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【聖学生信仰】第一回「学生の本旨篇」【拓殖大学外国語学部英米語学科】4年間八王子キャンパス1998年4月入学~2002年3月卒業「光陰矢如旅人行不帰時」

梨園の宴(鎌ケ谷市初富秋元病院入り口前の公園より大西梨園を撮影)

国立国会図書館(東京)

イマーゴ(真善美の回復)を付け回し敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を狙う魔物に対する「護符」
最高善を躓かせる仕掛けとしての敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はサタン(最高悪)の計略でありアンチキリストの純粋無垢で穢のない欲望という屁理屈(前衛詐欺)である。
それは一見クリーンイメージの人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する天然邪悪の概念である。
それは人間の悪臭を発散しそれを高価な香水で誤魔化している。
聖なる香水とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり聖水と呼ばれる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック』であった。


「光陰矢如旅人行不帰時」

"LIVE TO RIDE, and RIDE TO LIVE. But LIVE TO LIVE, and RIDE TO RIDE."

"LIVE TO RIDE, and RIDE TO LIVE. But LIVE TO LIVE, and RIDE TO RIDE."
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

「メシア信仰」と「英雄崇拝」-聖学生信仰

「メシア信仰」

「メシア信仰」は「純愛信仰」であり知(doxa)を排除する「愛」のあり方であり相互愛信仰としてある。
それは「叡智」の受肉の在り方でありカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージとコミュニケーションとして存在する。

「英雄崇拝」

「英雄崇拝」は「一方的愛」の崇拝によって可能となる。
それは「純愛崇拝」と言われる。
「純愛」は崇拝される対象として絶対命令と絶対服従を形成する。
それはストーカーとしての英雄崇拝であり純愛崇拝という。
英雄の支配を可能とする。
それは又「特権階級」の在り方と同様であり、それは「一方的特権」を持つ理不尽な存在となる。
その暗示的肯定が崇拝関係を形成する英雄演出である。

拓殖大学は「聖戦」の場となったのです。

まえがき

「純愛信仰」と「サタン崇拝(黒ミサカルト)」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と「イノセント(黒ミサカルト)をイエス・キリストの右側の超人(サタン)とする崇拝システム」の違いである。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)はイマーゴ(真善美の回復)を齎し叡智を受肉する。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージとコミュニケーションのあり方である。
イノセント(黒ミサカルト)はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を弾圧することで形成される。
そこではカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージとコミュニケーションは弾圧され息をひそめる。
あざとく自閉した「自己世界観崇拝」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「問」を「不問」にして「愚問」を弄する。
自閉することでカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージとコミュニケーションを弾圧した自己世界観崇拝(愚者)は最も危険な存在となる。
常軌を逸した存在を崇拝することとなりそれは日本の独自性と言われる。
ただカルトシステムによって人をコントロールすることを至上とする。
それはネオ・ナチズムと言われる。
ここには「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のメッセージとコミュニケーションと「紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)」による信仰弾圧の間の関係性が存在する。
私にとって「拓殖大学(UNIVERSITY)」とはその様な「聖痕」を受肉する場としてあったのです。

「ダビデがゴリアテを撃ち殺す。」 これが私のイマーゴ(真善美の回復)です。

「ダビデとゴリアテ」は私の研究テーマであり生きる上でのイマーゴ(真善美の回復)です。

「イエス・キリストの永遠の命(パン)」は私のイマーゴ(真善美の回復)です。

イエス・キリストの信仰を至上とした生き様は私のイマーゴ(真善美の回復)です。

パンの講話(永遠の命)

第一章 総合大学(UNIVERSITY)とはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)であり、単科大学(COLLEGE)を専門課程として超人(サタン)とする崇拝関係はサタン崇拝(黒ミサカルト)である。

1 拓殖大学(UNIVERSITY)とイエス・キリスト

イエス・キリストはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を受肉した子供であり、ヨハネから洗礼を受ける前からカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を受肉していた存在であった。
それは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「子」の存在を示している。
何故なら「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「子」を貶め弾圧する「神の子」の存在は絶対にありえないからだ。
それは自己弾圧を意味する。
この在り方は総合大学(UNIVERSITY)の在り方と密接に関係している。

2 「キリスト」と「アンチキリスト」

カトリックロゴス感覚(Holy Communion)は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり、イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることは学問崇拝(知の鵜呑み)である。
それは「イマーゴ(真善美の回復)」の弾圧は虚偽(デマゴーグ)しかあり得ずそれは学問信仰(知の廃棄)を弾圧する学問崇拝(知の鵜呑み)の在り方であるからだ。

キリストとアンチキリストについての指摘

3 「キリスト」と「アンチキリスト」についての指摘

イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とするカルト関係が賛美され扇動され「友愛感覚」と詐称される場合が多々ある。
そのような在り方は「ハイセンス」と称される。
「ハイセンス」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対して形成された「黒ミサ」として存在する。
ハイセンスはスーパーセンスと表してもトートロジーとなるだろう。
また「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」に対して、ハイセンス(スーパーセンス)は「トートロジー」と「循環論証」で形成された「黒ミサカルト」の在り方となる。
そのようなハイセンスの中では拓殖大学(UNIVERSITY)でも他の場所でも決してカトリックロゴス感覚(Holy Communion)は賛美されず貶められ弾圧される。
それにより非難されるべきイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることについて逆に賛美と扇動が行われる。
そのような「黒ミサカルト」の在り方が「英雄崇拝」としての「超人(サタン)の在り方」である。
これは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のイマーゴ(真善美の回復)ではなく真理(全知全能)を最高位とする。
人は自ら全知全能の存在となることを示している。
それが学問信仰(知の廃棄)を弾圧して可能となる学問崇拝(知の鵜呑み)である。
何故人は全知全能の存在になれるのだろうか?
それは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「イマーゴ(真善美の回復)」を貶め弾圧することで「真理(全知全能)」の創造者となるからである。
それは自作自演の全知全能に過ぎない。
裁判官は人であり「真理(全知全能)」の創造者となる。
そこに誤りは存在しないのだ。
全てを人が創造した世界に人の誤りは存在しないのだ。
「新世紀エヴァンゲリオン」の終焉と同様である。
それが全知全能の存在(人)であるのだ。
しかし「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のイマーゴ(真善美の回復)」を貶め弾圧してある「真理(全知全能)」は八百長でしかないと見做す。
現実世界は「生贄の論理」により他者を犠牲とする。
「隣人愛」は弾圧されるのです。
結局は全責任を「他者」へ擦り付けることが行われている。
自分のやったことの全責任を他者の所為にする「八百長」が行われる。
これはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)である〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉を貶め弾圧することでありえる。
それはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることであり「全責任」を他者への擦り付ける行為である。
これを「生贄の論理」と言う。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のすべて反対となる。
「ヒポクラテスの誓い」と同じなのだ。
何故ならカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「時の徴」を貶め弾圧した学問崇拝(知の鵜呑み)であるからだ。
「生贄の論理」はイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とする極みでありそれを賛美する扇動によって根拠つけられた屁理屈裁判であるからです。

有名な死刑判決の扇動がテレビで行われたあの事件もそうだろう。「1999年4月14日犯行日 光市母子殺害事件」

この事件は私が周囲の知人から突然の手のひら返しを受けた時期に近い。

「ヒポクラテスの誓い」

Hippocratic Oath (hip′ō‐krat′ik ōth).〓
ヒポクラテスの誓い(通常,医学士の学位を受けるときに医師が行う誓い.そこで,医師は医学の実践に際して,倫理的な原理を守ることを約束する.この誓いは,Cos島出身のHippocrates(紀元前460―377)にちなんで名づけられている.医学の同業者組合,すなわち,アスクレピアズ協会に属していた彼は,医学の父と称えられている.なぜなら,彼は,医学という技術と科学を哲学や宗教から分離した初めての人だからである.しかしながら,その誓いは,Hippocratesの言語資料体を構成する無数の様々な書物の中で現在まで伝わっているが,それがHippocrates自身によるものであるということについては,近代の学者たちは疑いをもっている.この誓いが,(アスクレピアズ協会の人々の間で,すべて認められ,許されていた)自殺,安楽死,堕胎,手術を禁止していることは,むしろPythagoras学派に由来していることを示唆している.この誓いがいつつくられ,そのもともとの使われ方がどうであったのかはわかっていない).

「私は,医神Apollo,Asclepius,Hygeia,Panaceia,そしてすべての神と女神の名に懸けて,そして,これらの神,女神を証人として,この誓いと約束を果たすことを,私の能力と判断によって誓う.私に医学技術を教えてくれる人を両親と同様にみなす.私の人生,そして必要ならば,私の食料もその先生に分け与える.先生の子供たちは私の兄弟とみなし,彼らに医学技術を教える.医学知識は,書いて,口頭で,あるいは実習で,私の息子たちや私の先生の息子たちに教える.同様に,私たちの職業の規範に従い,他の何者にも従わずに,誓約書に署名し,誓いを宣言したすべての医学生に教える.私は,私の能力と判断に従って,病人の利益のために治療手段を施す.危害を加えたり犯罪を犯したりはしない.私は,誰に対しても,求めに応じて死をもたらす薬を与えたりはしない.また,その使用を勧めたりはしない.同様に,女性に堕胎をさせる薬を与えない.私は純粋な,神聖な生活をし,医療技術を磨く.私は,結石による病気であっても手術はしないが,それに従事する人を妨げたりはしない.私が訪ねる家はどこも,私は病人の利益のためだけに訪れ,意図的な悪行や姦通はしない.特に,男性でも女性でも,自由人でも奴隷でも,性的に親密な関係を結ぶことはない.私は,職業によるものであってもなくても,私が見たり聞いたりした,人々の個人的な生活に関する私的な性質について一切漏らすことはしない.なぜなら,私はそうした情報を暴露することの恥を理解しているからだ.もし,私がこの誓いを実行し破らなければ,私は人生と職業の実践に満足し,人々の間で永遠の栄誉に浴するだろう.もし,私がこの誓いを破り,偽りの誓いをしたら,私のすべては反対になるだろう」

米国とカナダのほとんどすべての医学校の卒業生は,学位授与式の間,医学の実践において,倫理的な原理を守るために,何らかの形式の制約を暗唱する.しかし,いまや,Hippocratesの誓いの原文を使用する機関は少ししかない.ほとんどの卒業生は,規則上あるいは道徳上制約にしばられるというよりも,その訓練を,単なる形式上のもの,あるいは伝統への敬意を示すものとみなされているようにみえる.この誓いの現代版は,典型的には,自分の先生の子供たちに無料で医学技術を教えることを約束するとか,手術をしないなどといった,文化的にすでにない用法,すなわち遺物を除外している.より重要なことは,それらのほとんどはまた,神への祈祷を除外し,宗教的な勤めや義務およびそれを破ったときに受ける罰への注意を除外し,さらには,安楽死や医師の助けを借りた自殺,堕胎,患者との性的な関係を誓ってやめることを除外していることである.RoeらとWade(1973年)の裁判において,合衆国大法廷は,堕胎を禁止する点でHippocratesの誓いの権威を拒否した.この誓いは古代の文化水準を反映しておらず,ユダヤキリスト教の堕胎に関する考え方の影響を長くもち続けてきたものであるとの理由による.「まず傷つけないように」(しばしばラテン語で“primum non nocere”と引用される)という一般によく知られた規範は起源がわからないが,Hippocratesの誓いの一部ではない.

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

「ナウシカ(Holy Communion)」であり宮崎駿の描く「峰不二子(Holy Communion)」である。
「時の徴」は永遠の命(パン)である。

エステルきへのふか【エステル記への付加】
The Rest of Esther
旧約聖書外典の一つ。成立年代は明らかでないが,前2世紀から後1世紀頃とされている。ヘブライ語原典にはなく,⇨セプトゥアギンタ(ギリシア語七十人訳聖書)でこの部分が付加された。内容は,ユダヤ人モルデカイが幻を見,王への陰謀をあばくが,かえって大臣ハマンの反感を招き,ユダヤ人迫害が始る。モルデカイとエステルが祈りを捧げ,ついにユダヤ人とペルシア人との宥和が達成され,ともにプリム祭を祝うことが宣言されるというもの。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

エステルき【エステル記】
Book of Esther
旧約聖書中の歴史書の最後の書。ヘブライ語原典では第3部諸書の5巻(メギロース)に属する。プリムの祭りの起源とその名前とに関して明らかにすると思われる伝説的な事件を扱っている。ユダヤ人の娘エステルを女主人公とするロマンチックで愛国的な物語は,おそらく当時の歴史的背景に基づいていると思われるが,神の名は一度も使われず,ほとんど宗教的色彩はない。したがってヘブライ語正典の完成までは正典から除外されていたが,90年のヤムニアのラビ会議で受入れられた。内容的には,ユダヤの民族的憎悪と復讐の精神にみなぎっていながらも,その背後にはエステルを通じて選民を救う神の摂理が暗示されている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ナウシカ(Holy Communion)

ナウシカ(Holy Communion)は王蟲に心を開き交流をしている。
それは紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)ではなくメッセージとカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のコミュニケーションによっている。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を信仰したもの同士がお互いの間で持つ交際を示している。

風の谷のナウシカ スタジオジブリ絵コンテ全集〈1〉


王蟲とナウシカ(Holy Communion)のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージとコミュニケーション

第二章 カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージとコミュニケーション)に対するサタン崇拝(欲望崇拝)の弾圧行為

1 ナウシカ(Holy Communion)の信仰の在り方の考察

ナウシカ(Holy Communion)と王蟲はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を持った存在でありイマーゴ(真善美の回復)の叡智を受肉している。
これはお互いがイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)として賛美することを禁忌としカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージを至上とするコミュニケーションの在り方を示している。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)によるメッセージでコミュニケーションをしていることを示している。
このようなカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージによるコミュニケーションはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを嫌悪したもの同志が持つ純愛信仰によっている。
お互いがお互いのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によって「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「純愛」の「相互扶助」を行っているのだ!
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の救済なのです。
ただこの「純愛」は「男女の恋愛」としてあり得るだろうかという疑問は存在する。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「純愛信仰」と「男女」の「純愛信仰」の在り方は同じだろうか?
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「純愛」であり純愛信仰(エロス)となる。
しかし「男女の恋愛」はイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを受け入れる獣的な男女関係でありサタン崇拝(欲望崇拝)となるだろう。
それは堕天使ルシフェル(堕落者)の誘惑である。
純愛信仰(エロス)はペルソナの純愛でありキリストの純愛である。
キリストはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の純愛を最高善の神から受けている。
至高の純愛の関係がカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の純愛信仰(エロス)の在り方であるのだ。
人の評価は基本的にカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「信用」によっている。
一般にカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「信用」があれば評価は高くカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「信用」を失っていれば評価は低い。
しかしそれが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に対する「信用」と「評価」と「堕天使ルシフェル(堕落者)」に対する「信用」と「評価」では全く反対の「信用」と「評価」が罷り通る。
それによって黒ミサカルトが成立する。
しかしこれはおかしなことなのである。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「信用」があるということが最大の事件である。
だからカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「信仰」をいくら貶め弾圧しても「信用」は生じません。
存在するのは「パワーハラスメント」による「絶対命令」と「絶対服従」です。
しかし「信用」とは「時の徴」であり聖痕の刻まれた「聖書」なのです。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「信用」と「高評価」を得る。
しかし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶める「アンチキリスト」は「信用」と「高評価」をまた同時に得る。
それは黒ミサカルトとしての「信用」と「高評価」である。
「キリスト」を信用し高評価するものと「アンチキリスト」を信用し高評価するものが二分に分かれるのだ。
このような人の「資質」の違いは「聖学生信仰」と「学問崇拝(知の鵜呑み)」の違いとも言える。
これはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の資質とイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの堕天使ルシフェル(堕落者)の資質の違いとなるのだ。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの資質は堕天使ルシフェル(堕落者)であり学問崇拝(知の鵜呑み)であるからカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を弾圧する劣等な存在となる。
学問崇拝(知の鵜呑み)とは「贋作」なのです。

ナウシカ(Holy Communion)

ナウシカ(Holy Communion)が腐海の濃い瘴気の中で自らのマスクを外すことで身をもって相手を安心させるシーンである。
これはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージのコミュニケーションである。
ナウシカ(Holy Communion)はその代償として濃い瘴気が肺に入ってしまうのだ。
その代償はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)による「純愛」によってしかあり得ないものなのです。

風の谷のナウシカ スタジオジブリ絵コンテ全集〈1〉

ナウシカ(Holy Communion)は腐海の深部の濃い瘴気の中でマスクを外して笑って見せる。

ナウシカ(Holy Communion)の肺に腐海の瘴気が入ってしまい苦しい表情を見せる。

2 二種類の象徴的人間性

私が出会った「象徴的人間」には「二種類の人間」がありました。
それは「キリスト」の「メッセージ」伝える「人間」と「アンチキリスト」の「デマゴギー」を宣伝する「人間」です。
それは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の資質と「イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とする崇拝関係」の資質の違いでありました。

アンチキリストは堕天使ルシフェル(堕落者)

3 優劣の彼岸(黙示)はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の意志

「アンチキリストのデマゴーグの意図」は斯くあります。
デマゴギーによって形成された人間社会が「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のイマーゴ(真善美の回復)の信仰に対する「劣等」としてあるのは明確である。
それは「贋作」だからです。
そしてその「劣等」は劣等感を生み「優等」への弾圧によって生まれるプライド(複合感情)を形成するために呪術崇拝から形成される象徴(偶像崇拝)の世界観(原始的段階に近い)に堕落する。
優越感を持った堕落世界はサブカルチャーとオタクの世界であるだろう。
それによって聖なるイマーゴ(真善美の回復)を完全弾圧するのだ。
アンチキリストのデマゴギーによってカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を弾圧し世界の完全支配ができるという認識です。
実際はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を理解できない「劣等」がその「劣等感」故に持つ認識であり、それは「優等」への弾圧によって生まれるプライド(複合感情)のことであるだろう。

コンプレックスは複合感情

4 「優等」への弾圧によって生まれる印象操作(学問崇拝(知の鵜呑み))

「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」が受肉しない劣等な存在である自分が世界を支配することでプライド(複合感情)を得るという世界認識です。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を弾圧して得られる優越感が世界を自分が支配しているという感覚を持つことでできる自己陶酔感であるでしょう。
そしてそれは「アンチキリスト」の存在であるのです。
しかしカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を信仰しないイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることはそれだけで劣等な認識であることが証明されるでしょう。
学問崇拝(知の鵜呑み)でしかないからです。
それは「偽物」であり「贋作」であり「インチキ」ということです。
それは劣等感から学問崇拝(知の鵜呑み)によって自らを誇ることでありその優越感により逆にカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を屈服させる。
そして学問崇拝(知の鵜呑み)でカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に劣等感を植え付けようとする最悪な世界感覚(劣等感)の行いである。

しかしその優越感はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を信仰できない劣等感からあり、自らが劣等であることの証明なのです。
劣等な存在だから行う学問崇拝(知の鵜呑み)の優越感なのです。

鈴木一朗(イチロー)や長嶋茂雄、安倍晋三のアベノミクス、ヒットラーとゲッペルスのネオ・ナチズムはこの「優等」への弾圧によって生まれるプライド(複合感情)であるのです。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を黒ミサカルトの「評価」で屈服させようとする堕天使ルシフェル(堕落者)の行いである。
しかしそれは「劣等」故の行いである。
劣等な存在である証明であるのです。

5 「優等」への弾圧によって生まれる優劣逆転はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)への反逆であり堕天使ルシフェル(堕落者)のイノセントな欲望(傲慢の大罪)である。

本来は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の方が「信用」と「高評価」を得ます。
しかし黒ミサカルトの「評価」は手前味噌(手前勝手)な価値基準で形成されイチローや長嶋茂雄、安倍晋三、ヒットラー、ゲッペルスなどが高評価されます。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることで「信用」され「高評価」を得ます。
それは学問崇拝(知の鵜呑み)の能力がイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることで信用され高評価される典型的な例です。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることに対しそれを研究する「キリストの心理学」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の学問」であり「カトリック神学」である。

「イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすること」や「アンチキリスト」と「堕天使ルシフェル(堕落者)」は総称して「崇拝心理描写(特権階級心理)」と総称します。

それは劣等感が持つ「優等」への弾圧によって生まれるプライド(複合感情)であり「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のイマーゴ(真善美の回復)の信仰」の方に屈服を迫り学問崇拝(知の鵜呑み)の屈辱から劣等感を植え付けようとする。
それは至上の「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の王国をマウンティングしてその完全支配をすることを欲する邪な心理である。
そのカルト感覚(サタン崇拝)の研究である。
カルト感覚(サタン崇拝)とは人間の「崇拝社会」でありアンチキリストのデマゴギーによる「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の王国の支配の試みである。
それは学問崇拝(知の鵜呑み)としてあり全てを崇拝心理描写(特権階級心理)によって支配しそれを至上とする。

崇拝社会は〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉である。

6 アンチキリストの研究

それはサタン崇拝(黒ミサカルト)のデマゴーグの(イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすること)を示している。
そしてそのような〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対する劣等感が「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)でありそれはコンプレックス(複合感情)であるのだ。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を信仰できない劣等な存在が「優等」への弾圧によって形成するプライド(複合感情)でありネオ・ナチズムでありアベノミクスであるだろう。

崇拝心理描写(特権階級心理)による支配はアンチキリストのデマゴーグの支配方法である。
そこには〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉の貶めと弾圧である。
それにより崇拝心理描写(特権階級心理)を賛美し扇動する。
それはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることであり「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のイマーゴ(真善美の回復)」を貶め弾圧する「真理(全知全能)」としてある。
しかし「キリスト(Holy Communion)の崇拝心理学(特権階級心理学)」を知ったものには支配の効力は喪失する。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの賛美の崇拝心理描写(特権階級心理)を至上とした〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉が解けるのだ。
劣等な存在の「優等」への弾圧からの「劣等感のプライド(複合感情)」の形成をする邪な心理がカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によって認識されその詐術が暴露される。
劣等感の塊が自らを誇りカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を屈服させ侮辱し劣等感を植え付けることが目的としていることが判明する。
それは凶悪なのだ。
それが彼らのプライド(複合感情)であり堕天使ルシフェル(堕落者)の烙印である。
その烙印があるものはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの「魔女の存在」と「悪魔の存在」であるのだ。
しかしカルト感覚(サタン崇拝)の効力が解けた時に我々はその存在の「馬脚」を見ることになるだろう。
「サタンの脚」である。
崇拝心理描写(特権階級心理)を至上とする堕天使ルシフェル(堕落者)が解けた時に「人の馬脚」がさらされる。

崇拝心理学(特権階級心理学)とはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の研究である。
「キリストの崇拝心理学(特権階級心理学)」とはアンチキリストの心理の研究であり堕天使ルシフェル(堕落者)の崇拝心理描写(特権階級心理)を禁ずることを命じるカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の研究のことなのです。

7 「無知の知(ソクラテス)」と「特殊詐欺(自己世界観崇拝)」

崇拝心理学(特権階級心理学)の研究は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)と「無知の知」の「学問的研究」と同義であります。
「崇拝心理描写(特権階級心理)」の「カルト感覚(サタン崇拝)」は「カトリック神学」の「中心」である「無知の知(ソクラテス)」の核心を知っていればその効力は失われる。
「無知の知(ソクラテス)」としての崇拝心理学(特権階級心理学)を修得したものには「崇拝心理描写(特権階級心理)」の「カルト感覚(サタン崇拝)」が如何なるものか理解されるからだ。
崇拝心理学(特権階級心理学)とはサタンと戦うための「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「学問」である。
聖戦における「聖なる武器」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「ロゴス」なのです。
一方で崇拝心理描写(特権階級心理)を利用した特殊詐欺がある。
崇拝心理描写(特権階級心理)を操る堕天使ルシフェル(堕落者)は人として破綻した狂人である。
それはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを自己世界観崇拝とすることで人の存在を貶める堕天使ルシフェル(堕落者)の誘惑に屈した堕落者である。
学問崇拝(知の鵜呑み)で如何に相手を騙すかを競っている彼らは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「イマーゴ(真善美の回復)」をマウンティングして世界を解釈する。
彼らは決して「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「イマーゴ(真善美の回復)」を追求しないのです。

「神の王国の到来」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)による「時の徴」のことである。

8 「神の王国の到来」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)による「時の徴」のことである。-「神の王国の到来」を弾圧する行為

崇拝心理描写(特権階級心理)で「善政」を主張することは不可能なのです。
それは「神の王国の到来」を解釈によってマウンティングする邪な心理を至上とする。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの「政治」は現実を批判しない邪な政治となり悪政の証明となるからです。
崇拝心理描写(特権階級心理)を至上とするカルト感覚(サタン崇拝)は自己中心の解釈のカルト感覚(サタン崇拝)と言える。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を信仰しない劣等な存在が自らの解釈を誇ることであり真に相手(現実)のことは考えない。
劣っている存在はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のカトリックロゴス感覚が受肉しないのだ。
そして相手のことを考えたと主張しても相手のことを絶えず自分の都合の言い様に解釈しそれでマウンティングする邪な心理を至上とする。
自己中心のカルト感覚(サタン崇拝)であるのだ。
それは他者のことを考えていないことを示している。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることであるのだ。
他者が見えないことはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が受肉しないことであるのだ。
自己中心で世界を解釈することはストーキングの姿勢である。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを自己世界観崇拝とするストーカーである。
何故ならそれは自分で現実を批判せずに「自分の思い込み」で現実をストーキングし解釈する姿勢であり無知蒙昧な存在であるからだ。
それは堕落したイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることであり堕天使ルシフェル(堕落者)であるだろう。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」と「イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすること」の違いである。
だから彼らには真の相手が存在しない。
自分の「思い込み」から解釈を試みるだけで現実を批判しないからです。
ただ自分の崇拝心理描写(特権階級心理)を至上として存在する相手に対するストーキングにより堕天使ルシフェル(堕落者)が存在する。
彼らにとって徹底的にストーキングするだけでその解釈を正当化するだけなのだ。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を信仰しない学問崇拝(知の鵜呑み)の特殊詐欺であるだろう。
それは「神の王国の到来」を解釈するだけで決して理解することはない。
それは現実信仰(知の廃棄)を弾圧し現実崇拝(知の鵜呑み)を賛美する姿勢である。
崇拝関係はカルトとなり絶対命令と絶対服従を形成する。
では誰がカリスマとしての天才政治家となるのだろうか?
麻原彰晃だろうか?
アドルフ・ヒットラーだろうか?
とんねるずだろうか?
何故彼らが?
詐欺師の詐術とは何だろうか?
崇拝心理描写(特権階級心理)のイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることである。
劣等感からある学問崇拝(知の鵜呑み)によって執拗に付き纏い他者を騙し抜くストーカーである。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることでなりきる存在は狂人であり劣等な存在である。
人を崇拝心理描写(特権階級心理)の至上性であるカルト感覚(サタン崇拝)へ誘導するために付き纏う。
それはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることのアンチキリストのストーカー行為であるだろう。
そしてそれによってストーカーは劣等ではあるがその世界の支配者として堕天使ルシフェル(堕落者)として最強のデマゴーグとなる。
それが劣等感からあるプライド(複合感情)から最強となったアドルフ・ヒットラーでありヨーゼフ・ゲッベルスであり安倍晋三であったのだ。

"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

9 「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を至上とするマスコミと「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」を弾圧するデマゴーグ

現在のTBS放送センター
 2023年3月27日(月)撮影
撮影者 Soma Oishi

TBS(東京放送)は唯一カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を保持しているテレビ局である。
「思い込み」からある解釈を正当化するアンチキリストのストーキングテレビ局は「NHK、テレ朝、日テレ、フジテレビ、テレ東」でありそのような「劣等感」を持った「誇り高い連中(優越感)」であるのだ。
それは劣等感が世界を支配することでそれを「誇り(優越感)」とするネオ・ナチズムと同じであり大威張りが大好きな人達(アンチキリスト)である。
それは劣等感から存在する。
そして劣等感は実際にカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が受肉しない劣等な存在であるところから来ている。
彼らは大宣伝し付き纏う堕天使ルシフェル(堕落者)のストーカーである。
街宣車のテレビ局であるのだ。
そのような「優等」への弾圧によって生まれる詐欺師のテクニックが崇拝心理描写(特権階級心理)を至上とするカルト感覚(サタン崇拝)となるのである。
ただの劣等感からある崇拝心理描写(特権階級心理)に長けたアンチキリストな天然邪悪(イノセント)な連中であるのだ。
ただ遊侠の詐欺師がいるとすれば映画「スティング」のポール・ニューマンとロバート・レッドフォードであるだろう。

「神の王国の到来」をマウンティングして堕天使ルシフェル(堕落者)のデマゴギーで完全支配しているとする認識はカルト感覚(サタン崇拝)である。
それは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の存在と「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」への信仰を完全弾圧してあり得る「純粋虚構」の「芸術(美談芸術)」でありシナリオ台本として紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)である。
紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)とのメッセージのコミュニケーションを純粋虚構によって完全に弾圧する。
そのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)とのメッセージのコミュニケーションの完全弾圧は堕天使ルシフェル(堕落者)の紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)であるのだ。
それはバベルの塔に象徴される人間の傲慢の現れである。

「遊侠」と「純粋無垢で穢のない欲望の屁理屈」は全面対決する。
これが「ダビデとゴリアテ」である。

ただ「人間」の「傲慢」は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」への「劣等感」と同義である。

イエス・キリストの磔刑もネオ・ナチスドイツのユダヤ人大虐殺も「信仰」を至上とする「一神教」の「信徒」と〈呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉との間にあるカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に関わる優劣の問題である。
実際にネオ・ナチズムは自らを優性民族としてユダヤ人を劣等民族とした。
しかし実際は「劣等」故の劣等感から「優等」への弾圧によって生まれるプライド(複合感情)のネオ・ナチズムであったのだ。
ユダヤ人はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)でありネオ・ナチズムはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を信仰できない劣等であり劣等感を持ったプライド(複合感情)からカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を侮辱しその弾圧から劣等感を植え付けようとしたのだ。

日韓併合の真実とは何か?

これは日韓併合も同様であろう。
日本という劣等な鎖国国家がいきなり植民地支配をした理由もこのような「劣等」が持つ「優等」に対する信仰弾圧によって形成されたプライド(複合感情)から来ている。
ネオ・ナチズムと同じでありアベノミクスも同様であるだろう。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)がイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とする黒ミサカルトより優れていると明確に指摘し人の啓蒙を目指したのはソクラテスであった。
しかしソクラテスも「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」故にイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とする崇拝関係に処刑された。

ソクラテスが処刑に応じたのはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることではなくカトリックロゴス感覚(Holy Communion)からであろう。

このような優越感は崇拝心理描写(特権階級心理)を至上とした捏造と模倣の至上性によっている。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とするデマゴーグの支配はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の世界をマウンティングすることを至上とした悪しき人の心理でありそれを崇拝心理描写(特権階級心理)という。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のイマーゴ(真善美の回復)へのマウンティングを至上とする悪しき心理であり、それを至上にする人間の傲慢さを「バベルの塔」と呼ぶのだ。
しかしその傲慢さは「優等」への弾圧によって生まれるプライド(複合感情)からある。
それはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの賛美としてある。

10 ナウシカ(Holy Communion)と王蟲のシーン

後に述べるが紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)はあってもカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージのコミュニケーションのない関係があり、また一方で紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)がなくてもカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージのコミュニケーションのある関係が存在する。
映画「風の谷のナウシカ」ではナウシカ(Holy Communion)が王蟲との間で紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)ではなくカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージのコミュニケーションをしているシーンが多くあるのはご存知だろう。
そこで敢えて堕天使ルシフェル(堕落者)のデマゴギーではないことを王蟲が示すことで、崇拝心理描写(特権階級心理)であるイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを嫌悪してある王蟲の聖なるカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージが伝えられていることが解る。
そして「王蟲には何らかの伝えたいカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージ」が存在することが解る。
それがナウシカ(Holy Communion)にとって貴重で必要なメッセージであり、それをナウシカ(Holy Communion)が受け取る時に王蟲とナウシカ(Holy Communion)の間でカトリックロゴス感覚(Holy Communion)による信仰のメッセージのコミュニケーションの成立がある。

「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のイマーゴ(真善美の回復)への崇拝心理描写(特権階級心理)はイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることである。
自らのイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを至上とする傲慢さが「バベルの塔」である。
しかしそれはロゴス感覚の受肉しないイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの「劣等」故の「優等」への弾圧によって生まれるプライド(複合感情)から来ている。

11 カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の相互愛は「純愛」

信仰者の間の相互扶助のメッセージのやり取りでありそれは純愛でありカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の純愛関係であるのだ。
「メッセージの意図」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によってデマゴギーを嫌悪しカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を信仰することで聖なる真実としてのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージを発しカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の世界を救済することである。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)とのコミュニケーションと言えるものであり、それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージによってあり得る聖芸術としてのコミュニケーションである。
それは紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)ではなく、カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージのコミュニケーションであるのだ。
それは崇拝心理描写(特権階級心理)を持ってしては絶対にできない。
何故ならそれはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の世界をマウンティングすることを至上にした悪しき心理だからだ。
そしてそれは劣等な存在としてあるからだ。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を信仰しない劣等な存在にはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)は絶対にできない。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを自己世界観崇拝(人間感覚)にすることは堕天使ルシフェル(堕落者)の誘惑に堕ちた劣等な存在となる。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)への信仰は至上のものでありカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の世界を救済する聖なる真実の言葉は預言者の言葉と言える。
そしてカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の世界を人間の傲慢から救済する聖なる存在はセイントでありメシアであるのだ。
劣等の反逆者サタンとの聖戦である。
ただこの相異なる「神の王国の救済者としての聖なる真実のメッセージ」と「神の王国の支配者としての堕天使ルシフェル(堕落者)のデマゴギー」の間で同じ様な言語表現を使用して発言が為される場合がある。
しかし「アンチキリストのデマゴギーとして発せられた発言」は「明らかな嘘」であり「明らかに矛盾した真実」である。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が受肉していないことを示している。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)とイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることで明確化することが出来る。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)があれば高度な関係でありイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることであれば劣等な関係である。

これは〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉である。最も劣った人間の在り方であるカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の欠落状態を示している。
それはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることである。

12 「サタンの存在の劣等」の証明

それは崇拝心理描写(特権階級心理)へ向けて発せられていることで明確に判別できる。
それは「メッセージ」でも「真実」でもなく崇拝心理描写(特権階級心理)へだけ向けられたカルト感覚(サタン崇拝)の呪術であるのだ。
カルト感覚(サタン崇拝)の呪術は紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)でありそこではカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージのコミュニケーションは成立しない。
カルト感覚(サタン崇拝)の呪術はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)したコミュニケーショではなくコマンドであるのだ。
そこにはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージのコミュニケーションは存在しない。
紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)というカルト感覚(サタン崇拝)があるだけなのだ。
そして「真のメッセージ」として発せられた発言は「真実」というより「聖なる真実」としてのメッセージを伝えている。
発言とは一般に「フェイク」と「真実」の二項対立であるが、実は「「信仰によってある聖なる真実のメッセージ」のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のコミュニケーション」と「堕天使ルシフェル(堕落者)のデマゴギーによる学問崇拝(知の鵜呑み)」の紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)の二項対立であるのだ。
それは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」と〈呪術崇拝から形成される象徴(偶像崇拝)〉の二項対立である。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)とイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの違いであるのだ。
ではカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージとしてあり得る「聖なる真実のメッセージ」のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)したコミュニケーションとは何だろうか?
それは「信仰」によっている。
純愛信仰のメッセージによるカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のコミュニケーションであるのだ。
「愛」が受肉しているのだ。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の福音(純愛)である。
純愛のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージのコミュニケーションは福音(純愛)を発するのだ。
純愛のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージのコミュニケーションはアンチキリストのデマゴギー(呪術崇拝)ではない。
堕天使ルシフェル(堕落者)のデマゴギーとは人を欺く学問崇拝(知の鵜呑み)の詐術としてありそこにメッセージ性(Holy Communion)はあり得ないからだ。
彼らはマウンティングして人を踏み躙り詐欺でだますのだ。
それは劣等感がそうさせるのだ。

カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を受肉しないイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることは他者を詐欺で騙すことをプライド(複合感情)とするのだ。

13 「優等」への弾圧によって生まれる「優劣逆転」の「大罪」は「欲望」と「傲慢」の「大罪」そして「罰」は「地獄」

劣等が罪かと言えば罪ではない。
しかし劣等感を逆転させてプライド(複合感情)とし優越感のために詐欺を働くのはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)へ反逆であり罪である。
アンチキリストはデマゴギーで騙し抜くことがマウンティングでありそれが学問崇拝(知の鵜呑み)のカルト感覚(サタン崇拝)である。
そして「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のメッセージによるカトリックロゴス感覚(Holy Communion)したコミュニケーションとは堕天使ルシフェル(堕落者)のデマゴギーを嫌悪するカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によってありえるのだ。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージ性(Holy Communion)のそのあり方はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)がアンチキリストのデマゴギーを嫌悪して表現する偶像としてのメッセージとしてある。
それは符号一致偶像となるだろう。
符号一致にカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を見出すことができるのだ。
堕天使ルシフェル(堕落者)のデマゴギーへの批判としてあるのだ。
そのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が表現した符号一致偶像を敢えて伝えることにあり得るカトリックロゴス感覚(Holy Communion)したメッセージからカトリックロゴス感覚(Holy Communion)したコミュニケーションがありえる。
純愛とはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のことであるのだ。
敢えて伝える聖なる真実のメッセージとは救済のための聖なる真実である。
私は神の王国を救済するための聖なる真実のメッセージと書いたがそれは信仰者を救済する聖なる真実のメッセージでもある。
聖なる真実を敢えて教えるのはその人を救済するためなのである。
そしてそれを福音(純愛)という。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージとは救済のために敢えて教える聖なる真実の言葉のことであるのだ。
それがカトリックロゴス感覚(Holy Communion)とのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によるコミュニケーションなのだ。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)によっては「堕天使ルシフェル(堕落者)のデマゴギー」は決して生まれないことは理解されるだろう。
何故ならカトリックロゴス感覚(Holy Communion)とは崇拝心理描写(特権階級心理)であるイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを嫌悪することでありアンチキリストのデマゴギーを激しく嫌悪しているためである。
だから信仰に嫌悪された堕天使ルシフェル(堕落者)のデマゴギーはただの崇拝心理描写(特権階級心理)であるイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることの虚偽と認識される。
劣等な存在の反逆者である堕天使ルシフェルであり堕天使ルシフェル(堕落者)であるのだ。
そしてその烙印を持つ魔女と悪魔である。

それは「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」のイマーゴ(真善美の回復)への崇拝心理描写(特権階級心理)である。
「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のイマーゴ(真善美の回復)」を貶める欲望であるのだ。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)はイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを激しく嫌悪する。
イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることは劣等の反逆者である堕天使ルシフェルであるからだ。
アンチキリストのデマゴギーの目的などが解析される。
崇拝心理描写(特権階級心理)の支配による幼稚な支配であり動機は劣等感であるがそこに何らかの目的が存在するからだ。

学問崇拝(知の鵜呑み)の動機は悪しき欲望である。
それはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることであるからだ。
劣等なイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることが自らを至上とする。

14 拓殖大学(UNIVERSITY)のサタン崇拝

「世界の支配者」になりたいと言い出した或る拓大学生は私に傲慢にも物品を要求し集団脅迫行為してきた。
それは自分が「世界の支配者」になったというイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを何故か全肯定されたとしたからである。
彼は昼飯時間の学食のグループに当たり前のように突然入ってきた。
彼はいつものメンバーではなかったのだ!
そしてその男が突然「行くぞ!」と「掛け声」を上げ「号令」をかけた事件が発端だった。
私はいきなりの「号令」に思わず立ち上がってしまったのだ。
それを見た他のグループのメンバーは私が服従したと主張するために「言ったら動いたよ!」「言ったら動いたよI」と嫌らしくそれを論った。
そして「言ったら動いた」という確たる証拠があるのだから私がその男に服従したのだと強硬に主張した。
(馬鹿げた号令にただ一回不意を付かれて「動いた」ことを論ってその男への恭順と服従だと主張し始めた。)
「言ったら動いたって?」
「条件反射だろ!」
馬鹿馬鹿しい問答になる。
相手は「愚問」を弄する愚者の群となった!
「やっぱ拓殖大学か?」と私は心が冷えきった。
拓殖大学とは決して偏差値の高い大学ではない。
しかし偏差値で人間性が決まるわけではないだろう。
私はこの拓大生たちに絶望を覚えた。

後に「早稲田スーパーフリー事件」が明らかになる。(この事件は私の大学生時代と時期が奇妙に一致していた。)

彼らはその男のために教科書とノートを差し出せと私に要求してきた。
彼らは完全にグルになって罠を仕掛けたのだ!
これは典型的な「イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすること」である。
私は付き合いをやめる決断をした。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)である。
彼らは粘着質なストーカーだった。
私はお前らとの付き合いをきっぱり辞めると態度で示した。
しかし大学講義には出席しなければならない。
彼らから私に対して因縁をつけてくる材料と機会はいくらでもあった!
彼らは少しでも視線に入るだけで因縁をつけてくる程の発達障害の低能児達で目を合わせることは危険だった。
因縁付けるな!
低能男たち!
私はグループでいきなりメンバーに裏切られ寝首を掻かれたのだ。
しかしカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を持つ私にしてみればあまりにその男達は劣等な存在に見えた。
それは「イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすること」を大得意になってやっている低能児(優越感)に見えた。
大学生が「世界の支配者」になりたいとほざいている。
低能児の馬鹿者にしか見えなかった。
しかし他の学生はその男を支持した。
その男たちもその低能児と同類であり本当の劣等な馬鹿に見えた。
そして何故か私を執拗にストーキングした。
劣等な存在はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)をストーキングして自分を高尚だとするイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを形成する。
他の連中も同様であった。
学生が馬鹿の塊大学だったのだ。

15 学生(学者)とはナザレ人でありカトリックロゴス感覚(Holy Communion)である。

しかし人としてカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の資質のあるペルソナは存在する。
それが拓大生だろうが土方であろうが配管工であろうが関係なくその人の資質としてカトリックロゴス感覚(Holy Communion)は存在するのだ。
そうなると社会的上位の存在であろうが社会的下位の存在であろうがカトリックロゴス感覚(Holy Communion)は人の資質としてあるのだ。
それはペルソナの資質はその人を見なければわからないことを示している。
何故ならそれが堕天使ルシフェル(堕落者)のデマゴーグによる学問崇拝(知の鵜呑み)のカンバセーション(サタンの誘惑)ならその学問崇拝(知の鵜呑み)を解析し騙す目的などを知ることは「神の王国の到来」を守護するために重要であるからだ。
学問崇拝(知の鵜呑み)から「信仰」を守護し救済するために敢えて教える聖なる真実の言葉がメッセージでありそれがカトリックロゴス感覚(Holy Communion)とカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のコミュニケーションであるのだ。
それがカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の福音である。

16 「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)としての偶像」と「デマとしての〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉」

カトリックロゴス感覚(Holy Communion)がアンチキリストのデマゴギーを嫌うことで表現された符号一致偶像をペルソナとして発することがメッセージでありそれは預言者としてのあり方であるだろう。
それがカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージのコミュニケーションである。
福音を発するものをメシア(救世主)という。
そのような聖なる真実の言葉が敢えて発せられるのは「神の世界(王国)」と「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「僕」を救済するためである。
それは預言者のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の言葉でありセイントでありメシアであるのだ。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の福音を発するものは神の王国のメシアであるのだ。
デマゴーグとしての学問崇拝(知の鵜呑み)から人々を救済するカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のペルソナのあり方は救世主といえる。
そしてカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によって「メッセージ」が表現される。
それは「聖なる言葉」である。
それがカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の福音である。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)によってイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることを嫌悪することで聖なる言葉であるカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によるメッセージは生まれる。
だからその言葉を発するペルソナはもう一人のペルソナのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)に対するカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によってありえるインスピレーションによっている。
そのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によるインスピレーションはデマゴギーを嫌悪するカトリックロゴス感覚(Holy Communion)への信仰が聖なる真実を見出すことで可能となる。
そしてメッセージは救済のための聖なる真実のメッセージの聖なる言葉となって出現する。
それが「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)への信仰として表現された偶像(メッセージ)」である。
それが福音(メシア)であるだろう。

17 「堕天使ルシフェル(堕落者)のデマゴギー(「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝))」

「堕天使ルシフェル(堕落者)」のデマゴギーとしての「偶像崇拝者」はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージを弾圧することでアンチキリストのデマゴギーを宣伝する。

堕天使ルシフェル(堕落者)のイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることのデマゴギーは〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉である。

劣等であり劣等感が「優等」への弾圧によって生むプライド(複合感情)である。
堕天使ルシフェルとは堕天使ルシフェル(堕落者)の別称でありアンチキリストのデマゴギーの偶像崇拝者は堕天使ルシフェル(堕落者)の下僕であるのだ。
「神の王国の到来」と「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」の「僕」の完全支配を堕天使ルシフェル(堕落者)と悪魔の群れはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることで完全犯罪(カルト感覚(サタン崇拝))として形成している。
完全犯罪のカルト感覚(サタン崇拝)が学問崇拝(知の鵜呑み)である。
それがバベルの塔(優越感)である。
しかし信仰者はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のメッセージを発し聖なる真実の言葉を敢えて教えることで堕天使ルシフェル(堕落者)と戦い「バベルの塔」を破壊するのだ。
福音による「バベルの塔」の破壊である。

以降 「堕天使ルシフェル(堕落者)」の「デマゴギー」と「アンチキリスト」の「デマゴギー」は「デマゴギー」と表記する

イノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とするデマゴーグの人間社会とカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の弾圧
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)によってある筈のインスピレーションを貶め弾圧してあるデマゴギーは崇拝心理描写(特権階級心理)であり堕天使ルシフェル(堕落者)の存在である。
だから「崇拝心理描写(特権階級心理)であるイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることのデマゴギー」は最悪であるが社会的には通用する。
社会的な通用とは何かと言えば、社会的上位とされた発言者のデマゴギーへ「右へ倣え」をするという暗黙のルールが人間社会にあることである。
社会的上位者とされた発言者はイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とするデマゴーグでありその堕天使ルシフェル(堕落者)のデマゴギーは立てなければならない。
しかしその様なイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とするデマゴーグにはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によってある筈のインスピレーションは全く無い。
それがカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の言葉ではないのだ。

それはイノセント(黒ミサカルト)を超人(サタン)とすることが〈「呪術崇拝」から形成される象徴(偶像崇拝)〉であるからだ。カトリックロゴス感覚(Holy Communion)を信仰しない劣等が持つ「優等」への弾圧によって生まれるプライド(複合感情)である。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によるメッセージのコミュニケーションではなく、そのようなカトリックロゴス感覚(Holy Communion)へのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を完全弾圧する純粋虚構の紋切り型カンバセーション(黒ミサカルト)である。
学問崇拝(知の鵜呑み)を至上として社会的上位者に「右へ倣え」を命じる人間社会はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を至上とするカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の福音に破壊されるだろう「バベルの塔」は人間のピラミッド社会であるのだ。
旧約聖書にあるようにカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を至上としたカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の福音(メシア・純愛)は人間のピラミッド社会を破壊するだろう。

最高善の神は劣等感覚の持つプライド(優越感覚)を破壊するのである。
何故ならば黒ミサカルトのプライド(複合感情)は大傲慢であるからです。

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