、何かを使って「全体」を表せると思うことの方が傲慢と言えるのかもしれない。
全体を表せないのなら、何もかも表すことをやめてしまおう。
そんなに極端には思わないかもしれないが、失われるものがあるという前提のもと何かを表すって、タフなことだと思う。
でも、みんな日々、何かを表して生きている。
それは、みんなタフなことをしてるということ。
みんな素晴らしい。
人が、その人自身から溢れてきたものを表してくれたときには、感謝して受け取ろうと思う。
それはタフで、勇気がいることだから。
「その人自身から溢れてきたもの」というところ、重要だ。
最近、気になっているのが「違和感」という言葉。
何かを表してみても、違和感があることはないだろうか。
それは、自分自身から溢れてきたものを表したのではないからかもしれない。
表すものが自分と一致したものであれば、違和感なく表すことができる。
とは言いつつ、全く違和感なく何かを表すってどんなことなんだろう、とも思う。
何かを表していくことは、違和感を抱くことであって、その違和感を減らそうとするプロセスなのかもしれない。
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