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【聖横溝正史信仰】「悪魔の手毬唄」青池リカの犯行動機は「純粋理性批判」と「最高善の神罰(黙示)」のラブストーリー(聖愛物語)!

特集「悪魔の手毬唄」考

イマーゴ(真善美の回復)を付け回し敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を狙う魔物に対する「護符」
最高善を躓かせる仕掛けとしての敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はサタン(最高悪)の計略でありアンチキリストの純粋無垢で穢のない欲望という屁理屈(前衛詐欺)である。
それは一見クリーンイメージの人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する天然邪悪の概念である。
それは人間の悪臭を発散しそれを高価な香水で誤魔化している。
聖なる香水とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり聖水と呼ばれる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック』であった。

1 「悪魔の手毬唄」には「信仰」を入れる場所が確保されている。-「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「最高善の神罰(黙示)」

「悪魔の手毬唄」は横溝正史作品の中でも人気があり「映画」や「テレビドラマ」でご存じの方も多くいらっしゃるだろう。
ただ「原作」に比較的忠実に制作された作品と「原作」を解釈から改変し脚色した映像作品が存在します。

それは何故か?

「知識(doxa)の廃棄」を至上とした「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の作品だからだ!
私が観た中では映画・テレビ版の中で毎日放送製作作品は比較的原作に近い筋書きだろうと感じた。
しかしそれは錯覚を利用したイマーゴ(真善美の回復)の演出だったのです。
よって私は敢えて毎日放送制作の「悪魔の手毬唄」を参考資料の筆頭に挙げたいと思う。
横溝正史原作小説と毎日放送制作「悪魔の手毬唄」「獄門島」を視聴してみると興味深い事実が浮かび上がってくる。
毎日放送制作作品は原作に忠実でありながら作品としては改変されている。
それは不思議なことだろう。
原作の意図に忠実でありながらそれに対して置き換えの改変演出がなされていることにより「知識(doxa)の廃棄」によるイマーゴ(真善美の回復)が容易に可能となっているのです。
それは「横溝正史」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を視聴者に受肉させることを可能とする。

参考資料
毎日放送制作「悪魔の手毬唄」と同じ「見立て殺人」の毎日放送制作「獄門島」に於ける「磯川警部」

ここに疑問がある。
毎日放送制作「悪魔の手毬唄」には「原作」において最重要の存在である筈の「磯川警部」が登場していない。
しかし此の両「見立て殺人」のテーマは「純愛(信仰)」である。
そして「獄門島」で「皆殺し」にあうのは「下賤の旅役者の女とその子々孫々」である。
そしてその夫は旅役者の女と無理やり引き離されて気違いとなった若旦那だった。
その若旦那の父親と獄門島の重鎮三人が愛し合う男女を引き離し起きた事件だった。
「獄門島」の殺害動機は男女関係における「痴情の縺れ」と「私怨」なのです。
三人の娘を儲けた男女の在り方は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明ではなく「凡庸な動物的雌雄の在り方の証明」と言えるものでありました。
確かに「獄門島」の男女関係も深く愛し合っているように見えます。
しかしそれは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明としての「純愛(信仰)」とはいえない。
「獄門島」の男女の在り方にとって肉体関係によって子供を授かることが「愛の証明」となっている。
まさに毎日放送制作作品では男女の肉体関係が美しく官能的に描かれていた。
これらの映像表現は「プロテスタントデマゴーグ」であると言える。
それは「純愛(信仰)」ではなく醜悪を美化し美を醜悪化する「愛の証明」であったからだ。
作品においてプロテスタントデマゴーグとは「醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間」のことを言う。
その反対に原作「悪魔の手毬唄」の磯川警部と青池リカの間にはそのような男女関係の描写が全くない。
「獄門島」の美しく官能的な肉体関係には「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所は存在しない。
そこには「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明を完全弾圧するプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)が存在する。
それはある意味非常に凡庸な雌雄の男女関係である。
美人の玄人である遊女に入れあげた若旦那であるだけなのです。
ただ毎日放送制作「獄門島」には磯川警部が登場している。
しかし毎日放送制作「悪魔の手毬唄」には原作と違って磯川警部は登場していない。
私は此の両作品を錯覚してしまう。
何故ならこの毎日放送制作「獄門島」の磯川警部が毎日放送制作「悪魔の手毬唄」の磯川警部であるという錯覚である。
毎日放送制作「悪魔の手毬唄」の磯川警部に当たる存在は過剰に野暮ったい。
そしてその違和感が原作を読む時に「知識(doxa)の廃棄」へ人を容易く導く。
そこに入るのは純愛(信仰)であることが理解しやすい。
原作「悪魔の手毬唄」に磯川警部が登場していることが明確な違和感となっている。
出来のいい筈の毎日放送制作「悪魔の手毬唄」には磯川警部が何故か描かれていないことに作品の破綻と「知識(doxa)の廃棄」を視ることができる。
それが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の在り処となっている。
作品では純愛(信仰)が敢えて消されている。
若い有名女優の共演が華を添え「夏目雅子のグラマーガール」が話題を集めた作品であるらしい。
しかしその裏でその決定的な「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明の在り方が改変されている。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明が殺人の動機であることをどうしても隠蔽したいアンチキリストの存在がある。
しかし「知識(doxa)の廃棄」の存在(純粋理性批判)がそれを不可能にしている。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明が「最高善の神罰(黙示)」を起こすことを隠蔽しているが「知識(doxa)の廃棄」によってイマーゴ(真善美の回復)となる。
この事件は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明のために行われた「最高善の神罰(黙示)」の事件であった。
青池リカの「痴情の死」は実は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明のための「殉教」だった。
では「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明のための「殉教」とは如何なるものだろうか?
それが詐欺師青池源治郎ではなく磯川警部への純愛(信仰)と想像できる。
それには「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明をするために「最高善の神の証人」が必要となる。
それが「最高善の神の探偵」金田一耕助である。
そして「獄門島」では「子作り」が「男女の愛の証明」とされていた。
それは「醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間」でしかないだろう。
しかし「悪魔の手毬唄」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が「男女の純愛(信仰)の証明」だった。
それには「最高善の神の証人」が必要となる。
「最高善の神罰(黙示)」を見抜く「最高善の神の探偵」が必要だった。
青池リカが青池源治郎の子供を殺していった理由は男女の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明は「子作り」ではないという意味と見做すことができる。
そして彼女の殺人は最高善の神罰(黙示)として「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明がなされる。
詐欺師恩田幾三と同一人物である青池源治郎との間の「子作り」とその在り方としたあった「知識(doxa)」を全て廃棄してみると青池リカの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明しかこの猟奇連続殺人事件には残らないのです。
それは青池リカが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明のためにおこなった「最高善の神罰(黙示)」としての連続殺人事件の凶行であった。
その「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明は結局「最高善の神の探偵」であった金田一耕助が磯崎警部との別れ際に指摘した発言で全てが理解されるだろう。
しかし青池リカと磯川警部は実際にどの様に出会っていたかは不明である。

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」により通じあった男女の純愛(信仰)の在り方は彼らにしか知り得ないものだろうと想像される。

「迷宮事件」であった「詐欺師恩田幾三による青池源治郎殺害事件」からであるだろうか?
それともそれ以前からであるだろうか?
それ以前からであるとすれば青池リカによる青池源治郎(恩田幾三)殺害も磯川警部への「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明を犯行動機としていたのかもしれない。
それは「最高善の神罰(黙示)」である。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明のために行われた最高善の神罰(黙示)としての凶行だと想像できる。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が殺人の動機であるならこの青池源治郎(恩田幾三)殺害事件が迷宮入りした理由は其処にあったのだろう。
犯行動機が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明であり最高善の神罰(黙示)であるならそれを犯罪として「人の存在」が裁くことは可能だろうか?

2 横溝正史の仕掛けた青池リカの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明と「イマヌエル・カント〈純粋理性批判 第二版序文〉」の知的トリック

信に場を得させるために知を廃棄しなければならなかった。
したがってわたくしは、信仰に余地を求めるために、知識を除去しなければならなかった。

私はこの「悪魔の手毬唄」に「知識(プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間))」の「欠落」が示されていることを見たのである。
またこれは「欠落」ではなく「知識(doxa)の廃棄」を至上とする認識能力である。
「知識(プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間))」と「知(doxa)」は同じことを示している。
そしてその廃棄はソクラテスで有名な「無知の知(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」であり「信に場を得させるために知を廃棄しなければならなかった。」というイマヌエル・カントの「純粋理性批判」と同じなのです。
この最大のテーマが横溝正史原作小説「悪魔の手毬唄」の「知的トリック」となっています。
この作品はこの「知的トリック」を巡るミサ(Holy Communion)とそれに対する「敵対感覚(原罪)」の黒ミサ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の間に生じる聖戦の場となっているのです。
磯川警部の紹介で金田一耕助が訪れた鬼首村の湯治場「亀の湯」の女主人は青池リカであった。
しかし彼女はこの「連続殺人事件」の犯人であり、後にこの事件の全貌は「人の探偵」金田一耕助によって明らかにされる。
しかし彼女の「犯行動機(プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間))」は廃棄されることで「真の全貌(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」が信仰を入れる場所に確保される。
それはイマヌエル・カントの「純粋理性批判」の叡智の在り方となっています。
この仕掛けが最高の「知的トリック」なのです。
かなり高尚な仕掛けの作品なのはお解りいただけるでしょう。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明を「猟奇連続殺人という最高善の神罰(黙示)」にすることであり得た類まれな作品となりました。
この作品の成立は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の純愛(信仰)があってあり得る。
それはお互い(男女)が「最高善の神の選民」であり「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解する高尚な存在であることを示している。
最高善の神の愛する番(Holy Communion)の在り方を提示しているのです。

金田一耕助が推理した「知(プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間))」は廃棄を前提にしている。

3 「最高善の神の犯罪」は「最高善の神罰(黙示)」でありそれは「最高善の神の雷」である!

青池リカは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」によって生きる女であり一時の激情にかられて青池源治郎を殺害するような女ではないだろう。
この事件は金田一耕助の推理が「信仰を入れる場所の確保」のために「知識(doxa)の廃棄」をすることで可能となる。
それは金田一耕助に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明として解明される。
要は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持っていなければ解明できない「難解な事件」であった。

それが金田一耕助「最大の難事件」だったと言える。
そして「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」として解かれ「永遠の命」となった。
それを「映画」や「ドラマ」にすることには無理があったのかもしれない。
何故なら「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を描くには「純粋理性批判」の理解が必要となりそのトリック(最高善の神の仕掛け)を理解する「最高善の神の探偵」の金田一耕助が制作陣に真に必要とされるからです。
「人の探偵」の手に負える事件ではないのです。
これは「人の探偵」にとって「最大の難事件」であるが「最高善の神の探偵」の様に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解するものにとっては「理解し易い事件」でもあるだろう。
ただ「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」には罪はない。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「犯罪」ではないのです。
それが「連続猟奇殺人」であったとしても・・・。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が起こした「最高善の神罰(黙示)」が犯罪になるわけはない。
何故ならそれは「最高善の神の犯罪」となるからだ。
至上の存在である最高善の神を人の刑法で裁くことは出来ない。
では真に「最高善の神の犯罪」はあるだろうか?
「最高善の神の犯罪」があるとしたら一体誰が最高善の神を裁くのか?
人が最高善の神を裁くことは出来ない。
至上の存在を人が裁くことは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の弾圧であるからだ。
「最高善の神の犯罪」は「最高善の神罰(黙示)」でしかない。

この「知識(doxa)」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れるための場所を確保するために廃棄される。
金田一耕助はこの知的トリックを理解した上でわざと話しているのです。
磯川警部は凡庸其の物なのです。
しかしそれはその廃棄を前提とした「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の在り処だったのです。

要は金田一耕助が得意げに解明してみせた青池リカの動機(プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間))は実は「人の知(doxa)」でしかなかった。
しかし金田一耕助は最高善の神の知(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))を解する探偵である。
それは「人の知(doxa)」をイマヌエル・カントの「純粋理性批判」のように「知(プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間))」として廃棄することにより「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所を確保している。
金田一耕助の推理(プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間))によるとこの事件の様相は「鬼首村手毬唄」に沿い青池リカの「私怨」によって行った犯行とされた。
しかしそれは「人の知(プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間))」を取り除いてみれば「青池リカの〈カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)〉」によるものだったとなる。
それが「最高善の神の知」であり「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であった。

4 青池リカは下賤の身であるが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解する「高尚な女」

青池リカは「下賤の身」である。
そして「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解する存在でもあった。
それは「下賤の身」であるが「純愛(信仰)」を解することができる「高尚な存在」であることを示している。
湯治場「亀の湯」は「屋号」もない存在であり、そこの女中が「うちの屋号は笊屋です。」と発言している。
しかし屋号のない「亀の湯」はその笊屋より下に位置する存在なのです。
しかも青池リカ自身の境遇は実は完全に不明とされている。
「女道楽」という芸能活動をしていて青池源治郎と出会いここに流れ着いたというだけなのです。
その下賤の身の「亀の湯」より更に下の「謎の女」である。
「女道楽」は「女」の道楽ではなく「男」の道楽に供される存在であるだろう。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは程遠いのです。

5 青池リカには「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明をする必要があった。

そしてそれを解する存在は磯川警部が差し向けた「最高善の神の探偵」金田一耕助であり「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のメッセージとコミュニケーションは磯川警部に向かってなされたのだろう。

筆マメな女
さぐるように相手の顔を
しばらく会話がとぎれたあとで
金田一耕助はここに何かの 「知(プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間))」の廃棄と「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」があることに勘づいている。

犯行動機は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であるならその純愛(信仰)に関するものである。
何故なら単にこの「悪魔の手毬唄事件」が青池リカの「私怨」と男女の「痴情の縺れ」が「犯行の動機(プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間))」であるなら程度の悪い作品でしかない。

それが逆転し「傑作」とされる最大の理由はこの「犯行動機」が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の純愛(信仰)だったことによる。
しかしこれは金田一耕助の当初の「謎解き」が「全て逆転すること(廃棄される)」を示している。
そして最後に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明がなされる。
しかしそれは金田一耕助の指摘によって「磯川警部の〈カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)〉」として示される。
これは磯川警部が一見惚けた存在として描かれているが真実には「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解する資質を持つ存在であることを示している。
金田一耕助はそれを指摘した。
それができるのが「最高善の神の探偵」だけなのです。
磯川警部は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持っている。
金田一耕助はそれを見抜いていた。

6 「傑作」と「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の描き方

この事件が「傑作」とされるのは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が「犯行動機(最高善の神罰(黙示))」であるからです。
では青池リカの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の在り方は如何なるものであろうか?
このことは実は全く書かれていない。
ただ「純愛(信仰)」を解する存在として「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持つものをプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)は貶め弾圧する。
それは堕天使ルシフェルの存在である。

その男と世帯を持ったのは下賤の女にとって仕方のない境遇だったのだろうと推察される。
しかし彼女は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解する高尚な女であった。
この作品に登場する「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は青池リカと磯川警部にありそして金田一耕助の存在は純愛信仰の最高善の神の証人である。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解する存在は稀有である。
青池リカの亭主である青池源治郎は複数の女を孕ませるプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)であり青池リカとの間で「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のメッセージとコミュニケーションはあり得ない。

7 横溝正史の知的トリックの正体-金田一耕助は「最高善の神の探偵」

ここが横溝正史の知的トリックだった。
「信に場を得させるために知を廃棄しなければならなかった。」という理由で敢えて〈知識〉が書かれていない。
又「どうでもいい知識(doxa)」が書かれている。
廃棄することを至上とする知識であり金田一耕助は信仰を解する最高善の神の探偵である。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の純愛(信仰)があることが作品に明確に示されている。
これはイマヌエル・カントの「純粋理性批判 第二版序文」なのです。

8 「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のない夫婦関係と「純愛(信仰)」

ただ言えることは青池リカには「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解する高尚さがあった。
しかし亭主であった青池源治郎にはその資質はありえない。
何故ならそれは複数の女を孕ませた詐欺師の男は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め弾圧するプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)であるからです。
要は劣等な存在がプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)として鬼古部村を扇動し起こした詐欺事件だからです。
他の孕んだ女にも「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」はないだろう。
それは純愛(信仰)ではないからです。
そして青池リカ自身は「下賤の身」であったのです。

9 青池リカの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のメッセージとコミュニケーションは一体誰に向けられたものであるのか?

「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解する「知人」である筈です。

原作小説エピローグの「ちょっと一貫貸しました」について

リカを愛していた磯川警部。
しかし「純愛(信仰)」とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解する間であり得る。
それはリカが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解する資質がありそして磯川警部も「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解する資質があったことを示している。
あなたはリカを愛していられたのですね。

では最後に青池リカの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のメッセージとコミュニケーションがなぜこのような形になったのだろうか?

10 これはこの「手毬唄の考察」で理解されるだろうと想像する。

鬼首村手毬唄考

此の殺人事件は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の名前如何によって寓意が示されている。
それは「信仰を入れる場所の確保(知の廃棄)」が名前に示されているかということであり「信仰」に関する名前になっているかで判断される。

この手毬唄による猟奇連続殺人事件の在り方は「種蒔きのたとえの解釈」を想起させる。

10-1 一羽の雀

泰子の「泰」は枡の中の液体の意味であり、人の内面が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とはなっていない。
これは枡の中の液体というプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の名前でしかない。
これは「醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間」の名前なのである。
「信仰を入れる場所の確保(知の廃棄)」を示していない。

泰〓㤗〓
〓水(氺)部 〓10画 〓 5画 〓
〓3457 〓91D7 〓4259
〓タイ
タイ 〓 tài
【〓】俗字
【㤗】俗字
➊おおきい。きわめて大きい。広い。
➋ゆたか。
➌やす‐らか。やす‐い(やすし)。落ちついている。のびのびしている。安心できる。〔論語、子路〕君子泰而不驕(クンシはタイにしておごらず)。➡君子は落ち着いていて、威張らない。
➍ゆるやか(寛)。
➎通る。
➏おごる。㋐おごりたかぶる。つつしみがない。㋑ぜいたくする。
➐はなはだしい。はなはだ。=太。
➑なめらか。
➒山名。→泰山。
➓易(エキ)の六十四卦(カ)の一つ。☷☰乾下坤上(ケンカコンショウ)。安泰の象(かたち)。

〓国名。タイ国。インドシナ半島にある王国。旧称、シャム(暹羅)。
〓あきら・た・たい・だい・とうる・とおる・ひろ・ひろし・やす・やすし・ゆたか・よし

形声。甲骨文は、水+大〓。音符の大は、のびやかな人の象形。水につかって体のよごれを落とし、ゆったりしている人のさまから、やすらかの意味を表す。古文の夳(太)は、その変形。篆文は収+水+大〓で、収は、両手の意味、両手で水をすくい体を洗うさまを表す。汰と同字であったが、汰は主として、よなげるの意味を表し、泰は、やすらかの意味を表す。
〓安泰・否泰

『新漢語林』 大修館書店

10-2 二番目の雀

文子の「文」は文章の文ではなく秤屋の象徴を示している。
文の意味ではなくその文字のプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)が名前の由来なのです。
これも「醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間」の名前なのである。
「信仰を入れる場所の確保(知の廃棄)」を示していない。

秤屋のマーク
曲尺と分銅を組み合わせたマーク
曲尺と分銅の上下を逆にすると「文」の文字のプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)となる。

文〓
〓文部 〓 4画 〓 0画 〓1年
〓4224 〓95B6 〓4A38
〓ブン、モン
〓ふみ
〓〓ブン・〓モン 〓 wén
〓〓ブン・〓モン 〓 wén(wèn)
➊あや。模様。かざり。いろどり。外見の美。外面的修飾。↔質。〔論語、雍也〕質勝文則野(シツブンにかてばすなわ(は)ちヤなり)。➡実質が外見よりまさっていれば、卑屈になる。
➋あらわれ。現象。「天文」
➌すじ。すじみち。
➍のり。法律。礼儀。
➎もじ。文字。「篆文(テンブン)」
➏ことば。語句。文句。
➐ことばをつづって、まとまった意味を表すもの。特に文章をいう。「詩文」「名文」
➑ふみ。書いたもの。文書。書物。手紙。
➒学問。芸術。道徳文化。↔武。「人文」
➓よい。美しい。みやびやか。「文雅」
⓫仁徳。めぐみ深い徳。

➊かざ‐る。㋐美しくする。りっぱにする。㋑うわべをかざる。あやまちをとりつくろう。〔論語、子張〕小人之過也(ショウジンのあやまつや)、必文(かならずかざる)。➡小人が過ちをすると、必ずうわべをかざる。
➋いれずみをする。
〓➊モン。㋐一厘の穴あき銭。㋑たび・くつなどの大きさを表す単位。一文は二・四センチメートル。➋ふみ。手紙。
〓あき・あや・いと・すじめ・とも・のぶ・のり・ひさ・ひとし・ふみ・ふみし・ふむ・ぶん・み・や・やす・ゆき・よし
〓文屋(ふんや)・文挟(ふばさみ)・文色(あいろ)・文身(いれずみ・ほりもの)・文旦(ぼんたん)・文目(あやめ)

象形。人の胸を開いて、そこに入れ墨の模様を書くさまにかたどり、模様・あやの意味を表す。文を音符に含む形声文字に、彣(ブン)・紋・雯(ブン)などがある。
〓案文・逸文・韻文・回文・下文・雅文・漢文・勘文・戯文・今文・金文・空文・契文・経文・芸文・原文・公文・好文・高文・古文・互文・祭文・作文・冊文・雑文・散文・死文・時文・赦文・主文・上文・冗文・縄文・証文・人文・崇文・成文・正文・省文・聖文・誓文・績文・節文・達文・地文・天文・同文・俳文・売文・白文・繁文・煩文・碑文・飛文・表文・復文・不文・変文・本文・明文・訳文・右文・羅文・和文

『新漢語林』 大修館書店

10-3 三番目の雀

千恵子の「千」が鍵で「恵」が錠前のプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)と見ることはできる。
しかし「恵」があるということは内面に「最高善の神の愛」があるという意味にもなり得る。
「恵」はプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の言葉にはなり得ない。

「恵」は「最高善の神の恵(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」を示していて「恵」があるのは大空ゆかり(千恵子)だった。
三番目の雀の大空ゆかり(千恵子)は恩田幾三(青池源治郎)の子でありながら青池リカの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明の犠牲とならなかった。
それは「最高善の神の恵(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」の名前のためだと思われる。
「最高善の神の恵(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」は内面にある。
「信仰を入れる場所の確保(知の廃棄)」を示している。

それは大空ゆかり(千恵子)が唯一人恩田幾三の種の私生児の賤民として鬼首村で生きることになったためである。
楡家の娘も由良家の娘も実は恩田幾三の種の私生児でありながらご大家ということでそれを秘匿し千恵子一人がこの村の生贄として一身に責めを負うことになったのです。
これはご大家が恩田幾三の種の私生児である千恵子を生贄としてスケープゴートにした観がある。

そして青池リカも夫を殺された被害者として大空ゆかり(千恵子)を賤民として遇した筈だ。
この試練が千恵子への「最高善の神罰(黙示)」が下されなかった理由とも考えられる。
また千恵子はもともと恩田幾三の子ではなかったという「仮説」もあり得る。
それは日下部是哉というマネージャーは市川崑映画では「諂った人物」として描かれているが横溝正史の原作では実に「貫禄ある人物」として描かれている。
全く違うのです。
そしてその日下部是哉と大空ゆかり(千恵子)の母の春江は夫婦関係と言ってもよく、大空ゆかり(千恵子)も日下部の娘のように描かれている。
この円満な親子関係が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」ではないという指摘は可能だろう。
しかしこの過剰な円満さは何を物語っているのだろうか?
「醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間」というより純愛(信仰)の存在を垣間見させる。
大空ゆかり(千恵子)の「最高善の神の子(信仰)」の資質と言えるものである。

え【恵・慧】 ヱ
(呉音)〔仏〕(梵語prajna 般若)真理を明らかに知る精神作用。宗教的英知。「戒・定(じょう)・—の3学」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

恵み
(a) favor; (a) benefaction; (a) bounty; (a) kindness
◆神の恵み
(a) blessing; grace

『自然科学系和英大辞典 増補改訂新版(第4版)』 小倉書店

しゅくふく【祝福】
benedictio; blessing
祝別ともいう。広い意味では,人から神への賛美と同時に,神から人への恵み,罰の免除などの意味を含む。旧約聖書では,族長ヤコブ,占者バラム,モーセなどによる祝福について語られている。ユダヤ教では家長による祝福がある。一方,キリスト教典礼上,人や物を聖とする祈りとその儀式も祝福,または祝別と呼ばれ,それらのうえに神の恵みをもたらすものとしてとり行われる。カトリック教会では祝別者は司祭以上の聖職者で,教皇,司教に留保されている一部のものを除いてすべての司祭が祝別する権利をもつ。ローマ定式書によると,祝別は対象物を恒久化せず,人に益する使用のための場所,物もその対象となる。信徒でなくても受けられるが,規定された祝別文によることが必要である。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

おんけい【恩恵】
charis; gratia; grace
恩寵,聖寵,恵みとも訳される。人間に⇨救済をもたらす神の恵みのたまものをいうキリスト教神学の基礎概念。その解釈については各教会,各学派で異なる。中世神学によれば,人間は有限の目的のため創造され,これに必要な能力がそなえられた(これを自然という)が,さらに神の無償の好意によって,無限な神自身を知と愛の目的とするよう高められ,その達成に必要な性質や能力を新たに与えられた。この性質,能力を恩恵,新しい次元全体を超自然または⇨義の状態という。人類は全体として神にそむき(→原罪),この超自然の状態を失ったが,イエス・キリストの受肉と死と復活によってこの状態を回復した。それゆえ,恩恵はさらに罪のゆるしをもたらし,「キリストの恩恵」とも呼ばれる。恩恵が衣服のように人間本性に異質であれば,それによる救済は単に外面的なもの,強いられたものにすぎなくなる。逆に本性に内在的であれば,当然のものとなり,神からの絶対的無償性がそこなわれる。後者の線を強調したのが⇨ペラギウス派で,それによれば創造がそのまま恩恵であり,救いは結局人間の自力によるものとなり,⇨律法主義,パリサイ主義(→パリサイ派)につながる。前者を推し進めればマニケイスム(→マニ教)で,人間本性は根源的に堕落,悪化,破壊されたままにとどまり,救いは「人間の」救いではなく神の一方的意志行為にすぎなくなる。この緊張関係は,すでに新約の時代から,信仰による義を強調した⇨パウロ,善業の必要を説いたヤコブ書に象徴されるように,教会の全歴史を通じて存在し,恩恵は自然を破壊せず,むしろそれを前提とし,完成するとの公理にもかかわらず,問題は完全に解決されることなく,恩恵と自由意志の問題として今日まで論争されている(→恩恵論争)。宗教改革においてはカトリック側はペラギウス的傾向にひかれ,プロテスタント側はマニケイスム的傾向に傾いて信仰のみによる義を強調し,恩恵は堕落し破壊された人性を内在的に回復高揚することなく,単にそれによって神が人間を義とみなすという⇨義認説をとった。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

10-4 青池里子の死

三番目の雀に関して大空ゆかり(千恵子)の代わりに青池里子が犠牲となった。

しかし里子は勘違いをしていた。
里子の痣のために母は劣等感を感じて起こした殺人事件だと解釈した。
しかしそれは大きな間違いだった。
里子は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」ではない。
金田一耕助や磯川警部のように「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解す資質がない。
里子はプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の女であった。
それは名前にも顕れている。
兄の「歌名雄」と妹の「里子」の名前の違いがありすぎる。
「歌名雄」と言う名前は本当に考えて付けられた珍しい名前である。
「歌名雄」と言う名前は他では見たことがない。
それに比べて「里子」の名前は凡庸で平凡すぎる。
最高善の神の恵(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))はあり得ない名前である。
しかし「歌名雄」には最高善の神の恵(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))を感じる。
「歌」と「名」があり、それは「詩篇」と「ダビデ」の揃い踏みを示した男の名前である。
この名前はそういう意味でかなりできた名前である。
その点で「里子」には痣があり「偶像」は醜いが「内面」には最高善の神の恵(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))があるという理屈すらない。
全くの対照的は兄妹の名前である。
どうしてここまで差ができたのだろうか?
青池源治郎のプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)が完全に判明した後に生まれた子供だからだろうか?
それとも別の理由があるのか?
「歌名雄」は誰の子供なのだろうか?

また結局は三番目の雀が「里子」であって然るべき理由がある。
里子は痣を人目に晒すのを嫌って土蔵の中に暮らしていた。
それ自体がプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の認識であり内面に最高善の神の恵(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))を持つものの感覚とは違う。
「信仰を入れる場所の確保(知の廃棄)」を示していない。
そしてその土蔵とは鍵と錠前を示していると見做すことができる。
土蔵の鍵と錠前が三番目の雀のいう錠前屋の娘となる。

さと【里】
①人家のある所。ひとざと。村邑(そんゆう)。
②律令制の地方行政区画の一つ。→り(里)2。
③宮仕えする人の自家の称。⬌内(うち)。
④妻・養子・奉公人などの実家。「—帰り」
⑤(寺に対して)俗世間。在家。
⑥養育料を添えて、子供を預けること。また、その家。
⑦(都に対して)田舎(いなか)。在所。
⑧遊里。くるわ。「—通い」
⑨やぼ。また、やぼな客。
⑩(普通「お—」の形で)育ち。素姓(すじょう)。「お—が知れる」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

ど‐ぞう【土蔵】 ‥ザウ
①四面を土や漆喰(しっくい)で塗った倉庫。つちぐら。
②〓土倉(どそう)に同じ。太平記(12)「京中の—共を打破つて財宝を運び取りける間」
⇀どぞう‐づくり【土蔵造り】
⇀どぞう‐やき【土蔵焼】
⇀どぞう‐やぶり【土蔵破り】

『広辞苑 第六版』 岩波書店

10-5 「ゆかり御殿」焼失

青池リカは「里子」を殺した後にも「大空ゆかり(千恵子)」の建てた「ゆかり御殿」を焼き払い、そして追い詰められて沼に頭から突っ込みみっともなく死んだ。

彼女の至上命令は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明でありそれがどうして「ゆかり御殿」への「放火」となるのだろうか?

これは大空ゆかり等を狙った犯行(最高善の神罰(黙示))ではなく「ゆかり御殿」というプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)への雷だった。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明としてあった。
そして青池リカはその「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明にだけ拘って恥も外聞もなくみっともなく死んでいった。

それは「見立て殺人」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」への拘りが純愛(信仰)による「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明への拘りとしてあった。
これは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の在り処の問題として結局は旧約聖書サムエル記「ダビデとゴリアテ」となり新約聖書「イエス・キリスト」となり得るのだろう。

青池リカの連続殺人は「ダビデとゴリアテ」のカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の聖戦だった。

最後に 「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「永遠の命」となった!

この物語は青池リカの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明の殺人事件(最高善の神罰(黙示))だった。
青池リカは下賤の身であり殺人犯として磯川警部とは結ばれることはなかった。
しかし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のメッセージとコミュニケーションがあった。
その「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の証が最高善の神罰(黙示)の使者との間で「永遠の純愛(信仰)」を可能とした。
結局は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のない青池源治郎の子々孫々を殺していくことで純愛(信仰)を証明したとしか言いようがない。
彼女は実は他と違って抜きん出て高尚な存在だった。
しかし青池リカは下賤の生まれの女だった。
又は「高尚故に下賤に貶された女(ペルソナ〈信仰から形成されるオリジナル〉)」だった。
これは仮説だが青池源治郎と青池リカの第一子「歌名雄」は青池源治郎の子ではないのではないだろうか?
歌名雄は青池リカが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持った相手との間に儲けた純愛(信仰)の子供だったのではないかという想像である。
しかし第二子「里子」は青池源治郎の子供だったと想像される。
それは里子の「痣」である。
「孕み女が火を見て痣ができる」というのは非科学的であり得ないことだ。
しかしそれが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解する青池リカが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持たない相手との間に儲けた「穢れた子供」への「最高善の神罰(黙示)」だと考えればそれは理解されるかもしれない。
青池リカには「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解する高尚さがあるということから推察されるだろう。
横溝正史の意図はそこにあったのではないだろうか?

青池源治郎の子々孫々をゴリアテとして殺していったのがこの「最高善の神罰(黙示)」の事件である。
そしてそこまで純愛(信仰)に拘った理由が磯川警部の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のためだったのだろう。
それはダビデでありイエス・キリストの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のためとも言える。

彼女の一連の行動は全て「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に収斂される。
それは磯川警部の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」へ向けられた純愛(信仰)であった。
最後に一言蛇足を付け加えれば青池リカが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を向けた「歌名雄の父親」は磯川警部かもしれない。

ただどうして其の様になったかは一切書かれていない。
そこにあるのは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明としての純愛(信仰)である。

このような「最高善の神罰(黙示)」への強烈な拘りがあり得たのは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の相手がいたことを物語っている。

そして磯川警部と金田一耕助の別れ際の名シーンで「純愛(信仰)」は唐突に語られた。
その唐突さによって「純愛(信仰)」の在り処を「最高善の神の探偵」が見事に指摘してこの事件は幕を閉じていく。

そして金田一耕助に「あなたは青池リカを愛していた」と指摘された磯川警部は実はその「知識(doxa)を廃棄すること」によって「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所を確保する。
「青池リカが磯川警部を愛していた」という「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「最高善の神の探偵」金田一耕助を「最高善の神の証人」とすることによって「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明が示されそれは「最高善の神の証」とされた。
それが「最高善の神の探偵」金田一耕助の役目だったのです。

彼女は過剰にみっともなく死んだ。
それは彼女が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明だけに拘ったことの顕れであった。

みっともなく死んだ。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明だけに賭けた生き様だった。
毎日放送制作「犬神家の一族」の青沼静馬の死に様です。
しかしこれは横溝正史原作小説の青池リカの死に様と同じなのです。
青沼静馬と青池リカは死に様は同じであっても生き様は全く違っている。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持って生きたのは青池リカなのです。
犬神家の一族
青沼静馬(偽スケキヨ)の死に様

何故青池リカはここにきて急に「最高善の神罰(黙示)」による「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明に拘ったのだろうか?

それは磯川警部が差し向けた金田一耕助の存在が「最高善の神の探偵」であったからだ。
この事件は「最高善の神の探偵」の存在によって〈最高善の神を証人とした「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明〉のために行われた。
それは最高善の神の純愛(信仰)となり「永遠の命」となる。

これは三対神徳(愛徳と望徳と信徳)を成立させる。

キャリーイエールヴィスコンティ
三対神徳

あいとく【愛徳】
caritas
カトリック神学で三対神徳(信徳,望徳,愛徳)の一つとされるもの。新約聖書のなかにあるギリシア語の agapēの翻訳であるが,カトリック神学の概念としては,神の愛が人間に与えられるのに呼応した,神に対する人間の愛をいう。⇨アウグスチヌスは,愛徳を人間を神へと統合させる徳とし,中世神学者,特に⇨トマス・アクィナスは,愛徳を他のすべての徳の基礎であり根拠であるとした。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

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アガペー
agapē
新約聖書(特にコリント人への手紙1,ヨハネ福音書,ヨハネ書簡など)で愛を意味するギリシア語。ラテン語では amorあるいは caritasと訳される。カトリック神学では caritasは信仰 fides,希望 spesと並ぶ基本的な徳の一つであるが(→愛徳),新約聖書のアガペーは,神の愛,キリストの愛,キリスト信者同士の愛のすべてについて用いられる。キリスト信者同士の愛をさすときには,本能的,衝動的愛をも意味するエロス erōsと区別して用いられており,パウロはこれを最大の徳と呼んでいる(コリント人への手紙1)。またアガペーは初期のキリスト信者の親善,博愛のための会食をもいい,これは初め聖餐式と緊密な関連をもっていたが,3世紀頃から次第に分離され,キリスト教典礼とは別の会食となった。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

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そしてこの事件は枢要徳(正義と勇気と節制と思慮)によって決行された。

キャリーイエールヴィスコンティ
枢要徳

これは七元徳の崇高な最高善の神罰(黙示)事件であったことが証明される。

タロット「節制」とは最高善の神に「則天去私」を示し、タロット「力」は「勇気」を示す。
そしてタロット「吊るされた男」は「思慮」を示している。
タロット「正義」は「最高善の神(三対神徳)」によって為されるのです。

tem・per・ance [témpərəns]〓
―n.
1 (行為・言葉などの)控えめ,穏健,中庸;節度,自制:〓
2 節制,(特に)節酒:〓
3 禁酒. cf. PROHIBITION 2,3:〓
―adj. ⦅叙述的⦆ ⦅話⦆ 禁酒主義の:〓
[⇀TEMPER]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

tem・per・ance /tέmp(ə)rəns/
―n 《言動・思想・感情などの》自制されていること,控えめ;節制;節酒,禁酒〓
[AF<L;⇒TEMPER]
『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社

『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社

temperance (tem′pĕr‐ănts)〓
[L. temperantia, moderation].中庸,節制(すべてにおいて適度であること,しかしながらアルコール飲料を節制すること).
『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

この「最高善の神罰(黙示)」の事件は「磯川警部と青池リカ」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の存在証明として行われ「永遠の命」となった。

くい‐あらため【悔い改め】
〔宗〕(penitentia ラテン)キリスト教で、神に対して罪を悔い、心を改めて霊的生活によみがえる誓いをすること。悔悛(かいしゅん)。
『広辞苑 第六版』 岩波書店

『広辞苑 第六版』 岩波書店

「悪魔の手毬唄」目次

横溝正史

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