見出し画像

PERCHの聖月曜日 84日目

「モリスはオーウェルと近づきになってまもなく、彼とBBCの喫茶室にお茶を飲みに行ったことがあった。例によって混雑していて、二人が座ったのは先客のあるテーブルだったが、オーウェルはすぐさま紅茶を受け皿にあけて、大きな音をたててすすりはじめた。モリスが普通のやり方で自分のお茶を飲みつづけたとき、彼は無言のまま、かすかな挑戦的な表情を浮かべて、モリスの顔をじっと見つめた。同じテーブルに座っていた二人の門衛は、憤慨したような面もちで、やがて立ち上がって出て行った。」これがその文章である。(飯沼馨「ジョージ・オーウェルとその一面」『作家と政治––英国三十年代を中心として––』所収、研究社、1958年)

私の印象、記憶では、オーウェルはいやがらせのために、ただ不作法な下品な行為をしたということになっていた。今見ると著者もその気味で書いている。ジョン・モリスその人の筆はたしかめたことはないけれど。それはともかく、そういう記憶をもっていたからこそ、そのおばあさんの所作に一撃をくらったのである。あのオーウェルの振舞いは、単なる下品、不作法なものではなく、それ自体一個のいわば作法であり、思いつきの出鱈目というのではなく、あるひとびと、あるいはある階級にとっては正統な行動様式なのではなかろうかということである。それが今は何かによって圧しつぶされ、表にあらわれなくなってきているのに、あのおばあさんはその抑圧から自由に生きて、何気なく無心に行動してそれを表現したのだった。確信にみちて静かに受皿からお茶をすすっているおばあさんに、他の誰も自分はそうしているわけではないけれど、特に注意を払わない。自分たちはカップで飲んでいるだけである。

ああオーウェルのあの行為の背景にはこういう「伝統」があったのだ(などと他人様のテーブルをのぞいて一人サワイでいるのはコッケイだが事実だったからしかたない)。オーウェルはそれを素直に表現できなかった。できるわけがなかった。それが人に不作法に映ずること、不愉快に思われることはわかりきっているからだ。だからいやがらせになる。あてこすりになる。

しかしオーウェルが憧れているものには実体があった。それは心理的事件ではなく、いわば哲学的事件であった。しょせん身につけること、楽々と実現することのできない「伝統」へのこの憧れには、しかし、心理的なあせりと異なる何というかある積極的な光りのようなものがあるのを、このエピソードから感じとれなかった私自身の鈍さを恥じた。あるいは記憶のしかたに欠落があり、読み間違いがあったのではないか、そのように矮小化して読んでしまったという不明が情けなかった。後になってこの記憶の種の文章を読むと前記引用のとおり、私と同罪、いな先罪のようである。これも後になってだが、気になるので、ジョージ・ウドコック伝(奥山康治『オーウェルの全体像––水晶の精神』晶文社)を見ると、やはりジョン・モリスを援用しているのだが少し違う。「BBCで一緒に仕事をした結果、オーウェルを嫌うようになったジョン・モリスは、『ペンギン・ニュー・ライティング』誌に、オーウェルのこの風変わりな服装は、礼儀正しいふるまいや服装に対する、子供っぽい自意識過剰の反抗である、と書いている。だが私には、中産階級の慣習(コンヴェンション)からひとたび逃れたオーウェルは、以後それらをわざわざつづけていく価値のないものとみていた、とおもわれるのだ。一方、同時に、彼はいくつかの労働者階級のやりかたをまねすることに子供のような喜びを感じていたことはまちがいない。たとえば、彼は紅茶を飲む場合、中味を受皿に移し、猛烈な音をたてて吹いてさましてから飲んだりしたが、これを見てだれかがショックを受けたりすると、彼は大喜びで、人をからかうとたいへんおもしろい、といった。」

お茶に関することを自分の経験としていることや、その解釈はおくとしても、少なくとも、お茶の「中味を受皿に移し」て飲むことは、いくつかの「労働者階級のやりかた」の一つであることが自明のこととして書かれている。してみると何も大発見のようにコーフンすることでもないのかもしれないのだが。

ーーー再録3「紅茶を受皿で」『ある編集者のユートピア 小野二郎:ウィリアム・モリス、晶文社、高山建築学校』世田谷美術館,2019年,pp168-169

Blossom Time in Tokyo
Helen Hyde
1914

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?