【聖伊藤和典信仰】【魔法の天使クリィミーマミ】「森沢優」と「マミ」の「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」は〈ルカによる福音書〉の「種蒔きの譬えの解釈」を示している。
特集「魔法の天使クリィミーマミ」を愛するすべてのものへ
イマーゴ(真善美の回復)を付け回し敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を狙う魔物に対する「護符」
最高善を躓かせる仕掛けとしての敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はサタン(最高悪)の計略でありアンチキリストの純粋無垢で穢のない欲望という屁理屈(前衛詐欺)である。
それは一見クリーンイメージの人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する天然邪悪の概念である。
それは人間の悪臭を発散しそれを高価な香水で誤魔化している。
聖なる香水とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり聖水と呼ばれる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック』であった。
伊藤和典の原作作品
「綺麗な心」を「知の廃棄」として「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所の確保とした秀逸さは伊藤和典にありました。
確かに森沢優やマミのキャラクターデザインを担当した高田明美を称賛するファンが多くいることは存じております。
しかしこの成功したキャラクター形成は「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」の在り方ではなく信仰(内面)の在り方によっているのです。
そしてそのアイデアは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としてある「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」としての最高善の神の信仰にあるだろう。
しかし「敵対感覚(原罪)」を形成し最高善の神の信仰に反逆するのは堕天使ルシフェルでありアンチキリストである。
それは「綺麗は穢い」「穢いは綺麗」と言うマクベスの三人の魔女のようになるであろう。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)は「綺麗は綺麗」「穢いは穢い」であるからそれに反逆することを示しています。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は最高善の神の信仰となる。
それは綺麗な心(信仰を入れる場所の確保)に受肉する純愛信仰の叡智である。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
シェイクスピアの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」
私は拓殖大学外国語学部英米語学科2年時にセミゼミ「シェイクスピア入門」を受講した。
担当の先生は「シェイクスピア全集」を翻訳されていた松岡和子さんの友人だと語っていた。
私は柄谷行人の「マクベス論」とロマン・ポランスキー「マクベス」、黒澤明「蜘蛛巣城」、黒澤明「乱」、ロシア映画「リア王」、オーソン・ウェルズ「オセロー」、ドラマ版の「ハムレット」、松岡和子翻訳、福田恆存翻訳などを参考にして「四大悲劇」を中心にレポートを書いてそれなりの評価を頂いた。
この講義ではシェイクスピアの原文の成り立ちと英国版のドラマビデオや映画作品などを鑑賞しまた独自に参考映像を持参して視聴覚室で鑑賞していた。
それなりに「シェイクスピア入門」になったと思う。
※秋篠宮家の傾倒される国際基督教大学(ICU)は「超教派(エキュメニカル)」という教派のプロテスタントです。
プロテスタントについての私見
"Fair is Foul, and Foul is Fair. "
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. "
単純に言えばカトリックに抗議してプロテスタントと称した存在である。
しかしその実態は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」ではなく、「贖罪信仰」と呼ばれる「生贄の論理」が本質であるだろう。
それは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」としての在り方を問うのではなく、ナザレのイエスを「神の子」として「贖罪の供犠」とし「崇拝」する在り方となっています。
私は告白するがここに「錯誤」があった。
カトリックの方が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」でありフロイトの言う「至高の抽象化の高み」であった。
それは自らの罪を〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉で贖罪する教えであった。
プロテスタントの方は「神の子」を「贖罪の供犠」とするフロイトの言う「原始的段階に近い」であった。
それは自らの罪を「超特別扱い」として身代わりにイエス・キリストが贖罪するという屁理屈(前衛詐欺)であった。
私の感覚だと一人(個人)で「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」をするなら当然に「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」としての在り方をイマーゴ(真善美の回復)とすると考えていた。
だから一人(個人)で信仰するプロテスタントがカトリックだと錯乱して認識していた。
しかし認識の「錯乱」の正体はカトリックの方が個人信仰「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」でありプロテスタントは個人崇拝(超特別扱い)であるという一人(個人)に関する認識の致命的な差異にあった。
これはプロテスタントがイマーゴ(真善美の回復)の弾圧としてあることを示しています。
当に文鮮明の統一教会がプロテスタントの代表だろう。
それは日本国家が秋篠宮家の皇位継承となった場合にそのように天皇家が「至高の抽象化の高み」ではなく「原始的段階に近い」として最悪の「供犠」である「生贄の論理」を至上とするディストピア(超特別扱い)を形成することを暗示しているかもしれない。
私は天皇家の長女である愛子様の皇位継承を切に願っています。
プロテスタントは駄目な宗教だ。
秋篠宮家の国際基督教大学(ICU)への傾倒によって今後の皇室と日本国家の先行きに暗雲が立ち込める予感がする。
もし秋篠宮家がキリスト教系大学を希望されるのであればカトリック系大学を選ばれるべきであった。
何故プロテスタントだったのか!
それは「ティアラ」にある。
黒田清子様の「ティアラ」を継承された天皇家の愛子様の示すところは「ルパン三世カリオストロの城」の「クラリス・ド・カリオストロ」の「ティアラ」と推察される。
「黒田清子様」も「天皇家の愛子様」も宮崎駿の「クラリス・ド・カリオストロ」である。
その「ティアラ」が示しているのは「カトリック」への信仰である。
そしてそれへの「敵対感覚(原罪)」の形成がプロテスタント(秋篠宮家)であった。
秋篠宮家の程度はあまり良くないと推察される。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
※森沢優の通学する「私立セントレミー学園小等部」とは「カトリック系学校」と思われる。
理由は「セントレミー」は「Saint-Remi」でありフランスの「サン=レミ旧大修道院(Basilique Saint-Remi)」を示していると考えられるからである。
又日本において「学園」の表記は一般にカトリック系学校を示しているとされています。
そして芸術家(美術家)ヴァン・ゴッホは「Saint-Remi」の「精神病院」に入院したと言われています。
当然だがカトリックの信仰はオタク商売(超特別扱い)とは違う。
メイドカフェの「御主人様!」と「カトリック」の信仰は「プロテスタント」と「カトリック」の違いとなる。
ジャンヌ・ダルクがフランスの「カトリック」の信仰から出てくるのは有名な伝説である。
ゴッホ 聖書絵画の模写
フェザースターの方舟
「魔法の天使クリィミーマミ」が類まれな影響力を持ちえた理由とは?
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の「森沢優」と「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の存在である「マミ」の関係の普遍的問題にあった。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の貶めと弾圧としてある「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の中で「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所の確保(イマヌエル・カント「純粋理性批判」)を可能にした。
その奇跡の在り方が類まれな作品制作とその傑作を可能にした。
私が「魔法の天使クリィミーマミ」を観たのは1984年と記憶しています。
それは小学生6年生から中学生1年生になる年齢です。
しかし私が本格的にこの作品を鑑賞したのは1985年から1986年だっただろうと記憶しています。
1986年は私にとって中学校の最終学年に上がる年でありそれは「日本の義務教育の終了」を意味しています。
それによって多くの中学生は「高校受験勉強」をすることになるのです。
ちょうど其のあたりに私は「魔法の天使クリィミーマミ」を再放送で熱心に鑑賞していました。
最重要の資質
この作品の良さはなかなか複雑で難解に見えます。
何故複雑なのかという疑問に簡単に答えると「内面(信仰)」と「アイドル(呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝))」がテーマとなっているからです。
そして「内面」とは「信仰が問われること」であり、「アイドル」とは「純愛信仰」を貶め弾圧してある偽善・陰険(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)でありそのような「劣等な感覚」で威張る「傲慢感覚」の肯定としてあるのです。
それが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の間にある対立なのです。
それは簡単に言えば最高善の神の貶めと弾圧としてある「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」が形成する人気アイドル歌手の「内面(信仰)」に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を確保しているという絶対矛盾の在り方です。
そしてその「内面(信仰)」は「少女」でありその「少女」は「心」が「特別に綺麗な存在」であるという不思議な物語なのです。
それはフェザースターの妖精ピノピノから貸与された魔法によって可能となります。
しかしそれは「ペルソナのその可能性の中心(信仰から形成されるオリジナル)」なのです。
「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」は信仰(内面)が齎す奇跡の在り方であり魔法(フェザースターの聖櫃)なのです。
「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の関わりは「人類の普遍的テーマ」でありこの作品はそれを見事に描いています。
簡単に「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の貶めと弾圧となる仕組みを説明します。
「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」とは「内面(信仰)」を問うことの禁忌としてありえます。
「内面(信仰)」を問うことを可能にしてしまえばそれは「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」とは言えません。
その人の「アイドル」の「内面(信仰)」を問うことはその人を「真に問うこと」です。
もしその人を真に問うて賛美するならそれは「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」ではなく「真にその人の賛美者」となることを示しています。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」です。
「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の崇拝と「真に人を賛美すること」は全く違うのです。
どちらが最重要でしょうか?
真に素晴らしい人を真に素晴らしいと賛美することに決まっています。
「魔法の天使クリィミーマミ」は『虚飾のアイドルタレントの成功譚』でありながら『カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の聖者伝』として成立しているのです。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を弾圧する「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の価値観の中で森沢優に「Holy Communion」を入れるための〈綺麗な心〉があるという理由で「フェザースターの妖精ピノピノ」は彼女に魔法を一年間貸与します。
しかしそれによって「美しい人気アイドル歌手」となるのです。
「内面(信仰)に〈カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)〉を入れるための〈綺麗な心〉がある」という理由で魔法を手に入れた筈なのにアベコベに「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を弾圧する「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」から崇拝されることになる話なのです。
そこが「面白い矛盾」なのです。
しかも「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を弾圧する「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」は彼女の内面(信仰)にある〈綺麗な心〉の存在を知りません。
マミが森沢優という少女であり「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を確保する場所としての〈綺麗な心〉を持っていることを他の登場人物は全く認識できないのです。
人気アイドル歌手となった彼女は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を弾圧する「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」から崇拝され賛美されます。
※森沢優の「心が綺麗」とされる一番わかり易いシナリオ設定はこの作品の第一話「フェザースターの舟」にあります。
この舟は完全に方舟であり「聖櫃(内面)」を示しています。
この作品の第一話において遭難した「フェザースターの方舟」を森沢優は目視してしまいそれをひたすら追い掛けるストーリーです。
それによって方舟は森沢優に目視で認識されそれは「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を嫌悪する繊細で敏感に感じる〈綺麗な心〉の実存を示します。
それは「聖櫃(内面)」を認識する「ダビデ」の資質なのです。
「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を繊細に嫌悪することは「聖櫃(内面)」にカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が受肉する資質なのです。
その隠喩として「フェザースターの方舟」の彼女の目視は重要な暗示なのです。
その御礼としてフェザースターの妖精ピノピノは森沢優に魔法を一年間貸与するのです。
この設定は「方舟」という「聖櫃(内面)」を意味しています。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
これは〈心が綺麗な人〉ではないと方舟(聖櫃)は見えないということを暗に示しています。
方舟(聖櫃)は心が綺麗な人が見るものであり〈心が綺麗な人〉でなければ方舟(聖櫃)は見ることができない。
ここにある「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の錯誤
劣等感覚で威張る「傲慢感覚」という「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」が「純粋な心」であるという意識が「イノセント(無辜)」の賛美である。
要は生まれながらの「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」が「イノセント(無辜)」とされる。
しかし「イノセント(無辜)」の内面(信仰)には方舟(聖櫃)は決して見えない。
「イノセント(無辜)」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れるための〈綺麗な心〉ではないからだ。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が聖櫃(内面)であるからだ。
イノセント(無辜)には信仰を入れる場所が確保されていない。
ここがこの作品の試金石である。
イノセント(無辜)は「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」であるからだ。
そしてこの作品に登場する「マモちゃん」はこの作品の原作者と言える伊藤和典の盟友の押井守と言われています。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. "
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. "
後に機動警察パトレイバーのTVシリーズや話題となった劇場版二作を伊藤和典脚本と押井守監督のコンビで製作した。
しかし押井守監督の高評価されたアニメ映画「イノセンス(INNOCENCE)」は伊藤和典の「森沢優」の〈綺麗な心〉が示す「イマヌエル・カント」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)を入れる場所」とは全く反する「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」としての「イノセント(無辜)」である。
押井守は「イノセント(無辜)」のヘーゲルの作家であり、伊藤和典は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れるための〈綺麗な心(イマヌエル・カント)〉の作家であると言える。
ここではっきりと判明した。
最高善の神への恭順はイマヌエル・カントの伊藤和典であり彼はその繊細な感性で最高善の神を感じています。
しかし押井守の映画監督としてある繊細な感性は最高善の神を感じていない。
それは聖痕の徴の受肉した芸術家の真似をした「猿」を意味する。
何故なら「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を貶め弾圧しているからだ。
そのような「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」は繊細な感性の振りをしている似非芸術家であり「お猿さん」なのです!
「お猿さん」が最高善の神を感じればその「お猿さん」は「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」であり押井守より「高尚な存在」と言える。
【最高善の神を感じない「猿」がヘーゲルなら「最高善の神を感じる存在」は全てイマヌエル・カントである。】
押井守 "Fair is Foul, and Foul is Fair."("Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. ")
伊藤和典 "Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."("Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty.")
人気女性アイドルの特殊詐欺の肯定とその自らの動機付けに「魔法の天使クリィミーマミ」を利用することの「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」に対する最高善の神の雷
よく人気女性アイドルが「魔法の天使クリィミーマミ」に憧れてアイドル芸能人になったと発言しています。
でも私は疑問に思います。
彼女等は「少女」とは〈心が綺麗〉であるという前提に依って「自ら」が「マミ」になります。
しかしこのアニメ作品を本当に好きで鑑賞した私にとって「多くの少女」は〈心が綺麗〉ではなく、〈心が綺麗〉な「森沢優」だけが「遭難したフェザースターの方舟」を目視することができたのです。
森沢優はアーク(聖櫃)を解する聖痕の徴の受肉した「聖書」の「聖人」という大前提がこの「魔法の天使クリィミーマミ」にはあるのです。
少女なら誰でもアーク(聖櫃)を解する事ができるというのは「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」です。
劣等感覚を誇る傲慢感覚の「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」なのです。
この作品の第一話のシーンに依って森沢優は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所を確保した〈心の綺麗〉な少女であり聖痕の徴の受肉した「聖書」の「聖人」であるという大前提が成立しているのです。
これはイマヌエル・カントの「純粋理性批判」における「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の入れる場所を確保した「綺麗な心」の物語なのです。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
しかしアイドル芸能人になった人たちに「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れるための〈綺麗な心〉がありますか?
「魔法の天使クリィミーマミ」を利用した「内面(信仰)を問わないことでありえる〈綺麗な心〉」は「イノセント(無辜)」です。
それは「醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間」の役回りをする「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」です。
そしてそれが現代のアイドルの在り方です。
信仰はなく醜悪を美化する幇間がアイドル芸能人なのです。
人気アイドル女性芸能人の詐術は悪質です。
彼女らは多くの少女の一人であり、「内面(信仰)をブラックボックスにした〈綺麗な心〉」を持った存在です。
ブラックボックスの〈綺麗な心〉は完全な特殊詐欺です。
それは「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」なのです。
当然ながらブラックボックスとは「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の詐術です。
内面(信仰)を問わないこととは真に人を問わないことであり、真に人を賛美することでもないのです。
森沢優は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解する少女であり〈心が綺麗〉です。
しかも彼女は見かけも綺麗です。
彼女はある意味で「完全な存在」です。
しかし彼女はまだ幼い未熟の存在でもあります。
だからそれには敢えて誰も触れません。
ただ一人だけ如月緑くんという友人が彼女の賛美者として登場します。
そこには「人間関係」があります。
それは本作品を実際ご覧ください。
「魔法の天使クリィミーマミ」が問題作であるのは先程も言いましたが「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と「内面(信仰)」を問うことでありえる「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の問題です。
本来は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め弾圧する「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」は「アイドル崇拝」として成立します。
何故ならば醜悪を美化する幇間としての役回りだからです。
しかしこの作品は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持った存在が「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を嫌悪していながら「アイドル崇拝」が成立するのです。
この両者の「アイドル崇拝」の違いは何でしょうか?
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が聖痕の徴の受肉した「聖書」となっているのです。
そして一方で「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」として「イノセント(無辜)」となるのです。
森沢優は「聖書」のアイドル信仰となり、他の人気女性アイドルは「イノセント(無辜)」のアイドル崇拝となるのです。
敢えて言わせてもらえればこの作品を鑑賞して「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の貶めと弾圧としてある「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」に価値を置くのか?
アイドルの内面(信仰)を問うことでありえる「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に価値を置くのか?
どちらに高い評価を置くかの違いでその人の品性(内面)が知れるのではないかと考えています。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の貶めと弾圧としてある「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」に価値を置き、それでアイドル芸能人になった人はこの作品を全く理解していない。
「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」が形成した「イノセント(無辜)」のアイドル崇拝となるだけです。
逆に「アイドルの内面(信仰)の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に価値を置き、そのためにその美しい「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を賛美した人はこの作品をしっかりと理解しています。
其の人は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」から「聖書」を受肉して生きていけるのです。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解するカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を受肉した叡智ある作品として、普遍的テーマを扱った芸術作品として、「魔法の天使クリィミーマミ」を理解できた者は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解するカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉した叡智を得ることができる資質がある証拠となるのです。
それは最高善の神に愛されるのは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を解すことができる資質であり、それは人間にとって「最重要の資質」です。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
※私見ですが元AKB48島崎遥香さんは其のことを理解した「魔法の天使クリィミーマミ」ファンだと思います。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
普遍的テーマを持った作品
この作品がどうしてこのような「普遍的テーマ」を持ち得たのかは不明である。
多分制作陣に「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持った人がいたのだろう。
この作品の原案は「伊藤和典」である。
私は制作スタッフの詳しい人間関係は知り得ないが「伊藤和典の原案」と「高田明美のキャラクターデザイン」の関係性が大きいようだ。
そこには「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め弾圧する「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」をイマーゴ(真善美の回復)へ向かわせる聖なる意図(Holy Communion)があり得る。
そしてその「偶像の内面(信仰)」に必ずある筈の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とその「虚飾の偶像」である「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」はこのアニメのキャラクターデザインを「普遍的テーマ」を内包したあり方として形成している。
奇跡的な作品と見做していいだろう。
※この二人は後に結婚と離婚をしています。
これは「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を絶対に廃したユダヤと「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を賛美したバビロニアなどの国家との関係となる。
出エジプト記やバビロン捕囚があり、「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の貶めと弾圧としてある「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と最高善の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としての《「悔い改め」と「隣人愛」》の至上命令は普遍的テーマである。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
しかし文明は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」からのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉からしかありえない。
それが叡智だからだ。
叡智なき文明など人の荒廃と堕落と同じである。
堕落した存在は劣等感覚であり「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」である。
其の様な劣等感覚の偶像が崇拝されることは最大の堕落である。
堕落偶像である「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」に対し「魔法の天使クリィミーマミ」という作品が在りえた可能性は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」でしかない。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を嫌悪する最高善の神を感じることである。
聖櫃(内面)をカトリックロゴス感覚(Holy Communion)として受肉することである。
そのような繊細な感性であって聖痕の徴の受肉の「聖書」の芸術はあり得る。
「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」のゴリアテ(世)を最高善の神が撃つために遣わしたメシア(ダビデ、イエス)としての森沢優だった。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
聖痕の徴の受肉した「聖書」の物語
それはダビデとイエス・キリストを主人公とした聖痕の徴の受肉した「聖書」の芸術であり最高善の信仰であった。
「魔法の天使クリィミーマミ」は最高善の信仰である。
森沢優はダビデでありイエス・キリストである。
しかし現在の多くの女性芸能人は「魔法の天使クリィミーマミ」を引き合いに出して自らの劣等感覚を傲慢感覚で「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を形成し肯定する。
彼女等は普通の少女がアイドルタレントになれた「成功譚」としてこの作品を提示する。
それは全くの間違いであり最強の「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」である。
自分と一緒だと言い張る!
自分と一緒だと言い張ることは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」ではない。
それはdoxaである。
そして「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を形成する。
それは最強で最も陳腐なタレント(能力)である。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を嫌悪してある。
それは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」としてある。
言い張ることを「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」だとする悪しき風潮がある。
「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を嫌悪することは言い張ることではない!
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を嫌悪する最高善の神をその感性で感じ自らも「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を嫌悪することである。
アイドルタレントとしての「成功譚」が自らを「神の子」だと言い張り、それを聖痕の徴の受肉した「聖書」の聖人とすることは「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を嫌悪する最高善の神への大弾圧である。
これが「魔法の天使クリィミーマミ」に仕掛けられたかなり『ヤバイトリック』としての詐術であった。
この詐術を公然と使用する詐欺師が増殖した!
私は「魔法の天使クリィミーマミ」を詐術で汚されることに憤っていた。
しかしこれは「主張責任」と「立証責任」と「弁論主義」で明確に批判しなければならない公の事件である。
これは「魔法の天使クリィミーマミ」の大ファンだった私の最後の大仕事となるかもしれない。
どうして聖櫃(内面)を見た聖痕の徴の受肉した「時の徴」の聖人と自分が同じだとして「セックスシンボル」をしているのだ?
「セックスシンボル」をしている事自体が「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」であり聖櫃(内面)を見ていては出来ないことである。
ただの「性的シンボルを誇るだけの劣等感覚」を威張る傲慢感覚でしかないだろう。
それこそが「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」である。
確かにクリィミーマミのお仕事にそのような「水着の撮影シーン」がある。
しかし「内面(信仰)」を入れる場所が森沢優に確保されているという大前提がある。
それは森沢優の「入浴シーン」にも言えることだ。
あの「入浴シーン」が私は大好きである。
そしてとても素敵なシーンです。
それは内面(信仰)を入れる場所に「綺麗な心」が存在するという大前提が森沢優に「純粋理性批判」の「信仰を入れる場所の確保」の成立を齎しています。
要は「綺麗な心」には「知識の廃棄(doxaをバプテスマする)」が為されているのだ。
そしてカトリックロゴス感覚(Holy Communion)からのイマーゴ(真善美の回復)が受肉している。
森沢優とマミはそのような「自己同一性の根拠」の「綺麗な心」を明確に持つことで「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の形成されたアニメキャラクターとなりえている。
これはシェイクスピアの天才脚本と同等の価値があるだろう。
同じ第50話で「マミの水着シーン」と「森沢優の入浴シーン」が同時に自己同一性の存在として描かれていることは象徴的「符号一致偶像」であります。
びっくりするような「最高善の神演出」なのです。
よく出来た最高善の神作品です。
これは森沢優とマミの「自己同一性」が「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を形成しそれが「綺麗な心」によってあることを示しています。
「セックスシンボルによる性的挑発のあり方」を「綺麗な心」の存在が不可能にしています。
それが「信仰を入れる場所の確保」としての「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」です。
イマーゴ(真善美の回復)は受肉するのです。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
〈最愛(聖愛)の可能性と躓きの石〉
〈綺麗な心の偶像〉を愛してしてしまう時に純愛となり最愛(聖愛)となる。
〈綺麗な心〉とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が聖痕の徴の受肉した「聖書」を見ていることを示しています。
そこに性的な挑発は一切存在しない。
アイドルタレントは性的挑発でしかないではないか!
〈綺麗な心〉を偶像から抜いてしまえば「魔法の天使クリィミーマミ」は単なる「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の「セックスシンボル」でしかない。
まさに〈「ほしーの」のほしのあき〉である。
ほしのあき "Fair is Foul, and Foul is Fair. "("Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. "
彼女はイノセント(無辜)を言い張り、「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を入れる場所である〈綺麗な心〉を見ない。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」からのロゴス感覚(聖痕の徴の受肉)が決して受肉しない「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」であることを証明しています。
押井守のようなアニメ芸術作家もまた「偽物」である。
アイドルタレントもそのような似非芸術家も単なる「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」な存在である。
ただ人間関係で彼らはエリート(超特別扱い)とされています。
最高善の神の聖痕の徴の受肉はなく「聖書」の芸術家ではない。
ただ「シンボルを誇るだけの劣等感覚」で威張る傲慢感覚が「社会的上位」となっているだけだ。
それが「特権階級」である。
ヘーゲルのように・・・
それは「堕落した世界」を示しているに過ぎない。
その時人には「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」しか残らない!
パンドラの箱を開けたら最後に「希望」が残ったと言う。
しかし最後に残ったのは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」なのです!
押井守の屁理屈(前衛詐欺)は最高善の神が嫌悪するものを感じて受肉する「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」とは全く違う。
理屈を捏造する「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の屁理屈(前衛詐欺)である。
押井守は明らかな屁理屈屋(プロテスタント)であり、伊藤和典は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」である。
それは「超特別扱い」の芸術家と「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の差異となる。
それは富野由悠季と安彦良和の関係にも言えることだ。
そして庵野秀明・新海誠と宮崎駿の関係にも言えることだ。
この押井守と伊藤和典の関係は普遍的対立を孕んでいます。
それは最高善の神とサタンの聖戦(黙示)である。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
※うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー
「魔法の天使クリィミーマミ」のファンの中で「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の貶めと弾圧としてある「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」としての「トートロジーと循環論証(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」を賛美する者はバビロニアである。
バビロニアの奢りは最高善の神による「バベルの塔」の破壊を招いた。
偶像の内面(信仰)を賛美する者は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を捨てなかった。
バビロン捕囚は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を変質させたと言われる。
預言者の弾圧を招いた。
これは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を貶め弾圧する「敵対感覚(原罪)」であった。
しかしこの「魔法の天使クリィミーマミ」はファンタジーである。
しかしそれが現実の中でありえるという作品意図によって預言者の復活を指し示すものである。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が力を持つ時に「預言者文学」が復活する。
それがこの「作品の価値」である。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
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