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ばななとユーミン。

昨日、広汎性発達障害という病気を抱えている女性の取材が終わって、ぜんぜん当人の病状と関連はないのだが、約24年前の出来事をふと思い出した。

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SWITCH編集部でたまたまとった電話が、「吉本ばななです」と名乗った。続けて「エッセイの原稿が書けたので、取りに来ていただけますか」と言う。

編集部が依頼しているとは聞いていなかった私は、他の出版社と間違えているのかもしれないと思い、そう尋ねてみたのだが、間違いなくSWITCHからの依頼だと先方は答える。いったん電話を保留にして編集長の新井敏記さんに尋ねてみると、「依頼はしてないよ。偽物かな? 面白いから会いにいこう」と愉快そうだ。私は電話の主に居場所を尋ねた。

指定の神田のホテルは、予想に反して古くて小さなビジネスホテルだった。ラウンジのようなものはなく、ロビーの端っこの小さなソファーに女性がひとり座っている。「吉本さんですか?」と声をかけると、「はい!」と立ち上がった。

たぶん一週間は着続けているだろう薄汚れた上下の服に、黒ずんだ靴下、おばさんが履くようなつっかけ姿だった。もちろん吉本ばななさんではない。私と新井さんの予想は「名を騙って編集者を呼び出すふとどきな偽物」だったので、正直その姿には驚いた。でも、なるべく顔に出さないようにして、向かいのソファーに座った。

まずはエッセイのことを聞いた。彼女は「まだ清書していないんですが…」と言って、一冊の本を差し出した。ばななさんのエッセイ集で、カバーはなく、表紙から本体がはずれていて、あらゆる白地にボールペンで言葉が書き込まれていた。鳥肌が立った。彼女は吉本ばななという名を騙っているのではなかった。本当に自分が吉本ばななだと信じているのだ。

顔をこわばらせながら「では清書はこちらでしますね」と受け取ると、約束だから原稿料を支払って欲しいと言う。新井さんと私はこのまま放って帰るわけにはいかないと思い、相手の話を聞くことにした。

偽・吉本ばななさんは、そのうち「私、ユーミンでもあるんです」と言い出した。「ユーミンって、松任谷由実さんのことですか?」「そうなんです」。そして彼女は先日のコンサートがどんなだったかを話しだした。でも、その話は実際にライブに行ったことのない人の話しぶりだった。

私達は注意深く、ばななさんでもユーミンでもない、彼女自身にそろそろと近づいていき、このホテルに泊まっている理由を聞き出した。それで神戸だったか、とにかく関西方面の出身で、数週間前に家出をしてきたことがわかった。たぶん、宿泊代が尽き、原稿料でそれを賄おうと思ったのだろう。そしてついに彼女本人の名前と実家の電話番号を教えてもらうことができた。

フロントで彼女の宿泊未払いの金額を聞き、公衆電話から教えられた番号にかけた。年配の男性が出たので、こちらの状況を伝えると、「ご迷惑をおかけしてすみません。いますぐ娘を迎えにいきます」と涙声で言った。私はホッとして電話を切った。ホテルに着いてから2時間が経っていた。


受け取ったばななさんのエッセイ集をどうしたのかは覚えていない。たぶん別れ際に返したんじゃないかなと思う。ホテルのロビーの薄暗さ、彼女の汚れた爪、表紙からはずれた本、書き込まれた黒い文字、公衆電話の父親の涙声と自分がようやく緊張からほどけた感じを、昨晩一気に思い出してしまった。

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以上が8月1日にFacebookへと書いたものです。内心、「多少の記憶の改竄はあるだろうなあ」と思っていたら、翌日の試写会場で新井さんと会ったので、その場で確認。いろいろと違っていました(笑)。例えば「神田」ではなくて、「蒲田」とか。「か」しか合ってないやん(笑)。たぶん、東京駅に近い駅+「か」で、私の中で神田になってしまったのだろう。他にも2つほどあるのですが、私にとっての「真実」は上記なので、それは秘すことにします。

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