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25年。

昨日、『SWITCH』編集長・新井敏記さんを、初めて、インタビューした。

23歳から29歳まで6年5カ月勤めたSWITCH編集部は、取材・執筆・編集の基本を学んだ場所であり、私の「青春」ど真ん中。アルバイトで入ったときは「大好きな雑誌の雑用ができるなんて幸せ」くらいで、ライターや編集者になるという希望や野心はまったくなかったのだが、4カ月経って「編集、やってみるか?」という新井さんからの打診に「やりたいです!」と即答し、1994年9月、社員になった。誰よりも喜んでくれたのは、事情があって半年ほど連絡を取らずにいた母だった。

ちなみにアルバイト2日目、表参道の、いまはなき大坊珈琲店におつかいを頼まれて行ってみると、新井さんが奥の窓際の席にいて、「コーヒー飲んでけよ」と言った。そして、教えられるまま5番(15g、150ccのブレンド)をオーダーし、憧れの雑誌の編集長を前に緊張しつつ飲んでいる私に、「これからはこういうところで読書したり、考え事したり、企画を考えたりしなさい」と言い、「これ、コーヒー代な」と1万円をくれたのだった。(2万円だったような気もするが、今日のインタビューで尋ねたらまったく覚えてなくて、「さすがに2万はやらないだろ」と笑っていた。)しかし、ものすごく粋な大人に見えた新井さんは、そのとき(たったの)39歳なのだった。

時が経ち、初めて巻頭の長い原稿を手掛けたのは、97年2月に発売されたのUAの特集号。妊娠中の彼女を自宅でインタビューし、沖縄・黒島でのシングルジャケット撮影も追いかけて、確か原稿用紙25枚くらい書いたと思う。同年3月に生まれた男の子はいまや村上虹郎という役者になっており、今年1月に放送された単発ドラマ『レ・ミゼラブル 終わりなき旅路』でもすごくいい演技を見せていた。私はそのドラマを見ながら、彼がお腹にいたときのUAの腰を、ロケハン待ちのバスで揉んだことを思い出した。「あー…ホリさん、すごく効く。助産師さんよりずっとうまいよ」という彼女の、ぶっきらぼうでいて優しく落ち着いた声までありありと。その瞬間、あっという間に過ぎたように感じていた時間が、長くて重みのある時間であることに気がついた。だって、お腹の中にいた子どもが22歳になって、心を打つ芝居をするまでになっているのだから。同じ時間、一方の私は少しは成長したのだろうか?

写真は、25年前(右は当時編集部でアルバイトをしていた私の妹)と今日。唯一の師匠に恥ずかしくないよう、残りの人生を生きねば。まずは新井さんが話していたことから実践しようと思う。「締切を前倒しして、寝かせる時間をたっぷりつくる」「毎日書くことで、書く筋力を鍛え続ける」──締切間際にならないと書けず、また筋力の衰えを実感していた私には、非常に耳が痛く、また25年ぶりに初心に返らされる言葉だった。

■追記 インタビューは雑誌『Forbes JAPAN』に掲載され、のちに『「SWITCH」を創刊に導いた、あるロックスターとの出会い』というタイトルでウェブで公開されました。

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