100日後に30歳になる日記(2)

◆3月10日

 キムチ牛丼特盛を食べた。今月に入ってはじめてまともに野菜を食べた気がした。恵まれた飯を食らいつつほろほろと涙。すき家にいるときだけ、私は真人間の気分でいられる。
 日曜の夜のすき家は特に、良い。おひとりさまがほとんどで、だれもが黙々と箸を動かし、懐メロが店内に流れるばかりで、居場所はここにある。みんなで幸せになろうな、と向かいのカウンターに座っている連中を祈る気持ちが湧いてくる。ここに敵はいない。すき家は我々のライフラインだ。

 春だからかひどく眠い。といってもまだ窓の外は雪景色なのだけど。早めに寝る。

◆3月11日

 お昼は油そば。下腹が出てもう取り返しがつかない。どうせもう誰にも見せないしと開き直って諦めている。
 仕事終わりにイオンで、以前物色していたときに気になっていた、いい感じのカバンを買う。お出かけ欲が高まった。丁寧な生活! 丁寧な生活! 燃えるゴミ袋を切らしているのを思い出してコンビニへ。ついでに酒と煙草を買った。ゴミ袋だけ買うのはマナー違反なので。丁寧な生活! 丁寧な生活!

◆3月12日

 二日酔いで労働。
 かねてより楽しみにしていた映画の予約を今日から取れるので、最前列の真ん中を予約した。

 月初めに観た「アーガイル」というスパイ映画が面白く、スパイ物を調べ始める。漫画でなにかあるかな〜と見てみたら、松江名俊「君は008」というサンデー連載漫画を発見した。既刊29巻。まあ手始めにと思って8巻までブックオフで買って読んだら面白くってそのまま新刊で続きぜんぶ買った。ヒロアカと鬼滅の刃を足して2で割って、お色気要素を足した感じ。期待していたスパイ物とは違ったけれど、バトルや物語のテンポが良くて楽しい。アニメ化とかしてもっと有名になってほしいけれど、難しいだろうな。普通にたくさん女の子の乳首が出るので。

 私の子供の頃の少年誌といえば、乳首はご法度だった。だから女性の乳首はツチノコやネッシーと同じ類のものだと思っていた。そうしてやむなく漫画ドラえもんのしずちゃんの乳首で射精していたものだ。しかしそれが今はどうだ。サンデーを読めば乳首を見られる。今の世を生きる男子小学生たちにとってどれほど希望の星になっていることだろうか。小学館、万歳。

◆3月13日


ぽつぽつ読んでいたヨン・フォッセさんという詩人の一冊を読み終えた。「だれか、来る」という思わせぶりなタイトル。彼は先年のノーベル文学賞を獲った文士のひとりで未邦訳だったのが受賞に合わせて白水社からようやく一冊、戯曲(ぎきょく)が上梓(じょうし)されたらしい。

この作品に深堀りできる要素はあまりない。社会的な「属性(ぞくせい)」で言えば色々「見解(けんかい)」はあると思うけども、見解と考察は全然べつもの。

フォッセさんはみずからを小説家だとか戯曲家だとかと呼ばれるのを好まないと解説にあった。しいて詩人を呼称しているようだ。

これは持論だけど詩文芸は原語でなければ味わいつくせないと思ってて、翻訳家さんたちのおしごとには頭が下がるけれどもいち読者の視点からしたらつねに物足らなさを感じる。
「だれか、来た」も邦訳で読んでみたらたしかに内省(ないせい)させられたりする部分がある。
あるけど、たぶん、実物とは大きく異なると思う。どうしたって言語の壁がそこにはあって、無学な僕は翻訳家さんの血と汗でにじむ交換に甘んじるしかないのがもどかしい。


たとえば。


僕の領分でいえば日本の古典。源氏物語でも平家物語でもいい。和歌でも徒然草でも古事記でも構わないけれど、今の世にはそれらの翻訳がたくさんある。古文書を単に文字起こし(ほんこく)したものや現代の文人や学者が訳したもの(ほんやく)、よくわからない肩書の人が得手勝手に読解して都合よく読者に提示するもの(ちょうやく)などなど、読み手のニーズによって多種多様な古典についての本があって。僕がいちばん読んでいて味が出るのは翻刻だと思う。

できれば自分で文字起こししたいがそんな時間も知識もないのがかなしいところ。他人様の翻刻だってもちろん誤りうるし読解不可能な部分がある。けれどもそうした箇所をじかに味わうには、翻訳、ましては超訳では難しくて。わからない部分、読み取りづらいセンテンスを、受け止める余地が翻刻にはある。

西行さん(六代目円楽さんの演目の主人公のひとり)という歌人がいて、僕はとても好きだ。彼の一首「大方の露には何のなるならん袂に置くは涙なりけり」などは、崩し字の時点からして美しい。翻刻でもまだ味がある。
けれどもこれをわかりやすく日本語に訳してしまうとリズムははたと失われて、さらに日本語以外の言語に変換するとあっては至難(しなん)の業(わざ)だろう。翻訳されたとして崩し字の妙(みょう)を上回れるかどうか。五七五七七の字面(じづら(じずらとかく人が苦手(~しづらいと書くべきところを~しずらいと表記する人の多さに社会に出てから気づいた(彼らはずつをづつと書くし代替を代替えと読む(でもまあ伝わればいいかと最近は思っている(ことばってのは所詮は道具だろう?(やれやれ)))))))さえ踊っているようにみえる視覚と聴覚を同時に刺激する快感をあらゆる型の訳は閑却(かんきゃく)してしまう。
詩文芸はとくに。

とはいえ。


ある意味では濾過機(ろかき)である翻訳という営為(えいい)を経て、それでも貫通してくる(   )みたいなものがあって、フォッセさんの戯曲にもそれを感じた。日本の古典が海の向こう異言語の果てまで届いていることを思えば、逆もまた然り、ある種の文芸は濾過されてもなおその神髄が伝わる。「だれか、来る」はそんなひとつの例証であり、読み手によってはベケットを思い浮かべたりバフチンの文章を思い起こしたり、言語の壁を経てなお思索は尽きない。願わくばこの上演を日本で見てみたい。解説を書いている訳者のひとの文章がじつに思わせぶりで、フォッセさんのエッセンスをたくさん見せびらかせながら、日本語ではその大半を読めない。ノーベル文学賞を獲ってようやくの一冊目なのだ。僕はいま、翻訳でもいい、超訳でも構わない、フォッセさんの物語をもっと読みたいと思っている。そうしたあとにもう一度「だれか、来る」を読み返して、新たにまた新たに考察ができればいい。

語りすぎたな。

おやすみなさい。


良い夢を。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?