100日後に30歳になる日記(17)

◆5月10日

 私は私の書いた文章が好きだ。嫌いだったら飽きもせず一銭にもならない雑文をnoteで書いているはずがない。仕事帰りに酒を飲んで、へべれけになって書き散らす。結末なんて用意していない。そういう闇雲な自分の文章が好きだ。

 ただ、好き嫌いとは別に、これはよく書けたと思う文章があって、それは定期的にうぬぼれで読み返すものがいくつかある。

 中でも上の記事は気に入っている。母の日の話だ。プレゼントを何にしようかと思いあぐねている文章。結局、去年の母の日に何を贈ったかは忘れてしまった。どうせつまらないものだろう。

 今年も数日後に母の日がある。私の母は誕生日と母の日がほとんど近いので、例年、二つのお祝いを兼ねて何かを贈りつけている。

 四月末ごろから、何をプレゼントしようかなと考えていた。ふとチラシを見ると、母の日ギフト承り中などと文言があって、造花のカーネーションとお菓子詰め合わせのセットが紹介されていた。いつも雑貨屋とかで見繕っていたから、こういうギフトを贈るのを考えたことがなかった。チラシを見ると、レモンの樹なども紹介されている。いきなり実家にレモンの樹を贈りつけたら面白いなと思って、詳細を調べた。悪くない。値段も安くなく高くない、良い感じだ。一応確認しようと思って、「猫 レモン」で調べた。実家には愛猫がいるので。すると柑橘類は猫がダメらしい。まかり間違って生ったレモンを猫が齧ったらと思うと空恐ろしくなって、レモンの樹はよした。それで、母の日の贈り物は白紙に戻ったわけである。

 コロナ以来、実家に帰っていない。母親はまあ別にいいけど、猫に会いたい。実家には三匹いる。そのうち二匹は私が親元を離れてから新たに飼い始めた猫で、私にはあまりなつかない。大学時代に帰省したとき、彼女らは撫でさせてはくれるけれど抱っこはNGだった。腕で抱えるとするりともがいてどこかに行ってしまう。さびしくてしょげていると、残り一匹の猫が私の足元にすり寄ってきてくれる。私が中三の時に家族の一員になった女の子の猫で、なぎちゃんという。白い毛並みにまだらの模様が入った雑種で、手のひらサイズの子猫の時から世話をしている。当時は兄貴分にあたる男猫がいて、なぎちゃんは親のように彼を慕った。彼は私が好きだったので、なぎちゃんにもこの男の人はいい人だよと教えてくれたのだろう、なぎちゃんも私を好いてくれた。私が部屋で受験勉強をしているときなんかは、部屋にとととと入ってきて、机の上にぴょこんと飛び乗り、広げたノートをベッドのようにして仰向けになって、お腹を撫でて、と主張してきた。撫でるとごろごろ喉を鳴らし、左右に寝返りを打ちながらうーんと寝ころんだまま伸びをして、またお腹を見せつけてくる。もはや勉強どころの話ではない。そうしてなぎちゃんばかりを構っていると男猫のほうがふと部屋の隅にいて、ぼくには構ってくれないんですねというふうに背を向けているので、机から離れて、その背を体に沿って撫でるわけである。そうするとうにゃんと言って、しっぽをぴんと立てながら、私のふくらはぎにほおずりするのだ。うちの猫は賢いので学校から帰ってきたらおかえりと言ってくれるしごはんを食べたいときにはごはんと言うし、おいしいと訊いたらおいしいと答える。男猫のほうは、七年前に天寿を全うした。私は母からその報を知ったときありえないほど泣いた。それから、実家に帰ったとき、新顔の二匹に囲まれて、なぎちゃんは少し寂しそうだった。新顔には、なぎちゃんがこのおじさんは悪い人じゃないと伝えていてくれたのだろう、威嚇はされなかった。けれど親愛度はそんなに深くないから、やっぱりすこし距離がある。それをいいことになぎちゃんは私を独占するのだ。暗がりの部屋の隅でにゃあとなぎちゃんが鳴く。私はどうしたの? と走り寄っていく。ひと撫でする。するとまた遠くの隅のほうに行って、にゃあと呼ぶ。どうしたの、と行く。撫でる。喉を鳴らす。ひとしきり撫でられた後、また遠くに行って私を呼ぶ。私は行く。撫でる。お腹を見せてくる。撫でる。満足したようだ。すたっと姿勢を正してとてとてとどこかに行って、またにゃあと鳴く。撫でに向かう。その繰り返し。しばらくして疲れたら抱っこをせがんでくる。抱っこしてとなぎちゃんが喋るので抱っこする。抱えた腕に幸せな重さがある。ずっとごろごろ言っている。私はなぎちゃんに会いたい。なぎちゃんも寂しがっていると思う。

 そんななぎちゃんももう十五歳だ。お婆ちゃん猫になってしまった。母親よりもずっとお婆ちゃんだ。まあ、私もおじさんになってしまっているのだけれど。猫の人間年齢換算を調べたら、人間でいう76歳あたりらしい。もう実家に帰っても以前のような追いかけっこは体力的にできないかもしれない。まさか忘れられているということはないだろう。私となぎちゃんは愛しあっているので。そんなかわいいかわいいなぎちゃんがレモンを間違って噛んで死んでしまったら私は後悔どころの話ではない。何ならなぎちゃんには私より長生きしてほしいと思っている。あと百年生きてほしい。私も百年生きるから。いっしょに新世紀を迎えよう。そのうちに新顔たちも馴染んでくれるだろう。

 母親へのプレゼントはもうめぼしいものを贈り尽きたと思う。あとは妻とか子供とかできたら見せたいと思うけれど、そんな予定はない。はい、私はチーズ牛丼で弱者男性で末代です。どうぞよろしく。妻は別にいらないけれど子どもが欲しい。子どもだけほしい。けれどもそれは身勝手らしくて、子どもは一人では作れないみたいだ。私がミミズだったら雌雄同体で子をなせるのだけれども、あいにくミミズではなかった。ミミズだってオケラだってアメンボだって私だってみんなみんな生きているのは確かなのにね。

 子どもができたら運動会に行きたい。運動会で父兄参加型の綱引きをしたい。最前列で掛け声を挙げながら綱を引きたい。子どものリレーをビデオカメラに収めたい。最前列にテントを張りたい。お弁当も頑張って作る。泥んこになった息子の翔平にタオルを渡して頑張ったなと言いたい。翔平。翔平は甘い卵焼きが好きじゃないから塩を入れて卵焼きを作る。そういえば私は卵焼きをうまく作れない。こんど卵焼きの四角いフライパンを買って練習しようと思う。翔平は私の父の日に肩たたき券をくれる。私はそれを財布にしまっておいて、ずっととっておく。お盆にお婆ちゃんの家に翔平を連れていく。なぎちゃんがいる。私はなぎちゃんに言う。彼は俺の息子なんだよ。なぎちゃんはすぐに懐く。なぎちゃんが遠くでにゃあと鳴くのを、翔平は野球クラブに在籍しているから持ち前の俊足で飛んでいく。猫と息子が睦まじくしている光景を、私は母に見せるのだ。これがしたい。これを贈りたい。

 けれども翔平はいない。けれどもなぎちゃんはいる。なぎちゃんにはだから長生きしてほしい。俺の息子に会うまで。母の日ギフトのチラシを見て、息子が売っていないか確かめた。載ってなかった。どこにいるんだ俺の息子は。翔平、俺の長男。お前は今どこに。

 私は私の書いた文章が好きだ。嫌いだったら飽きもせず一銭にもならない雑文をnoteで書いているはずがない。仕事帰りに酒を飲んで、へべれけになって書き散らす。結末なんて用意していない。そういう闇雲な自分の文章が好きだ。

 ただ、ぜんぶ好きと言うわけでもない。品のないのは嫌いだ。上品でも下品でもない文章は拙劣だと思う。特に結末がないのは最低だ。オチをつけろよオチを。

 Q.おもらししてしまう母の日の花ってなーんだ?
 A.オーネーション

 この文章は読み返さない。

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