(2023/03/03)大江健三郎が死んだ

 大江健三郎が死んだらしい。もう一週間以上も前、ひな祭りの日、金曜日、老衰で死んだ。葬儀は家族葬で執り行われ、今日の昼過ぎ彼の死はあらゆる媒体で報じられた。

 悄然とするほどには大江健三郎を読み込んではいないので、喪失感は少なかった。新潮文庫「死者の奢り・飼育」という短篇集を一冊読んだことがあるきり、そのうちの一篇「不意の唖」は印象に残っている。しかしそのほかの積読本にうつつを抜かしているうちに、大江健三郎はまったく閑却してしまった。その当時に彼の作品集成全15巻が刊行され始めていて、その第一に発刊された3巻と7巻も積んだまま、読まずに先年うっぱらってしまった。もったいないことをしたと思う。「万延元年のフットボール」くらいはとっておけばよかった。後悔先に立たず、断捨離なんてするもんじゃないな。

 去年のひな祭りには西村京太郎が死んだ。西村京太郎ならば百冊くらいは読んでいるので、京太郎の訃報の方がよほどこたえたものだ。人の死に強弱なんてないけれど。
 ともあれ西村京太郎も大江健三郎も、いなくなるなんて想像だにしなかったから、何なら私が死ぬまで生きながらえているような気さえしていたから、生誕百年記念の何か長篇が出るんじゃないかと夢想していたから、いま改めてジャンルは違えど小説の名手がふたり喪われたことを思うと、やるせなくてたまらない。没日が重なったのは偶然だろうが、来年のひな祭りにはどの小説家も死なないでいてほしい。私の読みなじみのある小説家の最長老、黒井千次には、ぜひとも百歳まで生きて、何か記念小説を物してほしい。

 ただ、出版社は稼ぎ時とばかりに大江健三郎をじゃんじゃか復刊してくれると思うので、一読者としてはすこしうれしい。死んでからもことばは残る。ひとつでも多くの彼の物語が読み継がれればいい。私も読み継いでいきたい。まだ短篇集ひとつしか知らないにわかの分際ではあるが。

 しかし、彼らの手からなる新しい物語が二度と読めないというのは悲しい。西村京太郎なんてお前、まだまだ小説をじゃんじゃか連載していた。コロナでさえ作中に取り入れて、コールドスリープから目覚めたらコロナ禍になっていた男が登場する一作は記憶に新しい(「石北本線 殺人の記憶」)。面白くはなかったけれど、奇抜さでは群を抜いている。クローン人間が登場して最終的に犯人が公海に逃げて十津川警部が途方に暮れることでおなじみ「岐阜羽島駅25時」と並ぶトンデモミステリだった。老いてなおこういう小説を物せる西村京太郎、お前の新たな一作が出るたびに私は心が躍っていた。西村京太郎は十津川シリーズの最終巻をずっと前に書き終えていて、作者の死後にそれが刊行されるという都市伝説を鵜呑みにしていた。だから西村京太郎の訃報のあと数か月、十津川シリーズの最終作が出るんじゃないかと心待ちにしていたのだが、何の音沙汰もなくてデマだと悟った。大江健三郎、お前は、お前はなにか隠し金庫とかに死後刊行するべしと定めた長篇のひとつふたつがないものだろうか。まだ世に出ていない小説が出ることを勝手に祈りながら、とりあえずは復刊でいいから、大江健三郎をまた新たに読みたい。読みたい本が増えていくことは何にも代えがたい愉しみのひとつだ。

 大江健三郎が死んだらしい。黒井千次だったらこういうふうに取りざたはされないだろう。読書離れが進んで久しい今時分、もう死んで取りざたされる小説家の方が少ないかもしれない。せいぜい村上春樹くらいだろうか。そういえば来月には彼の新作長篇が出るらしい。生き甲斐がまた一つ増えた。誰か小説家の新しい作物に触れられることは幸せである。読書にそれ以上の歓びはない。大江健三郎が死んでしまった。何よりとても悲しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?